8-6 好敵手達

 不思議な高揚感だった。

 腹の底から全身が燃え上がるような得も云われぬ快感に、頭の中は真っ白になっている。

 しかし、腕も脚も止まる事を知らない。それどころか、互いの身体に吸い込まれるように拳が繰り出されていく。まるで身体だけが別の生き物のように動き続けるのだ。

 ユウキとリュウは血を流しながら闘いの境地に至っていた。

 試合は既に最終ラウンドを越え、三度目の延長戦となっていた。準々決勝からは判定で勝敗が付く事はない。どちらかが勝利するまで試合は終わる事は無い。

「はぁっ!」

 ユウキの拳がリュウの脇腹に突き刺さる。

「ぐぅっ!?」

 苦悶の表情を浮かべるリュウの身体がその威力に一瞬浮き上がる。が、リュウは歯を喰いしばり、ユウキの貌を目掛けて鎌を振るうように拳を繰り出す。

「ぶばぁっ・・・!!」

 ユウキの貌が明後日の方へと向き唇から血が繁吹く。が、ユウキは視線をリュウから外す事はなく何とか踏み止まる。

「中々しぶとい・・!」

 リュウは頬から流れる血を手の甲で拭いながらにやりと笑う。肩が波打つように動き息が上がっている。全身からは汗と血が交じるように流れている。

「それはお互い様でしょうが・・」

 ユウキは膝に掌を乗せながら大きく息を吐き出した。唇の端から唾液と共に血の塊が地面と滴り落ちる。口元は麻痺している所為か痛みは全く感じない。

 身体は確実に酷使され既に満身創痍となっている。

 もう腕も上がらない筈だ。目を一度瞑れば、きっと二度と目を覚まさないかもしれない。

 だが、お互いに闘いは止めたくはない。

 二律背反する叫びが肉体の芯を震わせる。

 心の淵で闘えと血が燃え上がる。

 肉体が圧壊するか、精神がそれを勝るか。それは己自身との闘いでもあった。


『ユウキ、大丈夫ですか?』


 Aegisの声が頭の中にゆるりと流れ込む。

「・・大丈夫!!」

 力無い声で応える。

 三度目の延長戦でも決着は付かなかった。十分のインターバルを以て、四度目の延長戦となる。

『ユウキ、もう私には見ていられません。どうか、私を使ってください。《アレ》を使えば今のユウキでも―――』

「それは駄目だ」

 ユウキは天を仰ぎ見る。

「《アレ》は決勝戦までは絶対に使わない」

「でも―――」

「俺を心配してくれているのは分かるよ。そうじゃなきゃ、Aegisが俺にこんな事を云う筈がないから」

 Aegisは呼吸を止めるように押し黙る。

「でもさ、この試合は俺を信じて欲しい。Aegisの力を使わなくても勝ってみせるよ。男としての意地を示させてくれ」

 Aegisは暫く考えるように沈黙を続けると、静かに口を開いた。

「・・分かりました。私は貴方を信じます。でも、忘れないでください。私の心は常に貴方と共にある事を」

「ああ」

 ユウキは立ち上がり、再びリュウを見据える。

 リュウは立ちはだかる壁だ。

 己の力を計る為に屹立する大きな壁だ。

 握る拳がある限り、ユウキは決して諦めないと誓っている。もう逃げる事はしないと。だからこそ、壁を叩き壊す為に、拳を前へと突き出し続ける。

―――俺は絶対に負けないっ・・!!

