その二
それから、怪物たちと人間の赤ん坊、ジェンティレスのホテルでの暮らしが始まった。
ジェンティレスがお腹を空かせれば、温めた牛乳を哺乳瓶で与えた。
服やおむつなどは、古くなった怪物たちの服を縫い直して使用した。
寝かしつけるのは専らメデューサの仕事で、彼女が大泣きしているジェンティレスを抱き上げてあやすと、すぐさま深い眠りについた。
ライオットが作った赤ん坊用のベッドは、みんなが世話できるようにと主にホールに置いてあったが、昼間など誰もホールにいない時は順番を決めて各々の部屋に置いていた。
昼夜が完全に逆転しているホテルの中では、夜泣きはさほど大きな問題ではなかった。それよりも、ジェンティレスの「朝泣き」に彼らは苦しめられた。
しかし徐々に「朝泣き」は無くなっていき、ジェンティレスも怪物たちの生活に合わせられるようになった。
ジェンティレスはすくすくと、あっという間に成長していった。
寝返り、ハイハイ、立ち上がる、歩く、言葉を喋るなどが出来るようになるまでが、怪物たちにとっては光の速さのように感じられた。
ホテルに泊まりに来るクレセンチは、その成長の速さに「今度来るときには、ジェンティレスは大人になってるんじゃないか?」と冗談交じりの不安を口にするほどであった。
ホテルの怪物たちは、ジェンティレスをまるで実の子供のように、愛情をたっぷりに育てていった。
イノンは服の着方や歯の磨き方など、日常的な動作を教えた。
ウルルは遊び相手として、毎日のようにホールで追いかけっこをした。
メデューサは眠れない夜に添い寝をして、子守歌を歌ってあげた。
ルージクトは危険な場所に行かないようにと、いつも遠くから見守っていた。
ギギ、ググ、ゲゲは栄養をつけてもらおうと、様々な料理を子供向けにと工夫して作った。
ライオットは彼用の家具やおもちゃを新しく作った。
ユーシーは立派な子供服を買ってきてくれた。
レンは文字の読み書きを教え、たくさんの本を与えた。
クレセンチは少年を誰よりも誉め、様々な種類の飴をあげた。
ジェンティレスは、怪物たちの実の親のような愛情を一身に受け、真っ直ぐに育っていった。
しかし、実際にその愛情は、大きく偏ったものでもあった。怪物たちは、ジェンティレスをホテル、その周りの森から外へは決して出そうとしなかった。
よってジェンティレスは、本や会話の中に出てくる人間の町への憧れを、成長とともに大きく膨らませていった。
☆
ジェンティレスが日頃持ち続けていた思いを声に出したのは、彼が十歳になった秋の初め、外では虫が鳴いているある夜の事だった。
「人間の町に行ってみたい」
テーブルでそれぞれ好きなことをしていた怪物たちは、一斉にジェンティレスの方へ向いた。
彼の、強い意志が込められた焦げ茶色の瞳を見て、一瞬怯みそうになったが、一斉にジェンティレスのもとへ走り寄り、反論をまくし立て始めた。
「ジェン! 一体どうしたんだ!」
「なんか嫌なことでもあったの? あたしに相談してよ!」
「ワタシたちのこと、置いていくのォ?」
「人間の、町は、危ない、怖い、ところ。行くのは、ダメ」
「刺されるよ!」「撃たれるよ!」「絞められるよ!」
「え、ええっ……?」
皆が恐ろしい形相で詰め寄るので、ジェンティレスは圧倒されて、苦笑を浮かべながら後ずさった。
「別に、何か特別なことがあったわけじゃないよ。それに、ここを出ていくんじゃないて、一度でいいから行ってみたいなーって思ってるだけで……。あと、人間の町って、そんなに危ないところなの?」
ジェンティレスの疑問に、殆どのものが力強く頷いた。
まず、イノンが苦虫を噛み潰したような表情で話した。
「町には悪い奴が大勢いるぞ。相手が怪物だと分かった途端、容赦なく攻撃してくる」
「でも、ぼくは人間だよ? 何もされなんじゃないかな?」
ジェンティレスが不思議そうな顔で首をひねっているのを見て、イノンは「あっ……」と、自分の失言に気付いた。
恥ずかしそうに顔を真っ赤にするイノンに、「バーカ」と一言ぶつけた後、ウルルが説得を試みようとした。
「ジェン、あっちにはな、とんでもなく恐ろしいお化けがうじゃうじゃいるぞー。お前なんか、すぐちびっちゃうぞー」
「お化けって、ルージクトみたいな幽霊のこと?」
ジェンティレスは自分の後ろで優しくにこにこと笑っているルージクトを指差した。
それに対して、ウルルは何も返答できなかった。
だが、気まずそうにしている彼女を見て、ジェンティレスはそれを肯定だと受け取った。
「だったらぼく、怖くないよ! お化けと友達にもなれるよ!」
えっへんと、腰に手を当てて胸を張るジェンティレスを見て、ウルルは両目を泳がせるだけで、何の反論もできなかった。
