7-2 快進撃

 選手用のホテルの一室。

 真っ暗な部屋の中で、リンプはぼうっと窓の外の景色を眺めていた。海沿いを繋ぐようにして掛かる巨大な橋には幾つもの車が行き来している。街中にはもう夜だというのに色取り取りの光が溢れている。夜の暗さは感じられず、リンプの眼には昼間よりも一層明るく見える。

「同じ国だというのに、ここまで違うのか・・」

 あのビルや家々には普通の人達が住んでいる。そう思うと、自分の《普通》とは天と地ほどの差を感じてしまう。

 国という単位が平等ではないように、国としての在り方も平等ではない。

 リンプの祖国では首都周辺以外でこのような光景は見られない。首都を少し出れば、どこまでも乾いた大地と舗装もままならない道路がおまけのように続いているだけだ。雨風をしのぎ、最低限の暮らしが出来る家があればいい方で、根無し草のように放浪しながら路上に暮らしている人も大勢いる。

「皆にもこの景色を見せて上げたかったな」

 リンプの瞳から線をなぞるように涙が流れ落ちた。

 リンプは世間一般で云われている貧困層に属する村で育った。周囲は乾いた赤茶色の大地で覆われ、水を手に入れるのにも三十分歩いた共用の水道を使用するほどに、インフラが整備されていない場所だ。

 家族は母と自分、妹二人と弟一人の五人家族。父は稼ぎに首都に行ったきり戻って来ない。リンプは家族を養うため、学校にも通わず、村から一時間ほど歩いた場所にある工場で毎日働いていた。九歳の頃から一日も休む事なくずっとだ。

 大手企業の工場の下請けという事もあり、稼ぎはいい方だった。年齢が就労規則に違反している事などこの国では何の意味もない。無駄口を叩く事なく黙々と働ける人間が重宝されるのだ。

 仕事はとても辛いものだったが、家族が自分の帰りを待っていると思うと、何とか耐える事が出来た。その暮らしは四年間続けたお陰で、弟と妹も皆学校に通えるほどの余裕も生まれるようになった。

 弟と妹が、『勉強を頑張って、いつか偉い人になってお兄ちゃんに楽をさせてあげる』と云ってくれた時、リンプは心から幸福を感じた。

 リンプが十五歳の誕生日を迎えた朝、いつものように工場へ向かうと、工場長から突然呼び出された。リンプが工場長に連れられていったのは、工場長がお客様を迎えるためだけに使用している貴賓室だった。リンプが恐る恐るその中へ入ると、革張りの椅子に自分とは身分の違うブランドもののスーツに身を包んだ中年の男性が座っていた。

 工場長によると、彼の名はマリク・ゼーゼマンという名前で、NMAの局長を務める人物という事だ。リンプ自身はNMAという組織自体もよく知らなかったし、まして魔術など自分に全く縁のない話だと思っていた。魔術は学校で学べるもので、学校にすら行っていないリンプはいろはのいの字も知らない。NMAという名前も弟と妹達に教えて貰ったから名前くらいは覚えていただけだ。

 リンプは云われるがまま、マリクの前に立たされた。彼は懐から見た事もない小さな機械を取り出すと、それをリンプへと向けた。その機械には画面があり、何かが計測されその結果が映っているらしい。マリクは顎に手を当て小さく微笑むと、リンプに申し出た。『魔術の進歩のために協力してはくれないか』と。

 リンプはマリクが何を云っているか理解出来なかった。マリクはリンプを椅子に座るよう促し、事情を詳らかに説明した。要約すると、首都にあるNMAに属する機関で働かないか、という話だった。どうやら、リンプは潜在的に高い魔力値を誇っていたらしい。NMAは常にそういった人物を様々な手法を用いて探してはスカウトをしているそうだ。

 リンプはどうしようか迷っていた。首都に行けば、簡単に家には戻れない。家族を置いていく事は絶対にしたくなった。リンプはマリクに正直に心中を吐露した。

 マリクはそれを聞くと、『何だ、そんな事か』と云って笑うと、先程とは違う機械をテーブルの上におもむろに置いた。そこからはホログラム映像が映し出された。どうやら、何処かの家の間取りのように見える。マリクはここを君と家族に提供しようと申し出た。更に、マリクはリンプに対して今とは比べ物にならない程の高額の年俸を云い渡したのだ。

 リンプにとっては目が回るような金額だった。

 リンプは思った。これだけあればもっといい暮らしが出来る。母や弟妹達にもっと美味しいものを食べさせて上げられる。きっとこれは自分が今まで頑張って来た事を認めてくれた神様からの贈り物なのだ、と。

 リンプはマリクと固い握手を交わし、申し出を快く承諾した。

 その日、リンプは有頂天だった。いつものように夜遅くまで続く残業も全く苦ではなかった。自分はここから抜け出してもっといい暮らしが出来る。工場にいる友人やよくしてくれた人達には少しだけ後ろめたい気持ちがあったが、家族の事を思うと自分の行くべき道は決まっていた。

 仕事を終えると、リンプはいつもより早い足取りで家へと急いだ。皆この報告を聞けば、絶対に驚いて喜ぶに違いない。想像するだけで頬が緩くなるのが自分でも分かっていた。

 リンプが村の近くまで来ると、夜も深いというのにやけに明るい。

 電気の節約のために夜は街の電灯を極一部を残して切っている。それが全部点灯しているのだ。リンプの背中に蛞蝓のようにじっとりとした汗が伝う。リンプは急いで村へと向かった。

