誘いと破壊。

 大鏡にぼんやりと人影が浮かび上がる。黒崎は反射的に後ろを見て誰もいないことを確認して、あげそうになった悲鳴を呑み込んだ。鏡の内側に現れた人影、七不思議。恐怖に気付いているのかくすくすと笑う声がする。


 『さっきの勢いはどうしたの? ねぇ、破壊者』

 「っるせぇ!! 何度も言わせんな! そらちゃん返せ!」

 『ふぅん……そんなに好きなんだ……じゃあ、君もこっちに来ればいいじゃない』

 「……え」

 『乱暴者、不良、そんなレッテル貼られて何かあればいちばんに疑われる。嫌な世界じゃない。ここはそんなものないよ? 大好きな“そらちゃん”と一緒にずーっと遊べる。邪魔は入らない』


 それはどんな提案よりも魅力的だった。好きで暴れている面もある。恐れられて頭下げられて優越感を感じるのも、喧嘩に勝って一目置かれるのも気持ちが良い。でも、謂れのない疑いを掛けられたり、決めつけられたりするのは当然の如く嫌だ。どうせと暴れたってすっきりなんかしない。そらちゃんは、黒崎を恐れも、決めつけもしなかった。


 あの日、偶然図書室荒らしの音を聞いた。そいつらをビビらせたいだけだった。脅かして、奴らが逃げ去った後、気まぐれのように本を拾った。入ってきた教師にまた疑われると思って突き飛ばして逃げた。屋上の水のタンクの裏側で煙草を吸うのが定番で、その時も寛いでいたのだが。


 『煙は高い場所が好きって本当なんだね』


 梯子で上る視界外になってしまいがちなその場所に文月そらは上ってきたのだ。ごく普通に「本を拾ってくれてありがとう」と。そして、ついでのように注意した。「月並みだけど煙草は体に悪いよ。ま、選ぶのは君だけどね」

 ヘンなやつだ。何だこの女。得体の知れない初めての人種。ぽかーんと反応を返せない内に手を振って去っていった。それが出会い。



 『ボクらの世界に否定はないよ? 君だけの力で世界を壊しまくっていいんだ。恐れられて、無敵で、そこには歌姫がいる。』


 暴れても叱られない、ウザいものがいない……そらちゃんがいる世界。そうした方が周りも喜ぶんじゃないか。「アイツさえいなければ」「またアイツだ」何回言われた? ふらりと足が大鏡へと踏み出す。ああ、笑っている。鏡の中の人影がうれしそうに。あと少し、あと少しで鏡面に手が触れる……


 「黒崎君!」


 高い声にびくりと身が震えた。振り返ると蒼褪めた顔でこちらを睨んでいる生徒会副会長がいた。拳を握りしめ挑むように足を肩幅に開いている。


 「ふざけんじゃないわよ! そんな誘いに乗って……それでもこの学校の番長なの!? 七不思議の傘下に入る腑抜けだったなんて、幻滅よ!」

 「てめぇこそ、ふざけんな! 乗せられたふりをしてただけなのに、ぶち壊しやがって!」

 「絶対本気だったわ! あんたに頭脳戦なんてできるわけがないじゃない!」

 「……ッ見下しやがって」

 「違うわよ! 適材適所って言っているの!! あんたはどう見たって行動派でしょう!? 慣れないことしてんじゃないわよ!! あんたがいるのはこっちの世界。……いなさいよ。人間のままでいなさいよ……!」


 瞠目する。対立している相手が放った言葉。ああ、そうだ。こいつらいつでも本気だからぶつかるのどこかで楽しんでいたんじゃないか。ムカつく優等生グループだけど。


 「やべぇ、逃げろ!」

 

 同調しているとわかると言っていたのはこういうことか。頭上の蛍光灯に七不思議が力を這わせたのに気付いた。視界の中でハッと上を見て恐怖に顔を強張らせた瞬間を狙って落下するのが見えた。……ダメだ。走っても間に合わない。伸ばした腕の先、頭を抱えてしゃがみ込む擦れ擦れで奇跡が起きた。


 「……え、止まって、る……?」

 「…………優等生は引っ込んでろっつんだよ」


 恐る恐る目を開けた奏が信じられないと間抜け面でこっちを見たのに黒崎は微笑った。偶然だけど黙っておこう。静止した蛍光灯の力を消そうとする気配に無言で対抗する。少し離れた位置の蛍光灯が落下して耳障りな音を立て奏が悲鳴をあげた。


 「てめぇがいちばんうぜぇ! 俺は誰の下にもつかねぇ……お前が下れよ!」


 苛立ちに任せて振り向いた。静止していた蛍光灯が勢いよく大鏡に飛んでいき音を立てて鏡面に罅が入る。凄まじい悲鳴が学校中に響き渡って止んだ時、七不思議の気配は消えていた。やってしまったことにじわじわと恐怖が追い付いてがくりと膝をついた。


 「……そらちゃん……俺、どうしよう……鏡が……」


奏は駆け寄って肩を揺さぶって何か言っていたが埒があかないというように走っていった。何も聞こえなかった。罅が入って沈黙した大鏡から目を逸らせずに座り込んだまま。

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