その三


 淡い水色が空に広がる心地よい朝、小さな町の市場に、ジェンティレスとイノンの姿があった。


「すごい、すごい、すごーい!」


 ジェンティレスは初めて訪れた市場の様子に、目を輝かせながら小鹿のように飛び跳ねていた。


「あんまり遠くに行くなよー。迷子になるぞー」


 イノンが駆けていくその後姿に声を掛けたが、ジェンティレスは気にせず、さらに市場の奥へ向かっていく。

 イノンは小さくため息をついて、改めて町と市場の様子を観察した。


 百年ほど前と比べると、やはり新しい建物が増え、人々の服装や持ち物も大きく変わっている。イノンが初めて見る物も、数多くあった。

 しかし、市場での人々の営みは、あまり変わっていないようだ。これなら、俺にも何とか案内できるかもしれないと、イノンは内心胸をなで下ろしていた。


 ジェンティレスは果物屋の前に立ち止まり、箱の中で綺麗に並べられた、色とりどりの果物に目を奪われていた。

 果物屋の、四十代半ばの主人は、物珍しそうな顔で見ているジェンティレスに話し掛けた。


「坊や、市場は初めてかい?」

「うん! そうだよ!」


 顔をあげたジェンティレスは、元気にこう答えた。彼はこの時に初めて人間と話したが、それに気付いてなく、緊張した様子も見せなかった。

 果物屋の主人は、ジェンティレスの無邪気な言葉に、頬を緩めた。


「どれか一つ、買ってくかい?」

「うーん、どれにしようかなー。みんなおいしそうだなー。あっ! イノン! こっち、こっち!」


 ジェンティレスはこちらに向かっているイノンの姿を見つけ、大きく手を振った。


「ねえねえ、イノン、何がいいかな?」

「何でも、好きなものでいいよ」

「お兄さん、坊やと兄弟かい?」

「え? ああ、あのー……」


 主人にこう聞かれて、イノンはどう返せばいいのか困ってしまった。正確には育ての親だが、見た目では二人の年がそれほど離れていないため、そう答えるのはおかしいだろう。

 主人の話に合わせて、兄弟ということにしようとイノンが決めた時、一足先に胸を張ってジェンティレスが答えた。


「友達だよ!」

「そうかそうか! とても仲が良さそうだな!」

「あ、いや、ありがとうございます」


 ジェンティレスの言葉が素直に嬉しくて、イノンは照れ笑いを浮かべた。

 果物屋の主人は、目の前の二人が怪物のホテルからやってきて、初めてと百年ぶりの町探索ということに、全く気付いていない様子だった。


 イノンは、服装も良かったのかもなと、自らの体を見回した。イノンは白いシャツにいつもの布ネクタイをしていた。

 ジェンティレスは、白いシャツに茶色のベストを付け、黒の短いズボンを穿いていた。


 これらはユーシーが用意してくれたもので、お蔭で二人とも違和感なく町に溶け込むことができた。


「イノン、りんごをいっぱい買ってもいい? ギギ、ググ、ゲゲへのお土産にしたいから」

「ああ、いいぞ。じゃあ、これを五個で」

「まいどあり!」


 イノンが籠と銅貨数枚を渡すと、主人が籠に林檎を詰め始めた。

 二人の所持金は外で仕事をしている、クレセンチとユーシーが渡したものだった。想像以上の量を準備していたので、イノンは悪いと思ったが、これでジェンを楽しませてくれと、押し付けてきた。