 村に入ると、多くの村人達が何やら不安そうな貌でざわめいている。村の友人の一人が自分の帰りに気が付くと、青ざめた貌で駆け寄って来た。彼はリンプの両肩を痛いくらいにぐいっと掴むと、『いいかい、リンプ。冷静になって聞いてくれよ』と青ざめた貌で訴えるのだ。

 リンプの胸元に大波のように戦慄が押し寄せた。友人の背後に見える自分の家に焦点が定まると同時に、リンプは彼を振り切り走っていた。村の人達はリンプを力尽くで止めようと道を阻んだ。しかし、リンプを誰も止める事は出来なかった。

 そして、リンプの人生を決定付けた光景が目の前に広がった。

 家の中は薄闇でほとんど見えない。だが、リンプには見慣れた間取りだ。どこに何が、誰がいつも何処で寝ているか目を瞑っていても分かる。母も弟も妹達も、皆いつもと同じ場所にいなかった。玩具が散らばるようにそこら中に影が見える。その影からは夕陽が滲む水平線のように黒々とした何かが斑上に流れている。リンプは一歩、また一歩と家の中へと足を踏み入れる。ふいに、柔らかな感触が足の裏を伝った。リンプは自分の足下を眼球だけを動かし見た。

 足下にあったのは、虫取りが大好きな妹の健康的に焼けた焦げ茶色の腕だった。

『あぁああぁあああああああああああああああああああっ・・・!!』

 リンプは身体中の熱が身体を焦がしていくような感覚に襲われた。身体中を巡る血液が沸々と音を立て吹き出しそうになる。

 リンプは血走った眼で村の人達の方を必死の形相で睨み付けた。

 その中心には、見覚えのある男が縄で縛られ座らされている。リンプは地面を踏みしめるように彼に近付いて行った。その男の前に立つと、男は『久し振りだな』と歯がまばらに抜けた口を開いてにやけた。リンプはそのにやけ貌を見て直ぐに思い出した。禿げ上がった額と草臥れたように痩けた頬。年は取っているが、間違い無く七年前に出稼ぎに行った父だ。

 語らずとも分かった。父が家族を殺したのだ。

 父はリンプの足下に縋るように擦り寄って来ると、『俺は悪くねぇんだよ。アイツ等がよう、少し金を貸してくれればこんな事にならなかったんだ』と。父は更に続けた。『あともう少し金があれば、お前にも楽させてやれるんだ。ほら、そういわれれば、学校に行きたがってたろ?俺が首都にあるいい学校に通わせてやる。だから、金を―――』

 頭の中に怒りが充満した時、リンプの目の前で夜空を焦がすような閃光が散った。

 自分の目の前で何かが起こったらしい。

 正気に戻った時には、父は木っ端微塵で見る影もなかった。足下には大きな黒い染みだけがあるだけだけで、それ以外は人影すらない。

 村の人達は自分をまるで悪魔でも見るような目をして、蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。

 程なくして警察が来ると、リンプは殺人の現行犯で連行された。

 リンプはどうでもよかった。死刑にでもなんでもしろと、そんな気分だった。死ねば家族と会える。家族のいない現実など消えて無くなってしまえ、と思った。

 しかし、リンプは死ぬ事を赦されなかった。

 警察は何も云わずリンプを釈放すると、とある施設へとリンプを護送した。

 そこは、首都中心近くにあるNMA直下の機関だった。その施設は、将来有望なマジックファイターを育てる養成機関だ、と聞かされた。

 この処置は、きっとマリクの差し金だ。その事だけは直ぐに理解出来た。

 リンプに拒否権などある筈も無い。しかし、律儀に従う義理もない。リンプは隙を探しそのまま自殺しようと思っていた。施設内では常に監視される危険があるが、手早く済ませればいいだけの話だ。リンプの頭の中には死がガスのように充満していたのだ。

 施設内に入ると、施設責任者がリンプを出迎えた。彼女の名は、アミル・ジル。養成所の教員には思えない柳のように華奢な身体と白い肌を持つ女性だった。未だ年若いのにも関わらず、この施設の管理を任されている有能な人物だと聞かされた。

 アミルはリンプを連れ、施設内の訓練場へと向かった。

 リンプの事情をアミルは知っている筈だ。しかし、アミルは何も云わなかった。それどころか、やれここは良い場所だとか、やれみんな良い子達ばかりだとか、一方的に喋り通しだった。

 訓練場の扉が開かれると、室内とは思えないほどの広さだった。リンプがその光景に気を取られていると、アミルは手招きして誰かを呼んでいるようだった。

 リンプは心の底から驚いた。

 集まって来たのは、まだ自分の弟や妹と然程年の変わらない子供達ばかりだったからだ。アミルはリンプの驚いた貌を見ると、子供達に分からないようにそっと呟いた。『この子達も《貴方》と同じなのよ』と。それ以上、アミルは何も云わなかった。

 が、その意味は痛い程理解出来た。彼等は自分と同じ《痛み》を経験しているのだ、と。

 子供達はリンプに近付いて来ると、無邪気に元気よく声を掛けて来た。『どこからきたの?』、『おにいちゃんもいっしょにれんしゅうするの?』と。

 リンプの胸の中で、怒りとは違うふわりと温かい想いが込み上げて来た。

 その温かさは涙となって、ひしひしとリンプの凍り付いた心を洗い流して行った。それは死という感情さえも心の隙間から拭い去ってくれたのだ。

 そこから、リンプの第二の人生が始まった。

―――明日の試合も必ず勝利して見せる・・あの子達の笑顔のために。

 リンプは心の中でそっと呟いた。自分が闘い続け成果を収める事で、施設の苦しい運営も楽になる。子供達の笑顔も見られる。

 それがリンプの全てだった。

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