私を離して
先方の都合で、急に予定がなくなってしまった私は、仕事をする気になれず、自分の研究室を出て、車で大学を後にした。
田舎の平日の道路はいつもすいており、大学から少し離れた場所にあるショッピングモールでも、距離のわりに、体感的にはすぐに着く。
ショッピングモールの中にある映画館に入り、私は発券機のパネルを操作した。
座席を指定する画面を見ると、席はすべて空席だった。
平日の昼間はどこも同じようなものなのだろう。
とくに、田舎の映画館は。
映画がはじまって、少し
そして、私の席に近づき、となりに坐った。
となりの席から私にほほ笑んでいる女の子の顔を見て、私はひとつため息をついてから、席をひとつずらした。
すると、彼女も私の方へ席をずらし、私の肩へ頭をのせた。
その光景は、他人から見れば、仲の良い母子に見えただろう。
実際は、そのようなわかりやすい関係ではなかったが。
映画が終わった。
私たちは、ショッピングモール内にあるカフェに入り、喫煙席へ腰を下ろした。
タバコの煙を吐き出しながら、私は目の前の女の子を見た。
美少女というには大人びている。
しかし、美女と呼ぶにはまだ何かが足りない。
喫煙ルームのタバコの臭いがきついのだろう。
女の子は、ハンカチで鼻を抑えはじめた。
「
彼女の様子を見て、私が話しかけると、詩香は小さく首を振った。
「大丈夫です。私にもタバコを一本ください。吸ってみたい」
手を伸ばして来た詩香に対して、私はタバコの箱を彼女の手の届かないところへ置いた。
「こんなものは、やめておきなさい」
「それはずるい。
すねる詩香の表情を見るたびに、私は違和感をおぼえる。
詩香の母親、私が「先輩」と呼んでいた人、詩香とよく似た顔立ちをした女性が、私にすねたそぶりを見せたことがなかったから。
タバコをあきらめた詩香は、注文したベトナムコーヒーに口をつけると、少し舌を出した。
「多花子さんは、こんな甘いコーヒーをよく飲めますね。私、甘いのは苦手」
「だったら、やめておきなさいよ。これで何度目? 学習能力がないわね」
私が思わず微笑を浮かべると、詩香も私に微笑を返した。
私も、詩香と同じくらいの年頃は、タバコもベトナムコーヒーも苦手だった。
ただ、そのふたつを先輩が好きだったから、まねをしているうちに慣れてしまった。
おそらく、詩香も、そのうちに慣れてしまうのだろう。
私のまねをしているうちに。
「ところでストーカーさん。だれから、私の予定を聞いたの?」
私の問いに、詩香は悪びれる様子もなく、私が指導している大学院生のなまえを挙げた。
彼か。
年頃の男の子が、詩香のようなかわいい女の子に声をかけられて、私のようなおばさんの個人情報を漏らしてしまっうのは、理解できなくもなかった。
許さないが。
そう言えば、先輩も、男子を手玉に取るのがうまかった。
顔かたちだけでなく、そういうところも、遺伝するものなのかしら?
詩香が、私の家で夕飯を作りたいというので、ショッピングモール内のスーパーで買い物をした。
断ったところで、マンションへ押し入って来るに決まっていた。
部屋に入れなければ入れないで、いつまでもマンションの前に立っているので、どうしようもない。
私は先輩に対して、こんなに積極的ではなかった。
積極的なのは、先輩の方だった。
食材を選んでいる詩香は楽しそうだった。
詩香は料理が上手だが、そこは先輩とは似ていない。
先輩は料理が苦手というよりも、料理や食べることに関心がなかった。
大学での研究に没頭していると、先輩は、食パンやヨーグルトだけで食事をすませていた。
しかし、それはまだ良い方で、一日、何も食べないこともざらにあった。
そのため、先輩の体を心配した私は、彼女のために料理をおぼえた。
先輩は、味の濃いものが食べられなかったので、私は味の薄い料理ばかりを作らされた。
そんな料理ばかりを一緒に食べていたので、私の味覚は先輩に似てしまった。
先輩が結婚したとき、料理はどうするのですかと私は尋ねた。
すると先輩は、女が料理を作らなければいけない理由はないし、そこは相手にも承知させていると答えた。
先輩が結婚すると聞いたとき、私は悲しみよりも驚きの方が大きかった。
そのとき、私は大学院生として東京にいた。
対して、先輩は、いま、私が務めている大学の講師だった。
私は率直に、先輩はバイセクシャルだったのですか、と電話で彼女に尋ねた。
一緒にいるとき、そんなそぶりはまったくなかった。
それに対する先輩の答えは「ちがうわ」だった。
そして、私をさとすように、先輩は言葉を続けた。
「男なんてどうでもいいのよ。私はただ、子供が欲しいの。勘違いしないでね。私が愛しているのはあなただけよ、多花子」
「多花子さん、今日はパスタにしましょう。菜の花のパスタなんて、どうですか?」
先輩とよく似た顔の詩香が、ショッピングカートを押している私に声をかけてきた。
