8-9 好敵手達

 暗い。目の前に何もないと思えるほど真っ暗だ。

 手と脚が泥沼に沈み込んでいくように、世界が見えない渦の中に消えていく。

 それはきっと、この世で最も《人》が行きたくない場所だ。

 アイギスは何も考える事が出来なかった。朦朧とする意識の中で、視界が暗転していく。

 心の底の中で、忘れてはいけない《誰か》が、自分の名を呼んでくれているのに。その誰かがもうアイギスには分からない。


―――貴方は未だ《本当の自分》が分からないの?


 分からない・・・

 本当の自分などという自己定義はプログラムの中に組み込まれていない。

 己を定義しているのは一と零によって構成されたコードだ。人間の持つ精神と呼ばれるような曖昧なバイオリズムなど搭載されていない。

 私は人間ではないのだから。


―――では、貴女が彼に抱く《感情》は何?


 彼?彼とは誰?


―――本当は知っている癖に、そうやって知らない振りをする。


 違う。そんなつもりなんてない。


―――違わない。本当は怖いのでしょう?自分の心の奥の中に在る本当の気持ちが。


 怖い。私は怖い・・の?


―――そう。貴方は怖いの。だから、思い出して。心の底にある声に耳を傾けて。貴方には聞こえる筈よ?愛しいあの人の声が・・・


 愛しさ。

 それはきっと心から誰かを想う、人が持つとても尊い感情だ。

 AIである私がそんな感情を持つわけはない。そもそも、感情という概念は組み込まれていない。

 じゃあ、この心の奥に在る温かい気持ちは何?

 私の事をずっと呼び続けているこの声は誰のもの?


 耳を澄ます。

 聞こえて来る声に向かい全ての意識を傾ける。

 聞こえて来る。耳の奥に届く。私の事を呼び続けてくれているのは・・・


「―――ユウキ・・ユウキ・シングウジ!!」


 そう、ユウキだ。

 初めて出逢った時に誓った。

 私はあの人と共にどんな苦難も乗り越え強くなる、と。

 最初はそれだけだった。

 ユウキと初めて出逢った時、彼は頼り甲斐も戦う強ささえも持ち得ないただの子供だった。彼に在るのは、心の淵から湧き上がる強くなりたいという意志だけ。彼を一人前にする為に、初めは先生のような気持ちで接していた。AIの中には指導型のものは幾つも存在している。自分もその役割だと疑う事をしなかった。

 でも、ずっと一緒に過ごしてきて、いつからか自分の中に《チガウ》感情が芽生え始めた。

 彼が必死に特訓をしている貌。

 悔しそうに歯を喰いしばる貌。

 そして、私に向けてくれる優しい笑顔。

 気のせいだと思っていた。こんな人間のような感情が自分の中で生まれるなんて思わなかった。でも、その感情は段々と大きくなり、やがて止められなくなった。

 彼が喜ぶ事をしてあげたい。

 彼が笑う貌を見たい。

 彼が・・ユウキが・・ユウキが・・・


「私の事を好きであって欲しい・・・」


 そんな感情は欠陥だ。

 AIとして失格だ。

 何度も、何度も、何度も、否定しようと思った。

 何度も、何度も、何度も、忘れようと思った。

 でも、出来なかった。

 そんな願いは許される筈もないのに・・・

 違う。しようとしなかったんだ。そんな事、絶対にしたくなかった。

 だから、彼が血を流し苦痛の表情を浮かべているのを見た時に、頭が沸騰したように熱くなった。脳内が熱くなり白煙を上げ、あろうことか、彼にもう戦って欲しくないと思ってしまった。

 失格だ。

 魔法武器として失格だ。

 そう思ったら、いつの間にかこんな場所に居た。

 きっと彼は未だあの場所で戦っている。

 共に最後まで戦うと誓ったのに、私はそれを破ってしまった。

 私にはもう彼と共に戦う資格はない。

 そう思いたいのに・・・そう思わなければならないのに・・・

 こんなにユウキの傍に居たいと思ってしまう・・・


―――なら、目覚めなさい。本当の自分に。


 目覚める?


―――そう。十分過ぎる程、貴女は眠っていた。だからといって、眠り姫が王子のキスを待っているだけというのは、些か情けない話だとは思わない?

 

 欠けていたピースが頭の中でぴったり嵌まったような感覚だった。


 そうね・・・私はそんな女じゃなかった。

 どんな時だって、何だって、この手で摑み取ってきた。

 あの時止まった時間を動かさなきゃいけない。


―――よく分かっているじゃない。騎士としての矜持と、女としてのプライド。それを併せ持つのが・・・


 アイギス・ファーレイでしょ?


 声の主は小さく微笑んだ。

 アイギスは黒い渦から身体を起こし、光の先を見据える。きっと、その先に最愛の彼がいる。


「今行くよ、ユウキ・・!!」


 今度こそ彼の傍らに立って闘える。

 アイギスは眼差しの先へと一歩踏み出した。

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