 四度目の延長戦を知らせるゴングが鳴る。


「そろそろ決着といこうぜ、ユウキ」


 互いに限界に達している。リュウもそれを悟っているようだった。楽しかった思い出を振り返るように、リュウは構えた。鋭い眼光が、この一撃で極めるとユウキに告げている。

 人は限界を越えた先に、無我の境地へと達すると云う。無我とは己を忘れる事でも、己を無くす事でもない。己という存在を越えた己に成るという事だ。

 リュウは既にその域に達している。その意味で、リュウは試合開始よりも更に強くなっている。だが、ユウキもその例外ではない。

 己の中に感じている充実感は同じだ。

「そうですね。俺の勝ちでこの試合は終わる」

 ユウキは構え、リュウの眼光に拮抗する。

「大きく出たな」

「これくらいの啖呵を切らなきゃ、俺は俺を鼓舞出来ないんですよ」

 嘘だ。リュウは心の中でほくそ笑んだ。

 正面で構えるユウキは、リュウが今まで闘ってきた誰よりも自信に満ち溢れ、誰よりも恐ろしい相手に変貌している。ユウキを支える何かが幻影のようにユウキの背中に見えるのだ。きっとそれがユウキの力に繋がっている。

 蛹が蝶に生まれ変わり、空高く優雅に舞い踊る。

 リュウはその瞬間を垣間見ている。

 しかし、その蝶の美しさに目を奪われ足下を掬われては元も子もない。リュウにだって負けられない理由もあれば、支えてくれる仲間もいる。何より、自分のプライドが負けを許せるわけはない。

 二人は構えを取ったまま微動だにしない。まるで絵画を現実へ還したように、時が止まっているようだった。観客の誰もが口を噤み、息を飲んだ。呼吸する事さえ苦しくなるような快感に、沈黙の熱狂が会場全体に蔓延していく。

 陰っていた雲がやがて風に流されていき、少しずつ陽が会場を照らしいく。西から東へ光が傾き、ヴェールを脱ぐように沈黙する二人に迫っていく。

 その光が二人を包んだ刹那だった。


「はぁあああああああ!!」

「おぉおおおおおおお!!」


 同時に、二人の獣が甲高い咆哮を上げた。

 繰り出された拳は一直線に互いの顔面を目掛けて突き進む。拳を避ける事など一切考えていない。

 全身全霊を込めた一撃で倒れた方が負けだ。

 そう云わんとするように二人には一切の迷いがない。

 先に拳を到達させたのは、リュウだった。ユウキの右頬にリュウの拳が突き刺さる。ユウキが白目を剥きそのまま倒れそうになる。リュウに勝利の予感が訪れた。

―――勝った・・!!

 が、リュウの瞳に映ったのは、こちらを鷹のように睨み付けるユウキの眼光だった。

 その直後、リュウの右頬に全身を圧し折るような痛みが襲った。

「がっあぁあぁ・・!?」

 口から思わず漏れたのは脳の芯を外す音だ。

 リュウは崩れるようにユウキの傍らに墜落した。リュウは白目を剥き完全に気絶している。ユウキは拳を天高く勝利を宣言した。

 会場全体が花火のように歓喜の喝采を上げる。二人の勝負を賞賛する拍手の中で、ユウキはその場にへたれ込んだ。

『ユウキ、おめでとうございます!やりましたね!』

 興奮したようにAegisが喜びの声を上げる。

「ありがとう、Aegis」

 ユウキは心を込めてお礼を云い笑った。

 Aegisはこの勝利が自分の事のように嬉しく感じられた。と同時に、何とも云えない安心感を覚えた。ユウキが無事に勝利した事に対する安心感なのか、それとも別の何かか。心中で複雑な感情が交錯していく。


「・・俺は負けたのか?」


 倒れ込んでいたリュウの意識が戻ったらしい。気を失っていたのはたった数十秒だ。

「そうです。紙一重・・ってところでしょうけど」

 ユウキの言葉をリュウは鼻で笑う。

「よく云うぜ・・その紙一重の勝負時に勝ててこそだろうが」

 リュウは小さく悪態をつく。

「そうかもしれません。今回の勝負は俺の勝ちって事で」

「・・ああ。だが、次は俺が勝つ」

「望む所です」

 総試合時間一時間五十七分。

 大会記録となる長時間の試合の末、ユウキは辛くも勝利を収めた。

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