その四


 二一四号室の前は、シャンデリアの光もあまり届かずに、夜の闇がひっそりと息づいているように見えた。


 エルーナは、そっと扉を叩いた。

 空虚な音が響き、「誰だ」と尋ねる低い声がした。


「エルーナ・フェルメールと言います。オーナーさん、お話したいことがあります」

「俺には、聞きたいことなどない」


 扉の向こうのソドは、はっきりと拒絶した。

 それでもめげずに、一方的にエルーナは語り出した。


「百年くらい前に、五歳の私は、この森の中で迷子になっていました。そんな私を、助けてくれて、一緒に母を探してくれたのは、オーナーさん、あなたですか?」

「ああ、そうだ」


 ソドは、意外とあっさりと認めてしまった。


 百年越しの夢が、簡単に実現できそうで、エルーナは膝から崩れ落ちそうになった。それでも、何とか立て直す。


「あなたに直接お礼が言いたのです。部屋から出てきてもらえませんか?」

「だめだ!」


 突然、ソドが怒鳴り、エルーナは体をびくりと震わせた。


「お前は、俺を笑いに来たのだろう? 滑稽な俺の姿を見て。あの日お前は、おとなしく俺についてきた。だが、母親が近くにいると分かった途端、俺の手を振りほどいて逃げ出した! 俺を利用していただけだろ? 本当は、怖くて怖くてたまらないのに、従っていただけなんだろ?」

「違います! 全部誤解です!」

「うるさい! 口では何とでも言えるさ!」

「……分かりました。では、心の中を見せれば、納得するのですね?」


 エルーナは静かにそう言って、一歩前に踏み出した。


「おい、何をする気だ?」

「オーナーさん、言え、ソドさんと呼ばせてください。これから、私の天使としての能力で、ソドさんにあの時の私の気持ちを伝えます。扉の前に来てもらえませんか?」


 扉の向こうでは、何やら逡巡する気配があったが、足音が聞こえ、扉の前でぴたりと止まった。


「来たぞ」

「では、そのまま目を瞑ってください」


 エルーナも目を瞑り、自分の感情を、そっとソドへ流し込んでいた。



 ……あの時、エルーナはソドに手を引かれていた。自分より上にある顔を、エルーナは見ていなかったが、黒くて広い背中と、握られた大きな手の頼もしさは、今でもよく覚えている。


 しばらく歩いていると、母がエルーナを呼ぶ声がした。

 お母さんだ! 嬉しさのあまり、エルーナは無我夢中で、ソドの手を振りほどいて、走り出した。そして母に再会すると、その胸に飛び込んだ。


 母と、二言三言話して、やっとエルーナはソドのことを思い出した。お礼を言わなくちゃと、母の手を引いて走り出した。


 しかし、元いた場所に戻っても、ソドの姿はなかった。エルーナは頭が真っ白になった。


 あれほど優しくしてもらったのに、お礼も言えなかった。それどころか、手を振りほどいて放っておくなんて、酷いことをしてしまった。


 いつか必ず会わなくちゃ、そして、ありがとうとごめんなさいを伝えなくっちゃ……。



 ……すべての思いを伝え終え、エルーナは目を開けた。


「ソドさん、伝わりました? 私は、あなたに直接お礼と謝罪をしたいのです」


 しかし、ソドからの返事はない。エルーナは不安になってきた。


「ソドさん? どうしました?」


 すると、突然頑なだった、二一四号室のドアが開いた。


 ソドは、黒のフロックコートに黒のベストを付け、灰色のネクタイを締めていた。そしてその頭には、バスケットが被せてあった。

 エルーナは思わぬその姿をぽかんと見つめ、あ! と驚きの声を出した。


「そうです! ソドさんはそういう格好でした!」

「あの日俺は、森の中に木の実を拾おうとして、バスケットを持っていた。途中で君の泣き声が聞こえて、自分が怪物だということも忘れて、すぐに駆けていったよ。そしたら、俺の顔を見て、余計に泣くから、バスケットを被って誤魔化すことにした」