「坊や、一個おまけしといたよ」

「ほんとに! ありがとう!」


 主人から籠を手渡され、ジェンティレスは満面の笑みを浮かべた。


 それから、二人は市場内の様々な店を回った。

 肉屋、魚屋、花屋……どの店を見ても、ジェンティレスにとっては新鮮で、どの店の主人も、純粋無垢なジェンティレスに対して優しかった。


 市場が閉じる時間が迫り、どの店も片付けの準備を始めた。

 ジェンティレスは、不思議そうにイノンに尋ねた。


「なんで、みんな片づけてるの?」

「もう、市場が閉まる時間になったからな」

「そうなんだ……。もうおしまいなんて、さびしいな……」

「そんな顔しなくても、まだ見て回る場所はたくさんあるから。そろそろお昼だし、昼食を食べに行こう、な?」


 しょんぼりとしおれてしまったジェンティレスの手を引っ張って、イノンはユーシーが勧めていたレストランへ向かって歩き出した。

 肩を落としたまま町の通りを歩くだけでも、その内ジェンティレスの胸は自然と高鳴っていった。


 灰色の石畳の道、黒くてのっぽなガス灯、大小さまざまな家、ゆっくりと二人を追い越していく馬車、可愛らしい文字で書かれた看板、植木鉢の中で咲いた小さな花など、ジェンティレスは目に映る全てのものについて、イノンに質問していた。

イノンもそれを嫌がったりせず、丁寧に答えてくれる。

 そんな二人の様子を見て、すれ違う人々は皆笑顔になっていた。


「ねえ、イノン」

「どうした?」

「人間って、怖いものだと思っていたけど、みんな優しいね」

「ああ……そうだな……」


 イノンは曇りのないジェンティレスの笑顔を見て、思わず目を逸らしてしまった。

 あの夜、ジェンティレスは否定していたが、いつの日か彼がホテルを出ていく日が来るのかもしれないと思い、その瞬間に底のない恐ろしさを感じた。


 その後も、二人で食事をとったり、あちこちお店を覗いたり、当てもなく町を歩き回ったりしている間も、イノンには「人間は優しい」とジェンティレスから言われた時に生まれた気持ちが影のようについて回り、ジェンティレスと同じように心から笑えなくなっていた。


