「こちらです」

 メイドに案内されたのは広い浴場だった。十人以上が楽に入れる浴槽があり、磨かれたタイルが床に敷き詰められていた。

「ここが脱衣場です。換えの服はここに用意してありますので、脱がれた服はこちらのカゴへ入れてください。洗濯いたしますので。タオルはこちらをお使いください」

 簡潔な説明を終えると、メイドは一礼して去って行った。

 それを見送ったザムは一度考え、剣を棚の上に置いた。そして服を脱ぎ始める。広すぎる浴場に驚愕していたカルルは、それを見て顔を紅潮させた。

「な、何をしているんだ!」

「風呂に入るんだよ。風呂なんて何年ぶりかな……お前も水浴びしかしていないだろ。いいかげん温かい湯が恋しいんじゃないか」

 王都を出発してすでにひと月以上経過した。ろくに着替えもしていないザムはもちろん、カルルもかなり汚れていた。体臭もする。実際カルルは全身の痒みに参っていた。

「そ、それは……ッ!」

 全裸になったザムに素早く背を向ける。しかも両手で目を隠して。

「先に入るぞ」

 浴場には大きな浴槽の他に小さな浴槽があった。壁から新しい湯が出続けている。そこに桶がいくつも積み上げられていたのでそちらへ向かう。人が入るには深さが足りないので、これは体を洗うためのものだろうとザムは考えた。その通りで石鹸が近くに置かれていたが、石鹸を知らないザムは桶ですくった湯を頭から浴びると、濡らしたタオルだけで体をこすり始めた。黒い垢が塊となって体から削り落とされる。

 痛くなるほど体をこすり終わると、浴槽へ入った。深さは普通の人間、ニドレフやオルラドのような体格に合わせてあるため、体の小さいザムが底に座ると頭まで沈んでしまう。しかし浴槽には段差が作ってあり、そこなら適切な深さだった。本当は半身浴のための段差である。

 思わずザムは声を出した。凝り固まった筋肉がほぐれ、蓄積された疲れが湯の中に溶け出していくようだった。

「……こんなでかい風呂なんて贅沢すぎるな。まるで王にでもなった気分だ」

 低く渇いた笑いが漏れる。

「ただの宿屋が二階建てだからな。この程度、何でもないのかも知れないな」

 荒野と荒れ果てた村しか無い国の光景と、国の外に出てからの光景を比べた。するとこれまでザムが生きてきた人生すべてが意味の無いものに思えてくる。味の無い硬いパンくずを口の中で転がした。泥の混じった井戸水をすすった。自分の体よりも巨大な魔獣と戦った。人間を何人も斬り殺した。生贄となる人間を護衛した。それら全てが。

 十分体が温まったところで浴槽から出る。浴場のドアを開けると、ザムの裸を正面から見てしまったカルルは悲鳴をあげて目を塞いだ。それを無視して体を拭き、用意された服に着替える。シンプルな麻のシャツとズボン。脱いだ靴がなく、新品同様の靴が置かれていた。元の靴より上質のものだ。

「この靴は何だ」

「え、え? あ、あの、メイド? が来て、それ置いていったよ」

 指の隙間からザムを覗くようにしながらカルルは答えた。

「もう服を着ているだろうが。外にいるからな。ちゃんと体洗ってこいよ」

 うろたえるカルルを無視してザムはドアを閉じ、その横の壁へ寄りかかる。そこへメイドが歩いてきた。不思議そうにメイドは首を傾けた。

「お連れ様は?」

「今、風呂に入ってる」

「もう湯浴みが終わったのでしたら部屋にご案内しますが」

「いや、ここで待ってる。それと、あいつが出るまでここへ入るな」

「わかりました」

 教育が行き届いているのか、メイドは何も言うことなく一礼して去っていく。ザムは腕を組んで目を閉じ、カルルが出てくるのを静かに待つ。

 カルルが出てきたのは、一時間以上後だった。するとどこからかメイドがやってきて、二人を部屋まで案内する。

 メイドが開けたドアの向こうは、広い食堂だった。十人以上は座れるテーブルがあり、天井には照明がいくつも並んでいる。壁にはいくつもの絵画が飾られ、壁際にも等間隔に置かれた彫刻。どれもが一級品だが成金趣味には見えない、落ち着いた雰囲気だった。

