第二章 6 レディ・ユングリット

 来客のことを城代に告げられてから、ユングリットはきちんと身づくろいをすませてきたにちがいない。

 髪はきれいに結い上げられ、薄化粧もほどこされていた。

 その固い表情からすると、しばらく前から二人のやり取りを聞いていたらしい。


 なぜ娘まで呼ぶ必要があったのか。

 公爵は若者の意図をいぶかしんだ。

「……あなたは、いったい何を考えているのです?」

 公爵は、ふたたび口調をあらためて尋ねた。


「三年前の出来事のことです。皇帝がみずから手本を示してくれたではありませんか。あのとき彼は、皇女カナリエルと北方王国の王太子の婚姻を実現させようとしました」

「まさか、娘と政略結婚を……!」

 ボルフィンは、顔色を変えて若者に向き直った。


「政略結婚かどうかは、本人同士の意思がどこにあるかによるでしょう。さあ、レディ・ユングリット。お待ちしていました。こちらへどうぞ――」

 若者は椅子から立ち上がり、芝居がかったしぐさでうやうやしくさし招いた。

 ユングリットは大きな眼を見開き、両手を固く握りしめてゆっくりと円卓のほうへ近づいた。

 その場を支配していた重苦しい空気が、別種の緊張感をはらんだものに変わった。


 マザー・ミランディアのもとで生命回廊のシスターを務めていた頃、ユングリットは寮母の娘のカナリエルと、独身男性の人気をほぼ二分する存在だった。

 陽気でくるくると表情の変わるカナリエルに対して、ユングリットはつねにひっそりと静まりかえった湖のように感情をあらわにせず、深い憂愁をたたえた物語の中に住んでいる人物のようだった。

 光と影、太陽と月のように好対照の美貌は、どちらが好みかによってその男の性格がわかるとまで言われたほどである。


 ユングリットは、二人と三角形をなす位置の椅子にそっと腰を下ろした。

 彫りの深い横顔は、マルリイの盟約の男を前に、今は名工の作った白磁の人形のように硬い表情をしていて、親の公爵でさえその心を読み取ることができなかった。


「ボルフィン公、わたしは率直に申し上げます。公のお国ランダールとわたしが継承することになる国を合わせれば、皇帝領に次ぐ規模の領地を帝国の中に現出させることができます。経済力や軍事力はもちろん、帝国におよぼす影響力の大きさははかり知れないでしょう。しかし、そのために無駄に血を流すことも、難しい交渉を重ねることもいりません。皇帝の裁可を受ける必要さえないのです。スピリチュアルのすべての若い男女に許された、当然の権利を行使するだけのことなのですからね」

 公爵は、男がクラウビッツ城に姿を現した意図をようやく完全に理解した。

「そのようなことを……」


「そう、おそらくだれも考えつかないでしょうね。新制度になってまだ三年。将来に後継者問題に直面しそうな国はいくつもありますが、ただちに決断を必要とするケースは現れていないし、皇帝府もそのことについてはまだ明確な方針を示してはいません。それに、継承者同士の婚姻が現実的に考えられるのは、男女ともほんの数人しかいないでしょう。これはその可能性を示す最初の実例となるのです」

 若者は得々として語った。


「それをきっかけに、いよいよ淘汰――というか、再編が始まることになります。結ばれた両国にはさまれた小国群はどう反応するのか。両国の軍事力や経済力に対抗しようとする大国は、どのような手段を講じてくるのか。帝国じゅうが沸きたち、活発な動きが起きてくるでしょう。いずれにせよ、われわれはその動きに最初の一石を投じるだけでなく、二歩も三歩も先行し、盟約を実質的に主導する力を持つことができるというわけです」

