第四章 ホテルの怪物たちと天使

その一


 日が西の果てに沈んでしまったが、空には微かに暗い橙色の残る、夜の初めのことだった。


「あー、疲れたー」


 ホテル・トロイメライのホールに置かれた円卓を囲む椅子の一つに、灰色の癖毛に金色の目をした、メイド服姿の狼人間のウルル・トロイデはどかっと豪快に座った。


「ウルル、お疲れ様ァ。今日も掃除に精が出たわねェ」


 彼女の隣に座っていた頭が蛇の女、メデューサ・ゴルゴンが労いの言葉を掛けた。目隠しをした顔をウルルの方へ向け、薄手の黒いドレスから出た白く細い足を優雅に組んでいる。


 ウルルの正面には、幽霊の少女であるルージクト・カドリールが、いつもと変わらない微笑みを浮かべたまま頷いた。

 白いワンピースの裾と透明に近い白髪を、ふわふわと揺らしながら、心地よさそうに浮かんでいる。


 毎晩、多くの怪物たちで賑わうこのホールも、夜の早い時間には彼女たち以外の姿はなかった。

 元々ここに住んでいる者や泊まっている者たちは、それぞれの部屋でくつろいでいる。


 ウルルは、椅子に座ったまま上半身を円卓の上に横たえた。


「今日は隅々まで掃除したから、ほんっとに疲れたよ……。ね、お酒、飲んでいいかな?」

「ダメよォ。気が早いわァ。まだ、カウンターも出していないじゃないのォ」


 メデューサは普段カウンター代わりの台が置かれる倉庫を指差して、少し厳しい声で注意した。


「いいじゃない、今日くらい。クレセもレンも、昨日から泊まっているしー」


 ウルルは円卓の上でごろごろと半回転を繰り返しながら、このホテルの常連である死神のクレセンチ・レイジアと悪魔のレン・カフカ・アシュタロトの名を出した。


「ユーシーがまだ来ていないじゃないのォ」

「あ、そっか。……別にいいや、ユーシーは」


 ウルルは、吸血鬼のユーシー・ゲネラルプローベのへらへらした顔を思い出して、投げやりに答えた。


「そんなことを言ったら、怒ったユーシーに血を吸われちゃうわよォ」


 メデューサの言葉に、にこにこ笑ったままルージクトも何度も頷いた。


「それはやだー。でもめんどくさいー。お酒飲みたいー」


 足をじたばたさせて反抗するウルルを見て、メデューサはため息をついた。


「アナタは本当に、自分に正直ねェ」

「え? それって、誉めてる?」

「誉めてないわァ」

「なーんだ」


 ウルルが残念そうに口を尖らせたとき、ホールの扉が開いた。

 メデューサは始め、ユーシーが来たのかと思った。しかし、扉から漂ってくる気配は、吸血鬼のそれと正反対だった。


「……天使ねェ」

「ああ、天使だ。珍しいな」


 ウルルが思わず感嘆の息をつくほど、その天使からは美しい「聖」の気が漂っていた。


 見た目が若い女性であるその天使は、長いウェーブのかかった金髪で青い瞳に不安をたたえて、扉の取っ手を持ったままきょろきょろと辺りを窺っていた。そして、顔をあげたウルルと目が合った。


