池の主

 水があまり降らない地方の森の奥に、人のめったに足を踏み入れない池があった。


 池の水は少し濁っていたが、底まで中を見通すことができた。

 そこでは、彩り豊かな落ち葉を背景に、キラキラと魚たちが輝いていた。


 フナにコイ。

 ドジョウにドンコ。

 ザリガニとサワガニ。

 イモリにカエル。

 それにカメ。


 池の住人に、取り立てて珍しい生き物はいなかった。

 人の目に見える限りにおいては。



 池の真ん中に置かれていた岩へ、一羽のカワセミが止まった。

 狩りの始まりである。


 青い鳥がそのくちばしを、泳いでいる小魚たちへ向けた瞬間、四方の水面が盛り上がり、鳥を池の中へ引きずり込んだ。


 異変にカワセミは羽をばたつかせ、水中でもがき続けたが、やがてそれも止み、色とりどりの葉っぱが敷き詰められている水底に沈んでいった。


 池の底に身を横たえると、カワセミは見る見ると痩せ細っていき、羽と皮だけになったところで、ようやく水中から解放された。

 美しい亡骸が水面に浮き上がり、辺りを漂い始めた。



 ヌーヌは水であって水でない液体生物である。

 自らの中に住まわせている魚や虫をエサに、鳥や獣を誘い出し、その養分を吸うことを好んだ。


 ヌーヌは、魚や虫に快適なすみを提供する代わりに、彼らを釣りのエサに使うのだが、鳥獣が手に入らない際は、彼らを食って飢えをしのぐ。

 ヌーヌはそのようにして、数百年を生き長らえて来たのだった。



 ヌーヌはサギが食いたくなったので、岩の下に隠れていたザリガニたちを、目立つ場所に追い立てた。


 さいきん、ヌーヌは年を感じることが多かった。

 体液が濁りはじめているだけでなく、臭いも生じていた。


 捕まえるタイミングをあやまり、鳥や獣を取り逃がすことも増えてきた。

 集中力が続かず、狩りをしている最中に、つい、うつらうつらと眠ってしまうこともあった。



 その日も、最初こそは我慢していたが、ヌーヌはやがてまどろみはじめ、砂漠にいたころの夢をみた。


 砂漠ではよく人を食っていたものだ。

 喉をカラカラにした旅人の前に姿を現し、獲物が近づけば遠ざかり、近づけば遠ざかるを繰り返す。


 相手が疲れ果て、歩みを止めたら、「どうしたの。がんばって。私はとっても甘いのよ」と、少し近づいて、しなをつくったものだ。


 そして、獲物が息も絶え絶え、もう一歩も動けぬという状況で俺の前へたどりついたがさいわい、スルスルと相手を包み込み、その息を止める。


 人間は好きだったけど、ラクダはだめだ。

 あれはまずかった。

 脂が食えたものじゃなかった。



 ぱちゃん。

 ヌーヌが目を覚ますと、大きなサギが真っ赤なザリガニをくちばしにくわえ、大空へ飛び立っていった。

 まあ、いいさ。

 あんな大きい奴はまずいに決まっている。




 数十年がった。

 ヌーヌはさらに老いていた。


 体液は嵩をだいぶ減らし、緑色に濁り切っている。

 腐臭もひどくなっていた。

 

 とうの昔に、鳥や獣は寄り付かなくなっていた。

 そのため、老人は自分の中に住んでいた生き物たちで飢えをしのいだが、すぐに食い尽くしてしまった。

 結果、ヌーヌの中は空っぽになった。



 もはや他の水辺へ移る余力もなく、ヌーヌはだいぶ前から何も食べていなかった。

 最初こそ、老人は激しい空腹に襲われていたが、やがてそれもなくなり、彼は自分の死が近いことを悟った。




 さらに十年後。

 黒緑色の苔のようなものに覆われた窪地を、ひとりの男がのぞき込んでいた。

「ここに美しい水辺があったらしいが、雨量も少なく、川も近くにないのに、どこから水を得ていたのだろう。地下水だろうか。その水が枯渇してしまったのか……。それとも、もともと、ここに、池などはなかったのだろうか?」

 男は鼻と口を押えていたハンカチをしまい、来た道を戻って行った。

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