自滅した二人を押しのけて、メデューサがジェンティレスの前に現れた。彼女は視線をジェンティレスに合わせるように屈んで、諭すように語りかけた。
「町に言っても、何にも面白いものはないわァ。とっても退屈な場所なのよォ」
「そうなの? メデューサは行ったことがあるの?」
初めて不安そうな表情を見せたジェンティレスに、皆はおおっ! と身を乗り出した。
メデューサは微笑んで、答えてあげた。
「ないわァ」
「ええっ! ないの!」
驚きの声を発した後、ジェンティレスはユーシーを見た。
「ユーシーは町に住んでいるから、よく知ってるよね? どんなところなの?」
「んー、このホテルほど立派じゃないけど、色んな形をした建物が並んでいるな。その中には店も沢山あって、様々なものを売ってる。あと、レストランもあってな、ここの料理にも負けないぐらい、うまいものを出すぞ。朝には市場が開かれて、特に買うものが無くても、ぶらぶら歩きまわるだけで十分楽しめる」
「すごーい!」
ジェンティレスは頬を高揚させて、きらきらとした表情でユーシーの話に聞き入っていた。
反対に他の怪物たちは、「余計なことを言いやがって」と責めるような冷たい視線を、ユーシーに刺していた。
「やめろ~!」
ユーシーが広場や時計台の話をしようとした時、後ろからそう叫ぶ声が聞こえ、彼は背中から蹴っ飛ばされた。
「いってーな……。急に何しやがるんだ!」
見上げると、ウルルが険しい顔をして立っていた。顔は真っ赤で、片手にはラム酒の瓶を持っている。
イノンが呆れ顔で言う。
「ウルル、お前いつの間に飲んでたのか……」
「うるせぇ! 飲まないと、やっていられるか!」
そう言ってウルルは、ラム酒をラッパ飲みした。
そして、ユーシーを指差して叫ぶ。
「大体お前が、いっつもいっつも町の事を話しているから、ジェンが町に興味持ったんだよ!」
「言いがかりだろ……」
ユーシーが眉をひそめて言い返したが、ウルルは全く聞き入れずに、今度はクレセンチを指差した。
「お前も! ジェンにいろんな飴をあげるから、町にはもっとうまいものがあるって思うようになったんだよ!」
「飴は関係ないだろ」
クレセンチは不満そうに口を曲げた。
「それから、レンも! いろんな本を持ってくるから……あれ? いない?」
「今日はレン、来てないぞ」
レンを探して、指先をさまよわせていたウルルに、イノンがため息交じりに指摘した。
文句が言えなくなってしまった苛立ちに、ウルルは「ぐうううう!」と唸りながら地団駄を踏み、またラム酒を仰いだ。
「今度、レンが来たら、思いっきりくすぐってやる!」
「とばっちりも甚だしいわァ」
ホームに響くほどの大声で騒ぐウルルに、メデューサは呆れ顔で頬に手を付けたまま見ていた。
ルージクトも同調して、苦笑を浮かべたまま頷いている
「ユーシー」「ゲネラルプローベ」「吸血鬼」
「ん? どうした?」
立ち上がりスーツの埃をはたいていたユーシーへ、ギギ、ググ、ゲゲがなぜか少し恥ずかしそうに話しかけてきた。
「オレも町に行きたい」「ボクも下へおりたい」「ウチもここから出たい」
「へっ? 急に何を言い出すんだ?」
ユーシーが目を丸くすると、三匹は目配せをしてから話し出した。
「町の料理、試食したい」「人間の食事、研究したい」「レストランの調理法、偵察したい」
どうやら彼らは、ユーシーが何気なく言った、「ここの料理にも負けないぐらい、うまいもの」が気になるらしい。
ホテルのコックとして誇りを持っているゴブリン達は、街のレストランに対抗心を燃やしているようだ。
「なんだか、余計にややこしいことになっているようねェ」
「大丈夫だよ! ギギ、ググ、ゲゲの分だけ、ぼくが町のレストランを調べてきてあげるから!」
「ジェン、俺たちはまだ、町に行っていいと許可を出していないからな」
イノンに睨まれて、先程元気良く手を挙げたジェンティレスは、しょんぼりと肩を落とした。
そのジェンティレスの肩を、後ろから優しく包む手があった。
驚いた彼が振り返ると、クレセンチが笑いかけていた。
「俺は、ジェンの夢を叶えてあげたい」
「クレセ! 俺たちを裏切る気か!」
イノンが興奮のあまり裏返った声で叫んだ。
「裏切るとか、そういうつもりじゃなくて、単純にジェンがやりたいことをやらせてあげたいだけだ」
「けど、人間の町に行くのは……」
「イノン、お前も薄々気づいてるだろ?」
「な、何を?」
クレセンチの真剣な面持ちにたじろぎながらも、イノンは訊き返した。
「ジェンが、人間だということに」
「そ、それは当たり前の事だろ」
あまりに普通のことを言いだしたので、イノンは困惑しながら言い返した。
他の者たちも、きょとんとした顔を見合わせている。
クレセンチは、ジェンティレスの頭を優しく撫でながら続けた。
