第二章 3 月下の訪問者
細い三日月は、何かに急きたてられるように雲から雲へと渡っていった。
雲間から射す青白い光はわずかだったけれども、その下を疾走する馬の足取りにはほとんど乱れがなかった。
乗り手の技量の確かさもあるが、夜目のきくスピリチュアルが手綱を握っていることは疑いなかった。
一刻をあらそう知らせをたずさえた急使ではない証拠に、道の両側にそった針葉樹の並木の間に目指す城の高い尖塔が見えてくると、とたんにのんびりとした並み足になった。
目深にかぶったフードの中から品定めするような視線を城のほうにすえたまま、レンガできれいに舗装された登り坂をゆっくりと馬を進めていく。
噂に聞いたとおり、漆黒の城壁は雨に濡れているわけでもないのにキラキラと輝いている。
この土地に産出する光沢のある小石が、石積みのすき間にびっしりと埋めこんであるのだ。
陽差しを受けると、城全体が深みのある青色の光に包まれるという。
このクラウビッツ城が、別名〝青瑠璃城〟と呼ばれるゆえんである。
馬は光る城壁に導かれながら回りこんでいき、大門へと達した。
「開門願おう」
呼ばわったのは、若い男の声だった。
「深夜の来訪は、急使以外、何ぴとたりとも受けつけぬ。夜が明けてから出直すがいい」
苔むした城壁の上から、甲冑に身を固めた門衛が松明をかかげて怒鳴った。
「城代に伝えろ。マルリイの件だとな」
「マルリイ? ……それはだれのことだ」
「言えばわかる。すぐに取り次がないと、夜明けにはおまえの首がなくなっているぞ」
フードを取ろうともせず、からかうような不遜な口調で言い放った。
門衛は不愉快そうに口を曲げて詰所へもどり、仮眠をとっていた上司を起こして報告した。
眠い眼をこすりながら、門衛長は応待規範書のページをめくった。
訪問者が名乗らない場合の項目は少ない。
指でなぞっていくと、たしかに「マルリイ」という言葉がある。
彼の眼がいっぺんに覚めたのは、「取次先――城代、随時」とあったからだ。
つまり、この城に常勤している者の中では最高位となる城代が、いついかなる時でも直接応待すべき重要な賓客だということだ。
二〇〇年前、このランダールの国はスピリチュアル軍の激しい攻撃にさらされた。
王は眼下の街の城壁の中へ逃げこみ、栄華を象徴していた山上の壮麗な古城は放棄された。
破壊からはまぬがれたものの、ひと気は絶えて荒れるがままになっていた。
帝国の新制度が発布された三年前、皇帝からこの地に封じられたボルフィン公爵は、領国の首都に定めたビュリスの街を見下ろす青瑠璃城をきれいに修復し、自らの居城とした。
以来、公爵は、昼は首都の宮殿で公務をこなし、夜はフィジカルの王城の名残りを優雅にとどめるこのクラウビッツ城にもどってゆったりとした時間を過ごすという生活を送っている。
したがって、城代は、公爵から城の運営いっさいをまかされたスピリチュアルの騎士ということになる。
知らせを受けてとび起きた城代は、服装をととのえるのももどかしげに大門へと駆けつけ、扉の外まで出向いて深夜の訪問者をうやうやしく迎えた。
いったいこの若者は何者だろうかと不審の眼で見送る門衛たち以上に、城中に案内する城代の表情も戸惑いの色を隠せなかった。
マルリイなどというスピリチュアルらしくない名の女性には、思い当たるふしがまったくない。
しかし、暗号のようなその言葉を口にする相手には、最高の礼をもって待遇するようにと公爵から厳命されていた。
「おぬしには関係のないことだ。公爵の部屋へ通せ。それから、公女も呼べ」
中庭を囲む回廊は、白い漆喰で塗り直され、庭の四隅にともされた常夜灯にやわらかく浮かびあがっている。
そこをずかずかと進みながら若者は威丈高に言い、旅装の長いマントをむぞうさに脱いで、まるで執事にでも対するような態度で城代に投げ渡した。
王の塔への急な石積み階段は、いかにも古い時代のものらしく暗く寒ざむしかったが、ロウソクのともされた壁龕ごとに小さな風景画や花が飾られ、昇降がかえって楽しくなるような配慮がされている。
足の不自由な公爵のためもあって、握りやすく削られた真新しい白木の手すりも取り付けられていた。
若者は、しかしそれらのどれひとつとして眼をとめることなく、手すりにもすがらずに足早に駆けのぼっていった。
最上階の城主の間に達したところで、城代はやっと若者を追い抜いて寝室に入り、公爵を揺り起こした。
「なに、マルリイと言ったのか……?」
ボルフィン公爵はすぐにベッドから起き上がった。