 すでにオルラドたちは座っていた。ザムとカルルも席につく。メイドたちが続々とカートに乗せた料理を運んできた。それらを白いテーブルクロスの上に並べていく。

「すごい……」

 カルルの口から思わず感嘆の声が漏れる。声には出さないものの、ザムも同感だった。

 昨日の宿屋で見たものとは比べ物にならない料理の数々。パンは大きく、スープからは芳しい香りが漂う。前菜も色とりどりの野菜が目を楽しませ、焼かれた魚の香ばしい香りは食欲をそそる。何より二人の目を惹きつけたのは、大きな鳥の丸焼きだ。ザムの体と同じほど大きい。たっぷりとソースがかけられている。

 ザムとカルルはごくりとのどを鳴らす。

「もー、早く食べようよー!」

 ファーラはすでに我慢の限界だった。ザムたちが風呂へ行った後、オルラドから尋問され、さらに話し合いと長い説教のせいでストレスが貯まっていた。彼女のストレス解消法はひたすら食べることだ。

「はしたないですよファーラ様。はあ、まあいいでしょう。お二人もどうぞお好きに食べてください」

 ファーラは「いただきまーす」と叫ぶと一心不乱に食べ始めた。ザムとカルルはまずスープを一口。体が硬直する。

 口いっぱいに広がる芳醇な香りと甘み。超高級料理というわけではないが、一流の料理人が調理したそれは、貧しい食生活を続けてきた二人にとって天上の美味しさだった。その後は一言も言葉を話さず、ただひたすら食べ続けるのだった。

「ふう……」

 ザムの前には、空になった皿が並んでいた。カルルも同様だ。料理のボリュームはかなりの量だったので、カルルは苦しそうにしている。ザムも何年振りかもしれない満腹感に顔をほころばせながら、ゆっくりと膨れた腹を手で押さえた。

「満足いただけましたか?」

「ああ……こんなに美味い飯を食ったのは初めてだ……」

 カルルは今の格好が王族としてあるまじき状態であることに気付き、慌てて姿勢を正した。しかし限界まで膨れた腹では難しく、顔が羞恥とは違う赤色に染まる。

「この後は寝室へ案内致したいところなのですが、そういう訳にはいかないので……これからのことをお話しましょうか」

 メイドたちがそれぞれの前にグラス置き、赤色の酒を注ぐ。

「お酒がだめでしたら、水か果物のジュースがありますよ」

「いや。酒でいい」

 カルルも頷く。強いわけではないが、カルルも酒は飲める。本当は素面で話すべきなのかもしれないが、酒の力を借りないと無理だと思ったのだ。なにしろこれから始まるのは、自分の運命を決定付けるものなのだから。

「俺が聞きたいのは、本当にドラゴンと、生贄を捧げる相手と連絡が取れるのか。または居場所がわかるのか。どうなんだ」

 ザムは意識して殺気を込めた視線でオルラドを睨む。しかし彼は顔色を変えない。

「その態度は、協力を頼む相手に対してはどうなのでしょう」

「ここに俺たちを連れて来たのはファーラだ。他のドラゴンと連絡ができると言ったのもファーラだ。つまり、そっちが自主的に協力してくれるってことだろ」

「それはちゃんと契約を交わしたものですか? お互いに同意して確約していなければ、それは無効となります」

 二人は無表情に睨み合う。突然始まった応酬に、カルルとニドレフはおろおろと視線を彷徨わせる。ファーラは何もわかっていない様子で不思議そうに見ているだけだった。

(この程度じゃ動じないか……さて、どうするか? ファーラの様子から何かを隠しているのは確実だ。それに生贄をドラゴンに捧げると言った時のオルラドの驚きは本物だった。そこからつつけば……)

 ザムは考えを相手に悟らせないように無表情を崩さない。と、オルラドの無表情が歪み、大きい息をテーブルへ落とす。ザムが訝しげに見ていると、顔を上げたオルラドと視線が合う。

