9-6 王者への挑戦

レイナード・ディーリングの人生が狂い始めたのは、彼女が未だサンタクロースを信じていた八歳のクリスマスだった。

 その日は、母と父、留学をしていた兄が久しぶりに集まり、一家団欒を静かに過ごす予定だった。普段は仕事で忙しい父も、何ヶ月も前からスケジュールを遣り繰りしていた。普段はおっとりとしている母も、家族のために張り切って料理をしていた。そして、普段は勉学に勤しむ七つ年上の兄も、冬休みを利用して帰省をしていた。

 その《筈》だった。

 しかし、兄が母の手料理を食べる事も、父からプレゼントを貰う事も無かった。

 その日は酷い大雪で、視界が悪く正面から来るトラックの姿は全く見えなかった。兄の乗っていたバスの運転手は、それ以上何も云わなかった。彼自身も大怪我をしていて、父も母もそれ以上を聞く事をしなかったのだ。

 死傷者数十五名。死者は二名。孫にプレゼントを届ける為にヨーロッパからアメリカへやってきた老夫婦だった。

 残酷な事だが、その二名の中に兄がいなかった事を、私は心から安心してしまった。

 死者を悼まず、そう思ったからだろうか。

 神は私達家族に罰を与えた。

 比較的軽傷で済んだ筈の兄は、数日経っても一向に目を覚まさなかった。

 医者の話は実に無情だった。

 このままただ眠っているだけかもしれないし、直ぐに目を覚ますかもしれない、という何の根拠もない陳腐なドラマのような状態だと私達に現実を叩き付けた。

 頭の打ち所が悪かった。たったそれだけの理由なのに。

 そこまで分かっていても、世界的な名医でさえ治療は出来なかった。

 兄は世界的に将来を有望視されていた天才だった。

 僅か十歳でNMAの入試問題で満点を取得し、魔術においても武装部隊を凌駕する程の力を持っていた。一つ教えられれば、十の事を覚えるような人で、何をしても誰よりも出来る人だった。そんな兄に、私は憧れていた。心酔していたと云ってもいいかもしれない。

 兄の背中を追い掛ける。それだけが私の人生だった。

 しかし、いつも目の前にあった背中が突然無くなってしまった。

 代わりに見えたのは、兄が今まで浴びていた群衆の視線だった。賞賛や礼賛だけではない。嫉妬や侮辱、殺意さえも見え隠れする眼の中で、兄は常に生活していたのだ。

 私は頭がおかしくなりそうだった。

 一つ足りとも失敗は許されず、常に完璧以上の成果を求められる。

 それを評価する側はとても醜く見えた。成功すれば、頑張った、凄いと手を叩く。

 失敗すれば、堰を切ったように罵り、侮蔑の視線を向ける。

 最も辛く大変なのは、それを行っている人間であるにも関わらず、評価している人間こそが絶対の指標のように振る舞う。

 私はそれで悟った。

 社会の下らない物差しに嫌気がさし兄は目を覚まさないのだ、と。

 だったら、私が兄の代わりにその物差しを破壊し、兄が早く目覚めてくれるように頑張ろう、と。

 そして、私が十歳となった同じ冬の日。

 私は、レイナード・ディーリングという存在を捨て、アシュレイ・ディーリングとなった。

 父と母は反対した。しかし、私は頑としてその意志を曲げなかった。

 その結果、私は《虚構の》アシュレイ・ディーリングという人物に成り代わった。私は兄ほど優秀ではなかったが、世間からすれば十分に天才だった。

 私が先ず兄の為に始めたのが、多くの研究機関との契約解消と、世間を味方に付ける事だった。兄が世界的に有望視されているが故に、一部の人間は兄の存在を巧妙に世間から隠してきた。それを隠れ蓑に、兄に多くの負担を掛けていたのだ。

 ならば、兄を日の下に置き、日陰から手を伸ばす下衆を排除すればいい。その為に始めたのが、マジックファイトだった。魔術の素養があった私は直ぐさま最年少でジュニアチャンピオンとなり、世界の頂点に登り詰めた。父の会社が魔法武器製造の最大大手という事も相俟って、アシュレイ・ディーリングは一躍世界的な人気を手に入れた。多くのスポンサーが付き、メディアにも取り上げられるようになってからは、研究機関は形を潜め息を顰めるようになった。

 それから、私は兄が目覚めるのを待つように、ひたすら闘い続けた。

 常に闘い続け、社会に良い貌をして、自身をアシュレイ・ディーリングとして規定し続けてきた。事実を知っていた父と母もいつしか、私の存在を黙認するようになっていた。

 でも、私は理解していた。

 喩えアシュレイ・ディーリングを模倣しようとも、その人には成れないという事を。そして、いずれそれは小さな歪みとなり、自身の存在を狂わせるという事を。

 それは程なくしてやって来た。

 十六の春。

 八年間眠り続けていた兄が突然目を覚ましたのだ。兄の覚醒を助けたのは、ラルフの古代魔術の研究の賜物だと、後になって聞かされた。

 私は勿論、父も母も涙を流して兄の生還を心から喜んだ。兄は変わらない眼差しで、私を昔のように呼んでくれた。

『レイナード』と。

 私はその時になって、自分の中の何かが、硝子のように砕けるのを感じた。兄が目覚めた今、兄である私は必要ない。父も母も兄も私に云った。お前一人で苦しむ事はない、と。お前はお前らしく生きてくれ、と。

 私らしい、とは何だろうか?

 兄だけを見て、兄となった私は、最早自分の存在価値を見出せなくなっていた。まるで、一生見付からない探し物をしているかのような気分だった。

 誰も私の事など知らないのだ。私でさえ知らない私を他人が知る筈もない。

 だから、私は今度は全く逆の事を試みた。

 私のアシュレイ・ディーリングという仮面を破壊してくれる人を探し始めたのだ。自分では剥がせない殻は誰かに壊してもらうしかない。

 それが叶った時、私は私の存在を実感し享受出来る。

 その為だけにただ戦い続けた。

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