「あなたが求めている協力とは、そのことだったのだな」

「協力? いいえ。わたしが欲しいのは、お嬢さまのご同意だけです。公爵には、二人で話し合う機会をお与えいただければそれでいいのです。いかがですか?」

 若者は公爵の答えを待った。


 スピリチュアルの男女の関係は、あくまでも当人同士の意思の問題とされている。

 ボルフィン公爵は、知的で開明的であるがために、持ちかけられた話の内容にいくら不満や納得のいかないところがあったとしても、ひと言のもとに申し出をはねつけるようなふるまいができる人ではなかった。

 明らかにそのことを見すかしている若者は、無邪気なくらい迷いのない表情で、公爵とユングリットの顔を交互に見た。

「ユングリット、おまえはどうなのだ?」

 公爵は娘の顔を見つめ、やっとかすれた声で尋ねた。


 淡く煙るような眼差しがユングリットのいちばんの特徴だった。

 その視線の先を円卓の表面にすえたまま、数呼吸おいてから口を開いた。

「お話を、おうかがいしとうございます……」


 その言葉を聞くと、公爵はあきらめたように首をうなずかせ、二人をすぐ上の塔の屋上へ昇らせた。

 何かあれば、娘が声を上げるだろう。

 たとえ悲鳴が聞こえたとしても、足の悪い公爵がすぐに駆けつけてやることはできないが、だからといって隣室からもれる気配や話し声に耳をそばだてているようなことには耐えられなかった。

 そして、娘が男と二人きりでいるところをほかの者に見張らせるのは、もっと耐えられそうになかったのだ。

 公爵はそのまま凝然として居間の椅子に座りつづけた。


 塔の上では、もう夏の早朝の冷たい風が吹きだしていた。

 城を囲む巨木の連なりのむこうにビュリスの街の灯が光の粉を振りまいたようにまたたいていて、そのさらにむこうには、漁に出た小舟がともす漁り火がいくつも川面に映ってゆらめいている。

 川は、大陸を南北に貫通する大河グランディルである。


 一帯は川が作った氾濫原で、国境の山塊に達するまでの広い盆地が公爵領となっている。

 川が上流から運んだ土は肥沃で、豊かな実りをもたらしてくれる。

 その一方で、くり返される洪水に毎年のように悩まされてきたが、堅固な堤防を築くなどの治水工事を進めていけば、利用可能な土地はまだまだ広がるはずだった。

 北側にはどこまでもつづく深い森林地帯が広がっており、最北部は山脈によって北方王国と接している。


 グランディル川は山脈に源を発し、いったん北方王国に流れこみ、ぐるりと回りこんでから山岳地帯を抜け、この地に達するのである。

 ビュリスは、その流れがおだやかになり、水量もたっぷりとして大型の船の航行がようやく可能になる地点に位置している。

 南から運ばれてきた物資はここで荷揚げされるため、古くから水運で栄えてきた街である。


「ランダールは風光明媚なうえに、風にまで豊かさの匂いが感じられる。あなたは素晴らしいところにお住みですね」

 長く伸ばした髪を風にはためかせながら、若者はユングリットに言った。

「そうでしょうか……」

 ユングリットは無感動な声で答えた。

 彼女のつややかな墨色の髪は固く結い上げられていたが、耳わきのおくれ毛だけは頼りなさそうに風に揺れている。


「西街道を馬でやって来る途中、どの宿場もにぎわっていたし、路上には北方産の駿馬を連ねた行列や荷を満載した馬車がひっきりなしに行きかっていました。水運も合わせたら、膨大な物資がビュリスで取り引きされていることになる。港では、沖を大きな丸太をたくさん組んだ筏が川を下っていくのも見えた。北の森林地帯から切り出された木材でしょう。新しい国々ではどこも建設がさかんで、多くの資材を必要としていますからね。これだけの富と活況を見たら、よだれをたらさない貴族はいませんよ」