「やめましょう、こんな腹の探りあいは。そもそも隠すようなものは一つもありません」

「……どういうことだ?」

 オルラドが手を上げると、メイドが巻かれた紙を持って来た。受け取ったそれをテーブルへ広げる。それは先ほどザムたちが見た地図だった。

「世界はどの程度の大きさだと思いますか?」

 地図はもう一枚あった。広げると最初の地図より大きい。

「これが、今のところの世界の大きさです。この青い部分が海になります。海は見ましたか?」

「ああ。あれが全部水だとは信じられないな……」

「この大地はその海から突き出ているのです。水たまりに浮いた葉っぱと言えるかもしれません。大地はこの世界地図に描かれている茶色の部分です。そして、こっちは今私たちがいる島を拡大した地図になります。では、世界地図にこの島はどこにあるのでしょうか?」

 島という単語の意味はわからなかったが、きっと今自分たちが立っている大地のことなのだろうとザムは考えた。小さい地図を見ると、周囲が青い色に囲まれている。つまり、海に囲まれているということだ。

 次に世界地図を見ると、周囲を海に囲まれた大きな茶色い部分、大地がある場所がいくつか存在していた。形は歪で、それぞれ距離が離れている。

 ザムは顔を歪めた。小さい地図に描かれた大地の形と、世界地図にある大地の形を照合してみたが、一致する形がどこにもないのだ。

「おい、どこにも無いぞ」

「いいえ。ありますよ」

「どこにあるっていうんだ」

 オルラドは世界地図の一転を指で押さえる。そこは地図の中心からやや下側。しかしそこには青い海があるだけで、大地は無い。ザムが睨むが、オルラドは無表情だ。

「よく見てください」

 海の青の中に、指の先ほどの小さな茶色の欠片がいくつか集まっていた。ザムは怪訝そうに眉をしかめ、何かに気付くと目を見開いて顔を青褪めさせた。

「まさか……っ!」

「そうです。この小さな島たち……島というのは、小さい大地のことです。この大きな大地を大陸と呼んでいます。では、もう一度ここを見てください。他のものより少し大きな島がわかりますか。ここが私たちがいる場所です」

「馬鹿な!」

 ザムには信じられなかった。ベレロ国からここまで来るのに馬車で一ヶ月以上の時間がかかった。確かに速いといえる速度ではなかったが、特別に歩みが遅かったわけではない。その大地がこの指先ほどの広さならば、その何百倍も大きなこの大陸は一体どれほどの広さだというのだろう。

 カルルも遅れて理解し、手で口を押さえて絶句している。これまでベレロ国が世界の全てだった。狭いなどとは思っていない。それどころか手に余った。王都から一度も出たことが無く、それどころか屋敷からすらほとんど出たことが無いカルルにとって、途方も無い世界の広さを理解することは恐怖でしかなかった。

 ザムは最初の衝撃から幾分落ち着くと、すとんと腑に落ちた気がした。これほど広ければドラゴンの一人や二人いてもおかしくはないだろう、と。苦笑が浮かぶ。

「……まったく、どこの夢物語なんだ」

「その割には落ち着いているようですが?」

 無表情でオルラドは探るように見つめる。それにザムはわざと大きく口を吊り上げて見せた。オルラドの目が面白そうにわずかだが弓なりになる。

 目で語る二人にファーラとニドレフは不思議そうに顔を見合わせた。カルルはまだ衝撃から立ち直れていない。

「それでだ、俺たちが探しているドラゴンはこの地図のどこにいるんだ?」

「それなんですが……」

 オルラドはそこまで言うと黙ってしまった。そして一度息を吐く。

「ザム様たちが探しているドラゴンは、もうこの世にはいない可能性が高いのです」

 ザムとカルルはその言葉に目を見開く。ザムはそれでもすぐ平静に戻ったが、カルルはというと陸にあげられた魚のように口を動かしていた。言葉が出ないようだ。なのでザムが質問する。