 ウルルが笑顔で手を振ると、やっと彼女はほっとした表情になって、白いドレスの裾を掴み、ゆったりとした動きで三人の元へ歩み寄った。

 彼女の右の手首に日傘が掛かっているのを見て、ウルルはやっぱり昼の住民は自分たちと違うなーと思った。


 天使は円卓の前に立ち止まると、ドレスの裾を持ち上げて、優雅にお辞儀をした。


「初めまして。私は、天使のエルーナ・フェルメールです。よろしくお願いします」

「あ、どうも、こん……ばんは。あた、わたしは、ウルル・トロイデです。狼人間です」

「ワタシは、メデューサ・ゴルゴンよォ。よろしくねェ。こっちは、幽霊のルージクト・カドリールよォ」


 緊張した面持ちで挨拶を返したウルルとは反対に、気怠けなメデューサと笑顔のルージクトは全くいつも通りだった。急に、ウルルは自分が恥ずかしくなった。

 天使のエルーナは、微笑を浮かべたまま、しかし真剣な目をして、三人に尋ねた。


「こちらは、怪物たちが泊まったり、暮らしたりしているホテルだと聞きましたが、そうなのですか?」

「ええ、間違いないわァ」

「あのー、全く『聖』の気配を感じないのですが、天使がここに来ても大丈夫でしょうか?」


 エルーナが再び不安そうな顔に戻ったので、ウルルはいまさら何を心配しているのだろうと、思わず噴き出した。


「大丈夫って。今日は他の天使は来ていないけど、天使がこのホテルに来た事なら何回もあるから」

「そうよォ。そんなに肩肘を張らなくてもいいわァ。ここは、人間以外なら誰でも泊まれるホテルなんだからァ。まあ、例外もあるけれどねェ」


 ウルルとメデューサにそう言われて、エルーナはやっと肩の力を抜いて、顔をほころばせた。

 それから取りあえずと、二人に勧められ、空いている椅子に腰かけた。


「本当は、案内役のイノンがいるんだけどな。まだ寝てるみたいだ」

「最近、イノンの遅刻が多いわねェ。だらけている証拠よォ」


 案内役をしている魔術師のイノン・ニクロムの悪口を、二人はそれぞれ言い合った。

 唐突なやり取りにエルーナは目を丸くして、ルージクトも苦笑している。


「しょうがない。あたしが手続きをしますか。えーと、今日空いてる部屋は……しまった、カウンターも出してなかった」

「だからさっき言った通りじゃないのォ。お客さんを、待たせるじゃないのよォ」

「はいはい。今すぐ取ってきますよー」

「あ、ちょっと、ウルルさん、待ってください!」


 一階の階段の裏にある倉庫へカウンターを取りに立ち上がったウルルを、エルーナは慌てて止めた。

 ウルルは不思議そうな顔で、エルーナを見詰めた。


「え? エルーナどうしたの?」

「私、ここへ泊りに来たわけでは無いのです。ある、怪物さんを探しに来たんです」

「へ?」

「あらァ」


 ウルルとメデューサが目を丸くすると、ルージクトは興味津々といって様子で、身を乗り出した。


「いきなりですが皆さんは、天使が元々人間だということを、知っていますか?」

「ああ、聞いたことあるよ。死んで、天国に行った人間の一部が、そうなることができるって」

「はい。よって私も、百年ほど前は人間だったのです」


 エルーナは遠くを見て、昔をゆっくりと思い出していった。


「……私は、このホテルと道でつながっている町で、生まれ育ちました。そして、五歳の時に、母と共に彼女の友人の家へ行きました。そこは、この森の中で小さな畑を持っている家でした。母が友人と家の中で話している間、私は庭で遊んでいました。しかし、初めて町の外に出た幼い私は、はしゃぎすぎてしまい、庭から出て森の中へ、さらに奥へと入り込んでしまいました。気が付いた時にはもう遅く、帰り道の分からない森の中で、私は一人ぼっちになってしまいました」


 当時の恐怖と絶望がよみがえり、エルーナの体は小さく震えだした。


「大きな木々が、私を囲んでいるように見えて、私は怖くてその場で泣き出してしまいました。その声を聞いてやって来たのが、怪物さんでした。……怪物さんは、優しく私に声を掛けてくれて、手を引いて一緒に母のいるところへ帰る道を探してくれました。怪物さんはとても体が大きかったのですが、私の手を優しく握って、引っ張ってくれました」


 あの時怪物が握ってくれた右手を見て、エルーナは自然と笑みがこぼれていた。


「しばらく二人で歩き回っていると、前方から母が私の名を呼ぶ声が聞こえました。安心して、嬉しくなった私は……あろうことか怪物さんの手を振りほどいて、母の所へと駆けていってしまったのです。私は無事に母と再会することができましたが、母と共に元いた場所に戻った時には怪物さんの姿が無く、私はお礼を言えませんでした」


 エルーナはその時の後悔を思い返して、ため息をついた。


「そのことも、いつの間にか忘れかけていました。つい先日、お仕事で別の森の中へ行ったときに、ふと思い出したのです」

「それじゃあ、エルーナは、その怪物に会って言えなかったお礼を伝えようと思ってきたのォ?」


 頬杖をついて言ったメデューサの言葉に、エルーナは首肯した。


「はい。この森には怪物のホテルがあるという噂を耳にして、もしかしたらと思いやって来たのです」

「それで、その怪物はどんな姿をしているんだ?」

「それが……私はぼんやりとしか覚えていないのです。体が大きかったといことと、男性だったということぐらいしか……」

「何よそれェ。ほとんど分からないってことじゃないのォ」

「すいません……」


 メデューサに抗議されて、エルーナは俯いて小さくなった。

 そんなエルーナを励まそうと、ウルルは明るい声を出して立ち上がった。


「じゃあ、一人一人部屋を回ってみよう! あたしも手伝うからさ!」

「そうねェ。ワタシも気になるわねェ」


 立ち上がったメデューサに、ウルルは驚きの目を向けた。


「え? メデューサも探すのか?」

「そうよォ。百年前は、まだジェンも生まれてないわよねェ? もし、助けたのがここにいる誰かなら、今よりもずっと人間を恨んでいるはずなのに、どうしてそうしたのかが、知りたいわァ」


 ジェンとは、ホテル前で拾われて怪物たちに育てられた人間の少年、ジェンティレスの通称だった。ジェンティレスと共に過ごすうち、ホテルの怪物たちは人間への恨みが多少和らいでいた。


 だが、人間との接点が全くなかった百年前、例の怪物はどのような気持ちで人間のエルーナを助けたのか。メデューサの関心はそちらへ向いていた。


 エルーナはまさか怪物探しを手伝えてもらえるとは思っていなかったため、二人に深々と頭を下げた。


「ありがとうございます! 実は、ちょっと心細かったのですが、二人がいれば、百人力です!」

「そこまで言ってもらえるなんて、なあ?」

「ただの野次馬よォ。百人力は大げさねェ」


 ウルルとメデューサはここまで頼りにされるのがなんだか気恥ずかしく、顔を見合わせて照れ笑いをしていた。


「それで、ウルル、誰の所から行くのォ?」

「やっぱり、まずはライオットだな。あいつがホテル内で一番でかいし、性格も穏やかだし」

「そうしましょうよォ。じゃあ、二○三号室に行きましょうかァ」


 ホールに残って手を振るルージクトに見送られながら、エルーナはウルルとメデューサの跡をついて言った。

 これからあの怪物さんに、やっとお礼を言える。エルーナは緊張と喜びに包まれながら、階段を一歩ずつ登った。
















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