それに対して、私は上の空で「いいわね」と答えた。
先輩とは、東京の女子高で出会った。
私たちは、会ったその時から、何か感じるものがあり、すぐに親しくなった。
私は先輩の後を追うように同じ大学の同じ学部に入った。
そして、同居をはじめた。
いや、あれは同居というよりも、
その後、先輩は、いま私が務めている大学に、講師として着任した。
私も遅れて、東京の大学で職を得た。
その後も、先輩と私の縁は切れなかった。
研究分野が同じだったので、共同で研究をしたり、同じ学会に出席したりと頻繁に会った。
また、先輩の家族旅行にもよく同行した。
旅行中に
そして、准教授になった先輩に呼ばれて、私は、今の大学へ移った。
マンションで、詩香の作った料理を食べながら、私は彼女に何度もしている話をした。
「私がいるから、いまの大学に入ったのでしょうけど、あなたの学力には見合わないから、もっと上の大学を受け直しなさい」
「若い子がこんな田舎にいても楽しくはないでしょう?」
「あなたは、理数系が得意なのだから、入る学部をまちがえているわ」
「私のゼミに入るつもりでしょうけど、おそらく、あなたには合わないわよ」
自分にとって都合の悪い話を詩香は聞き流す。
そこも、先輩と同じであった。
食事を終え、ワインを飲んでいると、詩香はスマートフォンを操作して、古い洋楽を流しはじめた。
それは詩香が、母親の遺品のCDを、スマートフォンに取り込んだものであった。
そして、そのCDを先輩に貸したのは私だった。
興味のなかった先輩に、音楽を聴く楽しさを教えたのは、私だと思う。
「ご家族とはどうなの?」
先輩が家族のことを尋ねられるのを嫌がっていたので、私は詩香にも家族のことは聞かないでいたが、酒のせいで口が滑った。
すると、詩香が冷めた目で、先輩が興味のないものに示したのと同じ目で、答えた。
「多花子さん、駅のホームに待合室があるでしょ? 私、あの人たちと一緒にいると、そこに坐っている感覚に襲われるの。親切そうな人たちに囲まれて、電車を待つような」
詩香の言葉に、私は少し動揺した。
「その話、お母さんがしていたの?」
私の問いに、詩香はきょとんとした顔つきで、「いいえ」と答えた。
そうよね、と私は心の中でうなづいた。
先輩は、待合室とは口にしていない。
エレベーターの中で、他人と一緒にいるような気分だわ。
先輩はそう言っていたはずだ。
夜も遅くなっていたので、私はタクシーを呼んで、詩香を家へ帰そうとした。
しかし、詩香は、電話をかけようとしている私に後ろから抱きつき、私の耳もとで、「抱いて」と強い口調でささやいた。
それは、私がいまの大学へ行くことを渋った際、先輩が「来なさい」と命令したのと、同じ響きを持っていた。
背中から、若いときの先輩と、同じ匂いがした。
私は、ベッドで寝息を立てている詩香の乱れた髪を直してから、ベランダに出て、タバコを吸った。
詩香とは、彼女が赤ん坊の時からの付き合いになる。
詩香が中学生ぐらいまでは、親戚の叔母さんぐらいに思われているのだろうと認識していた。
しかし、私が先輩の大学へ移り、接する機会が増えるにつれて、彼女の私を見る目への違和感が増していった。
その違和感の正体について、内心、私は気がついていたが、詩香の前では知らないふりをしていた。
しかし、先輩は容赦なく私に告げた。
「あの子の多花子を見る目、私を見るあなたの目にそっくりね。いやよ、母子で取り合うなんて」
先輩が亡くなると、大学の空いたポストに私が収まることになり、彼女が使っていた研究室も私が引き継いだ。
講義を終えて、ソファに座ると、私は、きのうの詩香とのやりとりを思い出し、右手で両方のこめかみを抑えた。
このままではいけないように思う。
なぜ、いけないの?
同じことの繰り返しだから。
なぜ、繰り返してはいけないの?
このまま、この関係を続けて行くのはおかしいわ。
このまま、この関係を続けて行って、何がおかしいの?
この先には、おそらく何もないから。
この先に、何かないと、あなたは困るの?
私が終わりのない自問自答を繰り返していると、研究室のドアをノックする音がした。
返事をすると、入って来たのは詩香だった。
ほかにだれもいないことを確かめると、詩香はソファの後ろに回り込み、後ろから私の首へ手を回した。
「多花子さん、きのうはわがまま言って、ごめんなさい」
私は詩香の手を振りほどき、「大学では灰村先生と呼びなさい」と注意した。
「はい。灰村先生、今日もお邪魔していいですか?」
となりに坐った詩香が、私の心を探るように見つめてきた。
私の言うことは決まっている。
それは詩香も承知している。
だから、詩香は、私の心の中を
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