 ソドはバスケットを被ったまま喋った。

 それは異様な光景だったが、エルーナにはとても懐かしいものだった。


「これ、網目から外が見えるけど、やっぱり視界が悪いんだよな」


 苦笑を浮かべながらソドはバスケット頭から外した。

 そうして現れた頭を、エルーナは改めて見た。


 凛々しい顔立ちに真っ黒な瞳と髪をしていたが、それ以上に目を引いたのは、耳の上から生えた羊のような赤黒い角だった。そこだけで、彼が人間ではないことを物語っている。


 ソドは困ったように視線を漂わせた。


「ええと、久しぶり」

「はい、お久しぶりです」


 エルーナは笑顔で返した。そして、改めて深々と頭を下げた。


「あの時は、ありがとうございます。そして、ごめんなさい」

「いや、謝るのはこっちの方だ。さっきは色々変なこと言って、悪かった。君がわざわざ探しに来てくれただけでも十分嬉しかったのに、俺は意固地になっていた」

「いえ、あなたに不信感を抱かせた私が悪いのですよ。すみません」

「いや、子供のやることを、本気にしてしまった俺の方が悪い。ごめん」

「いえ、いくらなんでも、あんなにほっとくのは酷すぎます。申し訳ありません」

「いや、俺が、」

「いえ、私が、」


 二人はこの言い争いが終わらないことに気付いて、思わず噴き出した。


「でも、ちょっと意外でした。ウルルさんたちのお話では、ソドさんはもっと頑固な人だと思っていましたので」

「確かに、頑固なところは頑固だよな。自分が気に入らないことがあったからって、一年も部屋から出ないのは、いくらなんでも酷すぎる」


 ソドは自嘲を浮かべた。

 ふと、エルーナが真剣な顔になり、ソドへ言った。


「ソドさん、何か、私にやってほしいことはありますか? 言葉だけでは、気が済まないのです」

「そうだな……じゃあ、一緒に塔へ登ってくれないか?」

「塔ですか? あの正面玄関にある?」


 しかし、塔に続く階段や梯子などは、ホテルの外にも内にもついていない。

 エルーナがどこから登るのだろうと首を捻っていると、ソドはおもむろに部屋から出て、一番奥の壁に向かい、壁の模様の一つを押した。


 ごごごごごと、ホテル全体が揺れて、ちょうど二階に上がる階段と向かい合わせになる箇所の壁の上部に、人が通れるほどの四角い穴が開いた。

 そして、壁からブロックがいくつも現れ、階段のようにソドの足元から突然開いた穴へと並んでいた。

 