城代は若者の名を告げられなかった。
長年帝都アンジェリクの都市運営に当たっていた彼には、若い世代にほとんどなじみがない。
しかも若者は、最初の軍役をやっと終えたくらいの年齢にしか見えなかった。
「わかった。では、謁見の間へお通ししてくれ」
「いえ。それが、もう公爵の居間に――」
それを聞いて、公爵は眉をひそめながらガウンをはおった。
「これは……」
腰ひもを結びながらつづきの居間に入った公爵は、若者の顔を見て一瞬言葉を失った。
「お久しぶりです。驚かれましたか? 盟約の名を告げて現れたのが若輩者のわたしでは、無理もありませんね。しかし、代理ではありません。高齢の祖父は形だけは領主を務めておりますが、マルリイの盟主の全権はすでにわたしの手にゆだねられています。これからは、わたしが盟約を仕切ることになります。よろしく」
当惑の表情をなんとか収めながら、公爵は差し出された手を握り返した。
「そうだったのですか。こちらこそ、サー・――」
「おっと、名前は呼ばぬ約束ですよ。そのために盟約に〝マルリイ〟などという名前をつけたのでしょう? 例の選帝会議の場に茶を運んでいた、清楚でよく気がつくフィジカルの奉公人の名だったそうですね。なかなか気がきいている。だれだって、重大な盟約が平凡な娘の名前で呼ばれているとは思いもよらない。そんなユーモアがだれにあったんですか? まさか、めったに笑顔を見せたこともない祖父のはずはありませんよね」
ペラペラと調子よくまくしたてる若者の眼は、しかし口の端に浮かべた皮肉っぽい微笑のようには笑っていなかった。
「さあ、どなたでしたかな。残念ながら失念してしまったようです。そう、なにしろあれは、もう二〇年も前のことですから」
ボルフィン公爵は、義足の左足を引きずりながら円卓をゆっくりと回りこみ、細身の長身を折るようにして若者の向かい側に端然と腰を下ろした。
寝こみを襲われた驚きと不快さは、すくなくともその表情からはもううかがえない。
重大な用件で訪れた相手が振りかざす尊大さから、それとなく身をかわすだけの余裕も取りもどしていた。
「そうですか。……ところで、ビュリスの都は噂どおりのすてきな街ですね。港町というのは、外に向かって開いているせいか、よそにはない開放感がある。魚市場は心を浮きたたせるような活気に満ちていたし、運河ぞいにずらりと並んだ屋台の川魚は、新鮮なうえに種類も豊富で、じつにうまかったですよ」
繊細で用心深そうな公爵を相手にするには高圧的なだけではだめだとさとったのか、若者は話題を変え、まんざらお世辞でもなさそうににこやかに言った。
服装はフィジカルの上流階級や豪商の子息といった感じの、上品だが小ざっぱりとした旅装束で、これなら身分をいつわっても怪しまれることはなかっただろう。
スピリチュアルにしては堅苦しいところのない若者には、なかなかよく似合っていた。
「それは結構なことでした。前もってお知らせくだされば、街いちばんの料亭を予約しておきましたのに」
「いやいや、お忍びの旅ですから、それにはおよびません。庶民的な店のほうがかえって居心地がいいのです。それにしても、店も通りもすごいにぎわいでしたよ」
「国のあちこちから働きに来ている者たちが、たくさんいますからね。仕事を終えて食堂や酒場にくり出したのでしょう。大きな工事をしているのです。岸壁に大型船が着けるように川底を掘り下げたり、船着場を改修したりしています。船も建造していますよ。平和な世の中になり、帝国内の経済をさらに振興させるために、各国間の関税が一律に低く定められました。これからは物資や人がさかんに往来する時代になるでしょうからね」
公爵のていねいな口調は、へりくだっているというよりは、ふところの深さと見えた。
しかし、ボルフィン公は身についた品格と威厳に似合わず、まだ四〇代の若さであった。
「さすがに公爵は英明でいらっしゃる。未来を見通す眼をお持ちだ」
言いながら、若者はぐるりと周囲を見渡した。
居間はどの壁も天井までとどく書架になっており、さながら学者の書斎のおもむきを呈している。
ボルフィンはスピリチュアルには珍しく、読書を無上の喜びとする趣味人だった。
若くして戦場で片脚を失い、活動的な仕事に就けなくなった。
代わりに、スピリチュアル社会ではないがしろにされがちだった過去の文化や歴史に関する文献の蒐集や整理といった仕事を引き受け、系統立った資料室をブランカに創設した人物となった。
ある意味で、最初からもっとも〝貴族〟らしい貴族と言えるかもしれない。