 ふと、道の真ん中で、美しい貴婦人が立っているのをジェンティレスは見つけた。

 彼女は珍しい桃色のドレスを着て、白い日傘を差し、澄ました顔で誰かを待っているようだった。


 ジェンティレスが驚いた顔で見上げているのに気付くと、彼女は微笑みかけてきた。


「どうしたの、坊や?」

「ねえ、おばさん、なんで晴れてるのに傘をさしてるの?」

「お、おばさん……?」


 貴婦人の笑みが、分かりやすく引きつった。

 ジェンティレスの後ろにいたイノンが、慌てて注意する。


「ジェン! おばさんっていうのは失礼だろ!」

「そうなの?」

「ああ、見ろよ、顔が強張ってるだろ? 本人が一番気にしていることだからな」


 どうやら、この青年も自分の味方ではないらしいと判断した貴婦人は、わざとらしく咳払いを二三回繰り返した。

 しかし、ジェンティレスもイノンも一向に謝ろうとしない。


「そんなことよりも、なんで傘をさしてるの?」

「ああ、これは日傘だな。日焼け……えーと、太陽の光で肌が黒くならないように、これで遮っているんだ」

「へー! すごいねー!」

「でも元々は、昔、二階の窓から落としていた糞尿が掛からないように、傘を差すようにしたのが始まりらしい」

「へえ~」

「あと、あのドレスの下が膨らんでるのも、家のトイレが無かった時代に、外でしゃがんでやっても分からないようにしたのが、きっかけだ」

「え! じゃあ、おばさんも外で……」


 ばんっ! と大きな音を立てて、貴婦人が傘を閉じた。

 驚いた二人に、貴婦人は笑顔のまま、しかしこめかみに青筋を立てて口を開いた。


「……お二人とも、さっきから失礼じゃあ、ありませんの?」

「すいませんっ!」


 イノンは素早く頭を下げると、ジェンティレスの腕を掴んで逃げだした。






   ☆






「あー、びっくりしたー」

「まさか、あんなに怒るとは……。ウルルには、あれくらい言っても平気、いやむしろ言ってくるくらいなのに……」

「ね、すごい怒っていたね」


 ジェンティレスとイノンは、走り疲れてとぼとぼと歩きながら話した。


「これからは、人間に失礼なことを言わないようにしよう」

「うん、そうしよう」


 二人で当たり前のことを確認し合っていると、


「ジェンティレスとニクロムか?」


 後ろから聞き覚えのある声に呼び止められた。


「あー! レンだー!」


 振り返ると、タキシード姿の悪魔が、いつもの無表情に目を少しだけ丸めて、立っていた。

 ジェンティレスはレンに走り寄り、抱き付いた。レンはそれを受け止めて、イノンの方を見た。


「何故、町にいる?」


 レンのもっともな質問に、イノンは今までの経緯を話した。


「レンはどうしたんだ?」

「ここで仕事があった。とはいっても、もうそれを終えて、少し散歩していたところだ」

「ねえ、ねえ、レン! 聞いて聞いて!」


 ジェンティレスは楽しそうに、町に来てからの冒険をたっぷり話した。

 レンはほうほうと感心しながら、それを聞いていた。


「そうか、楽しそうで何よりだ」

「うん! とっても楽しい!」

「しかし、さっきの貴婦人との会話は本当か? 確かに、ニクロムが話したことに嘘はないが……何でも正直に言えばいいという訳ではないぞ」

「……バカ正直なお前に、そう言われたくなかったな」


 イノンは屈辱に、不機嫌な顔になって言った。


「レンって、ここでお仕事してたんでしょ?」

「む? ああ、そうだ、ジェンティレス」

「じゃあ、どっか、おすすめの場所とかないの?」

「そうだな、例えば本」

「本屋以外で」


 レンが言おうとしたことをイノンが先回りすると、彼は腕を組んで真剣に悩みだした。


「では、広場はどうだ? 夕方には、大道芸や人形芝居が見られる」

「ああ、まだそっちには行っていなかったな」

「あ、犬だー!」


 ジェンティレスはレンの後方からやってくる、老人と散歩している大きな茶色の犬を見て、そちらの方へ駆けていった。

 残された二人は、嬉しそうに犬をなでているジェンティレスを、黙ったまま見守っていた。


「……なあ、レン」

「どうした……神妙な顔をして」

「もし、ジェンがホテルから出て、人間の町で暮らすって言ったら、どうすんだ?」


 イノンは、今まで胸の内でくすぶっていた思いを、口に出した。


「どうすると言われてもな、何もしない」


 即答したレンの顔を、イノンは信じられないといった表情でまじまじと見詰めた。


「本気で言ってるのか?」

「ああ。勿論、寂しいとは感じるだろうが。だが、ジェンティレスがよく考えた上でそう決断したのなら、私たちがとやかく言える立場ではない」

「そうか……」


 犬をなでながら老人と楽しそうに話をしているジェンティレスを見ながら、イノ

ンは呟いた。


「クレセも、同じようなことを言ってたよ。二人とも、俺たちよりもずっと大人だな。実際、年上だし」

「しかし、いざとなれば、私もレイジアも、号泣してしまうのかもしれない」


 レンの生真面目な返事に、イノンは思わず噴き出した。


「お前が泣いているところ、見たことが無い。それ以前に、想像できない」

「そうか? レイジアが泣いている様子は想像できるのか?」

「ああ。大声で泣いているのが目に浮かぶよ」


 イノンが苦笑していると、そこへ老人と犬と別れたジェンティレスが戻ってきた。


「ジェン、どうだったか?」

「うん、ノアちゃん、とってもかわいかったよ! でも、犬って、ウルルよりずっと小さいんだね!」

「そりゃそうだ」

「そういえば、ジェンティレスが本物の犬を見るのは初めてだったな」


 イノンはこみ上げてくる笑いをこらえながら、レンはいたって真剣な面持ちで、答えた。

 ふと、ジェンティレスが思い出したようにレンの方を見た。


「レン、今日はホテルに来るの?」

「ああ、そのつもりだ」

「じゃあ、お土産をたくさん持ってくるから、楽しみにしていて!」

「そうか。それは有り難いな」


 レンはいつもと変わらない無表情だったが、声には温もりがこもっていた。















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