「あなたが手に入れようとなさっているのは、ランダールなんですか? ……それとも、このわたくしなんですか?」

 ユングリットは、むき出しの腕を両手で抱きしめて言った。

 その仕草は、寒さのためでもあるのだろうが、固く身を守ろうとしているようにも見えた。


「もちろん、どちらもです」

 若者は、何のためらいもなく答えた。

「あなたは、お父上が丹精こめて育てているランダールを、わたしが横取りしようとしているように感じたかもしれませんが、それはちがいます。国が豊かであるということは、それだけ外敵の脅威にさらされるということです。とくにこのランダールは、北方王国と境を接していますからね。われわれ二国が合体すれば、単純に計算しても二倍の防御力を備えることになるのですよ。わたしは、あなたを将来に大きな不安や悩みを抱えることから救ってさしあげられると信じています。両国は手をたずさえて繁栄への道を進むのです。わたしは、あなたとともにその道を歩きたい」


 若者ははおったジャケットをさらりと脱ぐと、ユングリットがこばむ間もあたえず、すばやくその肩に着せかけた。

 そして、ジャケットを押さえたまま肩を抱くようにして、耳元に小声でささやきかけた。


「あなたを守ってあげるだけではありません。わたしはあなたを女王に……いいえ、皇妃にしてさしあげましょう」

「皇妃ですって?」

「ええ。つまり、わたしが次の新しい皇帝になり、北方王国を含めた大陸全土を支配するということです。わたしの真の目的はそれです」


 ユングリットは、驚いてビクッと身を震わせた。

 若者はそのかすかな手応えを感じとると、ユングリットの身体をさらに近く引き寄せた。

 ドレスの大きな襟ぐりの間から、夜目にもまぶしい白い乳房の谷間が見える。

 彼女の好みらしい清涼な気をたち昇らせる香水の匂いに混じって、温かみのあるほのかな体臭が若者の鼻をくすぐった。


 ユングリットの手を取って指をからませ、強い意志をこめて〝気〟を送った。

「ああ……」

 ユングリットは小さく口を開け、わずかに首をのけぞらせてあえいだ。

 いったいどれだけの数の男たちが、この表情を間近に眼にすることを夢想したことだろう。

 若者は、我慢できずにユングリットの白いのど元に唇を押し当てた。

 腕の中で優雅に身をくねらすものの確かな質感が、欲望をさらにかきたてる。


「お、おやめください。わたくしは、お話をおうかがいすると申し上げただけです」

 必死に若者の手を振りほどくと、ジャケットが肩からすべり落ちた。

 ユングリットは胸壁を手探りしながら後ずさった。

「このうえ何をお聞きになりたいというのです。あなたは戸口でわたしとお父上の会話をずっと聞いていらっしゃったではありませんか。ここにも皇帝の勅使が参ったでしょう。ガラフォールに帝国全土から各国軍が初めて集結するのです。領国の守りが手薄になるこの機会をねらって、はやくも不穏な動きを見せるところが出現するかもしれない。その現実をはっきり眼の前に突きつけられなければ、わたしの言葉が信じられないとでもいうのですか?」


 男は追いつめるように両手を広げ、じりじりとユングリットに迫ってくる。

 胸壁の角が背中に当たり、上半身が空中にせり出した。

 ハッとしてふり返った瞬間、男の腕がユングリットの腰をがっちりと抱きとめていた。

 もがいた拍子に髪留めが飛び、結い上げられていた長い髪が解けてたちまち風に吹き乱される。


「これはあなたの運命だ。お父上が盟約に署名されたときから、それは決まっていたことなのです」

 若者が悪魔のような声でささやき、手が豊満な胸の盛り上がりをまさぐろうとしかけたとき、ユングリットは渾身の力で男の身体を押し返した。


「わたくしは……あなたのものにはなれません」

 せつなそうに首を横に振ると、あえぎながらもきっぱりと拒否の意思を示した。

 若者は、いかにも心外そうにユングリットの顔をのぞきこんで尋ねた。

「わたしのどこがお気に召さないのかな。いったい何が障害になるというのです? それとも、あなたはまだあきらめきれないのですか――」


「え?」

「ロッシュのことをです」


 若者がその名を口にすると、ユングリットの身体がふたたびピクリと震えた――。

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