「どういうことだ?」

「何から話しましょうか……では、ファーラ様たち、ドラゴンについて」

 ファーラへと他の全員が目を向ける。それにファーラは不思議そうに首を傾げた。

「ドラゴンがいるのはここ、ドラゴニア大陸です」

 オルラドが指で押さえたのは、世界地図の中心にある大陸。そこには確かにドラゴニア大陸と書かれていた。そしてもう一つ、その文字よりも大きく書かれた文字があった。

「ドラゴニア共和国?」

「そうです。それが私たちが住んでいる国、ファーラ様たちドラゴンと人間が共存する場所です」

「共存……」

 ザムもファーラと親しく会話する様子から、ドラゴンと親交があるとは考えていた。しかしそれがまさか国家規模だったとは、さすがに驚きを隠せない。

「ということは、この大陸すべてがドラゴンに支配されているのか」

「いいえ。先ほど共存と言いましたよね。確かに国の頂点にドラゴンがいますが、それは国の象徴として、また他の国々への抑止力と人々の心の支えとしてです。支配しているわけではありません」

「どういうことなんだ?」

「ドラゴンは太古の昔からこの大陸に存在していました。その時代は、いえ今も国という概念は無いのです。あるのはナワバリ意識だけでした」

 ドラゴンはそれぞれナワバリを持っていた。それは部族単位だったり家族単位だったり、また個人でナワバリを持つ者もいた。

 ドラゴンの数と出産率はかなり低いため、ナワバリが重なることはまず無かった。しかしそれは部族と家族単位のことで、個人の場合はそうではなかった。

 個人でナワバリを持つ者はいわゆるはみ出し者で、自分からナワバリを出て行ったり、他のドラゴンからナワバリを追い出されたドラゴン達だった。

 彼らは総じて縄張り意識が高く、また自分が好きな場所をナワバリにするため偶然縄張りにしたい場所が重なると、その場所をめぐって壮絶な戦いを繰り広げた。そのせいで地面や山が抉られ、ナワバリとして興味が無くなったためにそこを手にしようと争った二匹のドラゴンが去っていく、などという間抜けな出来事が起こったりもした。

「ドラゴンはこの大陸に分散して住んでいました。その範囲はそれほど広くありません。ドラゴンたちは高い山の上や森の奥、深い洞窟などをナワバリにしていていたからです。食料も人間とは違って、大きな動物や魔獣といったものを食べていました。おかげで人間が住む場所がナワバリとなることは無く、ドラゴンと出会うことはほとんどありません。しかし、例外は個人でナワバリを持つドラゴンです」

 そう言ってオルラドはザムとカルルを交互に見た。

「彼らがナワバリにしたいくつかの場所は、人間が住んでいる場所でした。そこをナワバリにしたドラゴンは周囲の動物たちを食いつくし、気まぐれに森や土地を壊し、そして……人を害することもありました」

 ザムは不快そうに眉間にしわをよせ、カルルはいくらか顔色が悪くなる。それに気付いているだろうが、オルラドは飲み物を一口飲むと話を続けた。

「自分から人を襲うドラゴンは少なかったようです。どちらかというと、ドラゴンを倒そうとして反撃されたほうが多かったと記録されています」

 ドラゴンは自分のナワバリを荒らされなければ無害なものだった。しかしドラゴンは自分のナワバリの中では好き勝手するのだ。その奔放さは人間と同じで、若い者とはみ出し者のほうが大きくなる。つまり、個人でナワバリを持つドラゴンは大体において厄介な性格と行動様式を持っていた。

 そんなドラゴンのナワバリが人間の住む場所と重なっていたら、起こるのは混乱と悲劇。ドラゴンは森を削り、畑となる土地を荒らした。人間たちは団結し、ドラゴンを排除しようと剣と槍を持って襲いかかる。しかしそんな物はドラゴンの鱗に傷をつけることすらできなかった。

 怒るドラゴンは爪で人間を吹き飛ばし、炎の息で家を燃やした。人々は逃げ惑い、その土地を放棄するか、ドラゴンに絶対服従を誓うしかなかった。

「……それが、生贄のはじまりって事か」

 ザムは強く歯を噛みしめ、カルルは深く顔を俯かせていた。

「いえ、人間を生贄に捧げていたのはごく一部で、ほとんどはナワバリとドラゴンに手を出さない事を誓うか、食べ物や家畜を捧げるようにしていました。ただ、人間の生贄を求めたことや、好んで人間を襲っていたドラゴンもいたそうですが……」