「人間の寿命は短い。俺たちが想像しているよりもずっとな。今、ジェンはここで、俺たちと幸せに暮らしている。だけど、俺たちと人間たちの間にあるのと同じ大きな壁が、ジェンと俺たちの間にもあるんだ。それをまるでないものとして振る舞って、ジェンも同じ壁のこっち側にいることにしたら、ジェンはやりたいこともできなくなってしまう。それが、本当にジェンにとっての幸せなのか?」
「……けど、もし、ジェンが町に行って、町の事がとても気に入って、もうホテルには帰らない、これからは町で暮らすって、言い出したら……」
イノンは、ジェンが町に行きたいと言い出した時から懸念していた思いを、口に出した。
そう言ってしまえば、本当にそうなってしまいそうな気がして、言葉にするのを我慢していたのだ。
「その時も、俺は笑顔で送り出したいと思っている」
クレセンチの静かな声に、下を向いていた怪物たちは一斉に彼を見た。
ジェンティレスを可愛がっているクレセンチの口から、そのような言葉が出てくるとは誰も想像していなかった。
「いや、もちろん俺も、できればそんな日は来ないでほしいって思ってるよ? でもな、こっちのわがままで、ジェンの人間としての可能性を閉ざしてしまうのは、間違っているような気がするんだ」
ホールは、水を打ったかのように、静まり返った。
それぞれが、ジェンティレスがホテルにやって来た日、成長していく姿を思い出した。それから、大人になったジェンティレスやここを出ていく日を想像していた。
黙ったまま俯いているイノンに、ジェンティレスは歩み寄って、その手を優しく握った。
驚いたイノンに、ジェンティレスはにっこりと笑った。
「心配しないで。ぼくはホテルを出て行ったりしないから」
イノンは、ジェンティレスの言葉に涙が溢れそうになり、強く頭を振ってそれを誤魔化した。そして、皆の方へ顔を向けて、高らかに宣言した。
「俺はジェンが町へ行くのを許可する! みんなも、それでいいよな」
今にも泣きだしそうな顔で、怪物たちは力強く頷いた。
……実際には、ウルルは酔いの力も手伝って、すでに大泣きしていたのだが。
ジェンティレスは花が咲いたような笑顔になって辺りを見回し、「みんな、ありがとう!」と元気よく言って、頭を下げた。
「それで、クレセ、いつ、ジェンを町に連れていくんだ?」
「ああ、その話なんだけど……」
クレセンチは、先程までの威勢の良さを失って、申し訳なさそうに顔を背けた。
イノンの頭上に、疑問符が浮かぶ。
「さっきは、『夢を叶えてあげたい』とか、かっこつけたこと言ってたけど、よくよく考えたら俺が連れてくのは、まずいんじゃないかって思えて……。ほら、こんな大鎌持った男が、小さい男の子連れて歩いていたら、捕まるのかもしれないし……」
「お前、自分の発言に責任を持てよ……」
イノンはがっくりと肩を落とした。そして、視線をユーシーへと向ける。
「じゃあ、ユーシーが……」
「あ、俺は昼間仕事があるから無理」
ユーシーはあっさりと、何故だか爽やかに、そう言った。
「……えっ? じゃあ、俺が連れて行くことになるの?」
目を点にして自分を指差すイノンに、クレセンチとユーシーは「そういう事になるなー」と頷いた。
複雑そうな表情を浮かべるイノンの前に、涙の収まったウルルが元気よく飛び出した。
「はい、はい、は~い! それじゃあ、あたしが連れてきまあ~す!」
「……レンもいないし、仕方ないよな」
「ちょっと~、話聞こえないの~?」
「ウルル、お酒は、あっちで、座って、ゆっくり、飲もうね」
唇を尖らせてぶうぶうと鳴らすウルルを、ライオットが背中を押して、連れ出してくれた。
イノンは邪魔が去ってほっとしたのもつかの間、不安を顔に表して、腕を組んだ。
「でも、俺ももう百年近く、町に行っていないからな。案内できるかどうか……」
「大丈夫だって! イノンは誰よりもしっかりしてるから!」
「心配するなよ! なんかあったら魔法を使えばいいから!」
けらけらと笑いながら無責任なことを言い放つクレセンチとユーシーへの怒りで、イノンの拳はぶるぶると震えだした。
「お前ら、他人事だと思って……!」
そんな様子のイノンの服の裾を、ジェンティレスが引っ張った。
見ると、うるんだ瞳で、イノンを見上げている。
「イノン、ぼくと町に行くのがそんなに嫌なの」
「あ、いや、そんな訳じゃあ……」
あわてて弁解するイノンを見て、クレセンチとユーシーはにやにやと笑い合った。
「やっぱ、イノンもジェンには弱いな」
「いっつも、偉そうにしてるけどな」
こそこそと話している二人に、イノンは魔法で頭上からタライ一杯分の水をかぶせてあげた。
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