「そのような公爵閣下であれば、話は早い。マルリイという娘のことはお忘れでも、盟約の内容まで忘れてはいらっしゃらないでしょうね?」
相手はふり返り、探るような意味ありげな表情で本題に入った。
「といいますと?」
「スピリチュアルの完全制覇を可能にする皇帝を選び、その達成後は揺るぎない支配体制を大陸全土に構築していこうという趣旨の盟約です。選帝会議とは本来そうあるべきものであるにもかかわらず、歴代の選帝官たちは一見安定のように見える停滞に安穏と身をゆだねてきました。悪しき慣例にとらわれ、地位に甘んじ、責任を回避し、長い間打開策を講じることをおこたっていたのです。〝マルリイの盟約〟とは、その状態に終止符を打とうと立ち上がった一部の選帝官たちによる秘密の約定のことですよ」
「もちろん、忘れてなどいません。それどころか、盟約が結ばれることになったそもそものきっかけは、おそらくこの私の意見だったのですから」
公爵は、そう言って小さな笑みを浮かべた。
「ほう、それは初耳ですね」
若者は眼をむき、ボルフィン公を興味深そうに見つめた。
「無理もありません。二〇年前の選帝会議では、私は最年少の参加者にすぎませんでした。選帝官である父親が病床にあったために、軍を退役してブランカにいた私が代理を務めたのです。若い私の眼には、選帝会議は、あなたのおっしゃるとおり旧態依然たるものに映りました。スピリチュアルの臣民から納得されやすい、無難な人選しか念頭にないようでしたからね。そこで私は、生意気と取られることは承知のうえで、スピリチュアルがおこなってきた長い征服戦争における戦略上の欠陥を指摘したのです」
「それは……どのようなものだったのです?」
「ブランカでの先の御前会議で、光栄にも皇帝陛下がその言葉を引用してくださいましたよ。すなわち『フィジカルの反抗勢力を各個撃破していくだけでは、モグラ叩きと同じで決定的な方策とはなりえない。占領地域には人民に慕われる支配者として根づいていく必要がある』ということです。その場では青臭いセリフだと鼻で笑われたものですが、評価してくださる選帝官もそれなりにいらっしゃったのでしょう。おかげで、秘密裏に進められた盟約に、私も誘っていただけたというわけです」
「失礼しました。すると公爵は、いわば盟約の産みの親ということになるのですね」
ボルフィンは、まんざらでもなさそうに上品に苦笑した。
「そのような大層なものではありませんよ。当時私は、征服地で発見されたさまざまな古い書物をブランカに取り寄せ、研究を重ねていました。人類の歴史には学ぶべきことがたくさんあります。その成果を少しばかりご披露したわけです。しかし、まさか将来スピリチュアルが貴族制をとることになろうとは、思ってもみませんでしたがね」
「そうだったのですか。しかし、そのおかげで、公もこのような広大な素晴らしい封土を皇帝から賜ったのですから」
「まことに光栄なことです。けっして豊かな土地ばかりではありませんが、開墾の余地は十分にありますし、交易もおいおい盛んにしていきたいものだと思っています」
「そうなれば、公爵が理想とされているように、ますますランダールの国民との融和も進むことでしょうな」
「ええ。そうなることを願っています。残念ながら、スピリチュアルとフィジカルは、やはり決定的に異なった別人種なのです。この世に生まれ出るための大切な方法を、二者の間でけっして共有することができません。となれば、やはり支配者と被支配者としての関係を、できるだけ良好にきずいていくしかない」
「まさにそのとおりです」
「私はこんな光景を想像するのです。……仲間と汗を流して力仕事に精をだす者たちがおり、すぐ近くでは子どもたちが楽しげに遊びまわり、女たちがにこやかに心づくしの弁当を運んでくる。領主は馬を駆ってそこを訪れ、親しくあいさつをかわし、今年の作柄を尋ね、ともに新しい開墾の計画を相談する……。貴族に列せられてはじめて実感したことですが、牧歌的な貴族制は、帝国にはもっともふさわしい制度なのかもしれません」
「ええ、それは実にうるわしい光景ですな。〝貴族制〟とは、たしかに優雅な響きをもつ言葉です。それがかもしだす夢のような理想像だけを語るなら、たしかにそのようなものになるのでしょう。だが、しかし――」
若者は毒を含んだ笑みを浮かべ、ボルフィン公の弁舌をさえぎった。
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