 カルルの肩が小さく震えた。顔は俯いたままだ。ザムは今にも舌打ちしそうな表情でオルラドを睨んでいた。

「そんなに怖い顔をしないでください。今はもう人間が生贄になることはありませんから」

「……どういうことだ?」

 ザムの目つきがさらに鋭くなる。カルルはゆっくりと俯けていた顔を上へあげた。

「世界条約でドラゴンに人間の生贄を捧げることが禁止されているからです」

「ど、どういうことですかっ!」

 思わず腰を浮かし、テーブルの上へ身を乗り出してカルルが叫ぶ。平静を装っているが、ザムも叫びたい心境だった。

(生贄が禁止だと! 何がどうなってる……)

 落ち着いてくださいとオルラドが言うと、カルルはゆっくりと椅子へ座りなおす。その目は見開かれたままで、じっとオルラドへ向けられたままだ。

「まだ世界はドラゴニア大陸しかないと信じられていたころです。当時はドラゴニア大陸ではなく、ただ大陸と言われていました」

「それは……」

 カルルがつぶやくと、オルラドは無表情で目を合わせる。

「そうです。その時まであなた達と同じように、この大陸の外に他の大陸があると知らなかったのです。いえ、思いつくことすらなかったのでしょう」

「しかしだ、ドラゴンなら空を飛んで行けるんじゃないか?」

「ドラゴンはナワバリ意識が強いと言いましたよね、ザム様。つまり、ドラゴンたちはそのナワバリから外に出ることがほとんど無いのです。その範囲がいくら広いといっても、大陸の大きさと比べればわずかなものですから」

「そうだとすると、なぜファーラがここにいるんだ?」

 ザムはファーラを指さす。他の人間も顔をそちらへ向けた。しかしファーラはいつの間にか運ばれていたデザートを食べていて、話を聞いていなかった。視線に気付くと、不思議そうにザムたちの顔を見回す。

「それはファーラ様の祖父にあたる方から命じられてなのですが、その理由はとりあえず置いておきましょう。世界地図を見てください。ドラゴニア大陸と他の大陸は離れているでしょう?」

 世界地図で見る限り、と他の大陸とはドラゴニア大陸二個分以上の距離がある。それは他の大陸から見ても同様で、大陸それぞれが大海に浮かぶ孤島だ。

 ザムとカルルがそのことを理解したと見ると、オルラドは言葉を続ける。

「では私たちがいる島とドラゴニア大陸の距離を見てください。近いですよね。この距離を移動するのに、ドラゴンがどの程度時間がかかるかご存知ですか?」

 ドラゴニア大陸から南にあるこの島まで、指四本ほどの距離だ。

 実際にファーラの背中に乗って飛んだ感覚では、馬の何十倍も速く感じた。なのでそれほど時間はかからないとザムは考える。

「一日は無理だとしても、二日か三日あれば行けるんじゃないか?」

「おしいですね、四日です。ただし何も荷物を持たず、休憩も最小限で急いだ場合ですが。通常は余裕を持って六日となります。では、他の大陸へはどの程度時間がかかるでしょうか?」

 島までは指四本の距離。では他の大陸へはどれほど距離があるのかというと、指六本ほど。ただしそれは、指を横ではなく縦に並べた距離だった。

 横にした指四本で六日だというのに、これほどの距離なら一体どれだけ時間が必要なのか。

「それは……わかりません」

 下手な冗談のような言葉に、ザムとカルルは思わず間抜けな顔になる。

「ふざけているのか……?」

「いいえ。今のところドラゴンが他の大陸へ飛んで行ったことがないのです」

「なぜだ」

「遠すぎて無理だったのです。見てください、この地図の大部分を占める海を。そこに島はいくつありますか?」

 ザムはじっくりと世界地図を調べる。海にある小さな点、島はいくつかあるが数は少なく、そして大陸や他の島から距離があった。今ザムたちがいる島の周辺のようにいくつも島が存在し、また大陸から近くまるで飛び石のように続いているものは存在しなかった。点在する島はどれも絶海の孤島だ。