もちろん、この騒ぎは下のホールにいる怪物たちにも伝わっていた。

 三日後のウルルの誕生日会の計画を立てていた円卓では、ジェンティレスが興奮して立ちあがった。


「すごい! すごい! 何あれ! ねえ、どうなってるの、イノン!」

「え……。お、俺に訊かれても、分かんねえ……」

「素晴らしい」「奇跡的」「あっぱれ」

「とても、かっこ、いいね。おいらも、上り、たいな」


 ジェンティレス、イノン、ギギ、ググ、ゲゲの三つ子達、ライオットは突然現れた城の秘密に圧倒されている様子だった。


 一方、いつもと同じようにポーカーを楽しんでいた三人も、その手を止めて、壁の変化を黙って眺めていた。

 初めに口を開いたのは、瞬きを繰り返しているユーシーだった。


「なんか、ものすごいことになってるな……。こんなの、初めて見たけど、あれって塔に続いているのか?」

「いや、俺も初めて見たぞ。それよりも、あそこにいるのはオーナーか?」

「どうやら、そのようだな。フェルメールも一緒のようだが、何があったのだろうか」


 クレセンチもレンもユーシーと共に好き勝手疑問を述べているが、誰も答えが分からず、皆で首を捻るばかりであった。


 だが、別の円卓に座っていた女性たちは、目を丸くしながらも、何が起きたのかをある程度想像できていたようだった。

 ウルルが、メデューサの方へ顔を近づけて、囁くように尋ねた。


「なあ、エルーナの言っていた怪物さんって、オーナーの事だったのか?」

「そうかもしれないわねェ。それにしたって、あのオーナーを部屋から出すなんて、エルーナも意外とやるわァ」

「ほんとに、夢も叶えて、スゲー奴だよ、あいつは」


 ウルルが笑みを零しながら席に座り直すと、ルージクトは音の出ない拍手を、惜しみなくエルーナとソドの二人に送った。


 ホールの怪物たちが未だにざわついているのを聞きながら、自慢げにソドが言った。


「これはあいつらも知らない、俺だけの秘密だからな。よし、行くぞ」


 ソドは早速、階段を登り始めた。

 エルーナも慌てて、後を追う。


 縦の幅が足二つ分だけの階段を慎重に上りながら、エルーナは尋ねた。


「どうして、こんな仕掛けを作ったのですか?」

「あの塔は、もともと見張り台として付けたものだ。そこに上る階段も、普通に作ったらつまらないから、ちょっとした仕掛けにした」

「ちょっとした、じゃないですよ。大規模な仕掛けです」


 ソドは壁の穴の中、塔に入る直前で立ち止まっていた。


「本当はここは床になっていたけどな、もう登らないでおこうとほとんど壊してしまった」


 そう呟くと、微かに塔の壁に残った足場を頼りに、円形の塔を半周するように進み始めた。

 足場は縦幅が足ひとつ分あるかないかで、体を横にしないと進めない。


「ソドさん、これは危険すぎますよ! ああ!」


 後ろから来ていたエルーナが、足を滑らせて落ちかけた。

 ソドがとっさにその手を掴み、エルーナは宙ぶらりんの状態になった。


「ソドさん、やっぱり、あなたの手は頼りがいのありますね」

「笑っている場合か! 早く登れ! 正直重い!」

「大丈夫です、私は天使ですよ?」


 エルーナはそういうと、真っ白い鳥のような羽を広げて、ふわりと浮かび上がった。


「す、すごいな。これで俺も運べるか?」

「ごめんなさい、それはちょっと無理です」

「冗談だよ。自分でなんとかする。あ、先にそっちの窓辺にいっといてくれ」


 ソドに言われた通りに、エルーナは塔にあるたった一つの窓辺の降り立った。

 しばらくして、ソドもその隣に並んだ。


 そこから外を眺めると、はっきりとホテルから続く道が見え、その先には大きな町があった。たくさんの建物がひしめき合い、星空にも負けないほどの、温かい光を灯している。


「すごいですね。とても綺麗です」

「俺はもう、この景色を二度と見れないと思っていた」

「どうしてですか?」

「あの町を見たら、あれらをすべて壊さないと気が済まないような衝動に、駆られるんだ。だけど今は、違う。不思議なくらい、穏やかな気持ちで向き合える」


 ソドは、町の光から目を逸らさなかった。


「人間に、あの時のエルーナに、俺の存在をそのまま受け入れてもらえたから、こんな気持ちになれたんだろうな」

「でも、ジェンティレス君がいるじゃないですか」

「ああ、確かにジェンは人間だけど、怪物たちに囲まれて育った、怪物の価値観を

持つ人間だ。どちらかと言えば、俺たち側の奴だと思っている」


 ソドはふうと息をついた。


「だけど、ホテルの奴らは、ジェンをきっかけに、人間のことを許し始めていた。退魔師と一緒に暮らしたこともある。イノンなどは最近、一人で町に行くぐらいだ。俺は、そんな柔軟な考えが出来なかった。心を許した仲だと思っていたあいつらと、離されていくような気がして、どんな顔で向き合えばいいのか分からなくて、段々と部屋から出て来られなくなった」


 そう言ってソドは、エルーナの方を向いた。

 エルーナも静かに見つめ返す。


「エルーナは怪物になった俺を受け入れてくれた、一番最初の人間だ。俺はエルーナと再び出会えたことで、これから新しい一歩を踏み出せる気がする」

「ありがとうございます。とても光栄です」


 エルーナは微笑み返した。

 二人が黙り込むと、ホールの騒がしさが塔の中にまで響いてきた。


「そろそろ下へ行こうか。あいつらとも、たくさん話したい」

「はい、みなさん、きっと待っていますよ」







 ホールにソドとエルーナを加えて、怪物たちのホテルの夜は、ますます賑やかに更けていった。

















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