「ドラゴンといえど疲労はありますし、何日も不眠不休で空を飛ぶのは無理があります。ですが大陸から大陸まではあまりに遠く、そして島から島も一日で飛べる距離ではありません。休憩しようと思っても、そこは海の上です。ドラゴンは海の上に立つことはできませんし、泳ぐことはできますが水の中で呼吸は無理です」

「つまり、ドラゴンが自力で他の大陸へ行くことは無理だということだな」

「で、では、どうして他の大陸があることを知ったのですか?」

 カルルは少し上ずった声で言った。

「私たちが行ったのではなく、あちらからこちらへ来たのです。当時としては信じられないほど大きな船で、この広すぎる海を渡って」

「船……?」

 ザムとカルルはそろって首を傾げた。ベレロ国には船が存在しなかったからだ。湖や川はあるが、木材が貴重品であり全てが貴族たちの屋敷などに使用されていたため、船やイカダといったものが開発されなかったのだ。

 オルラドは二人が船を知らないことに驚くが、かすかに眉を動かすだけにとどめた。長年かけて身につけた自己抑制方法のおかげだ。

「船は木材を組み合わせて作った乗り物で、海に浮かびます。帆に風を受けて進み、またオールを使って人力で進むこともできます。他の方法もありますが」

 説明されてもザムとカルルにはさっぱり意味がわからない。そもそも木が水に浮くということさえ知らないのだ。水の上を進む乗り物など想像もできない。

「ここは港町なので、船は毎日のように出入りします。今日はもう夜なので、明日あたり誰かに案内させましょう。話を戻しますね。その船を使って、他の大陸からドラゴニア大陸へ初めての客人がやってきたのです」

 それは三百年ほど前、突如ドラゴニア大陸の南にある海岸へ現れた。十隻ほどの巨大な帆船。まだ十人ほどが乗れる程度の船しか知らなかった人々にとって、百人近くが乗船できる大きさは未知の驚きより恐怖が勝っていた。

 さらに恐怖を煽ったのは、やってきたのが船だけではなかったからだ。人よりも大きな魚の群れ。それはイルカとシャチ。数は合わせて百匹ほど。船と速度を合わせて水面を飛び跳ねながら泳ぐ。

 人々は最初それは魔獣の群れだと思っていた。イルカのように大きな魚など見たことが無く、見たことがあってもそれは正真正銘の魔獣であった。

 しかし本当の恐怖はそれからだった。船とイルカとシャチの集団の後ろの海面が、ゆっくりと盛り上がる。そこから現れたあまりにも大きな顔に、海岸にいた人々は恐怖で絶叫した。

 黒い体表と同じく黒くて丸い瞳。口は広く大きく、よく見ればユーモラスだったがはじめて見る人々にとって、それは恐怖の対象でしかなかった。

 盛大に水しぶきをあげて顔を出したのは一匹の巨大な鯨。顔だけで横幅は船の四隻分は余裕であり、体長は十隻分を下らない。鯨はまるで挨拶かのように高く潮を空へ吹いた。

「こんな生き物がいるのか」

 ザムは図鑑を見ながら呆けたようにつぶやく。この図鑑はイルカなどの生物を知らない彼に説明しても首をひねるだけだったので、オルラドがメイドに命じて持ってこさせたものだった。それには鯨やイルカの姿が絵で紹介されていてわかりやすい。大きさも人や船と比べてわかるように、それらの絵が並べて記されたページがあり、今はそこを開いていた。

 感嘆の息をはきながら図鑑を見ているザム。彼の顔に自分の顔を押し付けるようにして、隣にいるカルルも図鑑に見入っていた。その顔には驚きより好奇心が多く含まれいる。

 オルラドは小さく咳払いを一つ。それで図鑑に目を落としていたザムは顔を上げた。カルルもそちらへ顔を向け、いま自分がの顔がザムと触れ合いそうになっていることに気付き、慌てて離れると椅子へ座りなおす。

「どうした?」

「な、なんでもない!」

「では続けます。その船団はドラゴニア大陸のはるか南にある大陸からやって来ました」

 船から降りてきた人の姿を見て、遠巻きにしていた人間たちは再び悲鳴をあげた。その姿が自分たちとかけ離れていたからだ。

 緑の髪の毛に同じ色の瞳、肌は青みがかった鱗に覆われ、手足には水かきがあった。さらには首へ魚にあるエラが存在している。彼らは自分たちのことを、マーマンと呼んだ。

「マーマン……」

「それは彼らの種族の男性をそう言い、女性はマーメイドと言います。見た目は人間と魚を足したような姿で、実際に彼らは海の中でも呼吸が可能です。海中や湖の中に住居を作って生活しています」

「そんな人たちが……」

 カルルは新しくオルラドがメイドに持ってこさせた本に目を奪われている。それはこの世界について様々なことが絵入りで紹介されている分厚いものだった。文章よりも絵が多いのは、幼い子供の教育用の本だからだ。

 開いたページにはマーマンとマーメイドの姿絵が載っている。それはオルラドが説明した通りの姿で、カルルは何も言うことができなかった。

「南の大陸以外の大陸にも、ドワーフにエルフといった魔人たちがいるのですが、その説明は省きましょう。それで彼らがこの大陸へ到着してからですが……」

「ちょっと待ってくれ」

 オルラドの話に割り込んだのはザムだ。その目はいくらかの困惑で揺らいでいる。

「魔人とは何だ。俺たち人間とは違うのか?」

 その言葉に、オルラドが一瞬呆れたような表情へ変わった。ザムは片目を細めその意味を探るが、すでに彼はいつもの無表情へ戻っている。

「それはですね……このページを見てください」

 オルラドは本をめくり、そのページを開いた状態でザムたちへ渡す。

 そこには人の立ち姿の絵が横に並んでいた。右端に人間の男女、その隣へマーマンとマーメイド。その隣にも男女の姿が描かれていたが、ザムとカルルにとって全く見覚えの無いものだった。

 例えば背が低いが筋肉質で髭が顔全体を覆うほどある者、頭から角が生えている者、さらには下半身が馬や蛇になっている者、どう見ても魔獣にしか見えない者。それらが描かれたページの上には『人類とその種族』と書かれていた。

「人類というのは、私たち人間とそれ以外の種族全てを含む呼び方です。動物と違い知能が高く、言葉と文字で交流できれば人類ということになっています」

「待てよ。これも俺たちと同じ人間だっていうのか!」

 叩きつけるようにザムは本へ指を向ける。それはページの左端、そこに描かれているのは異様に目が大きく体毛は存在せず、手足から獣のように鋭い爪が伸び、口からはみ出した乱杭歯に背中からはまるでコウモリのような羽が生えていた。人間と似ているのは二本足で立っている程度で、見るからに魔獣そのものだった。

「それは魔族ですね。特徴として他の種族からかけ離れた姿をしていますが、知能は私たちと全く遜色ありませんよ。ただ、彼らは魔人と呼ばれるのを嫌い、魔族と呼称しています。人よりも魔に近い、ということらしいですね」

「魔獣じゃないのか」

「見た目はたしかにそうですが、魔獣とは違って意思疎通ができますから。ただしその力は魔獣と同じかそれ以上です」

「なんだよ、それは……」

 ザムもカルルも言葉を無くした。オルラドは無表情に杯でのどを潤す。それを見てザムは自分ののどがカラカラに干上がっている事を自覚した。杯をつかむとのどへ酒を流し込む。七割がた残っていたはずなのに、渇きがおさまった気がしない。

「落ち着きましたか? では魔人の説明ですが、魔人とは私たち人間と魔族以外の種族のことです。その本に書かれていますよ」

 様々な種族の立ち姿が並ぶページ。右端の人間の頭の上には『人間』という文字があり、左端の魔族の上には『魔族』とあった。それに挟まれたいくつもの立ち姿は線でまとめてあり、そこには『魔人』という文字があった。

「魔人は魔族と何が違うんだ? 体が馬や蛇になっているやつらもいるし、二本足で立つ狼みたいなのもいるぞ」

「さっきも言ったように、知能が高く言葉と文字が使えれば人類となります。ではここで問題です。私たち人間はなぜ魔人ではないのでしょうか?」

「それは、この体が……」

「馬の体や肌に鱗があればわかりますが、このドワーフとエルフは体格や耳の形ぐらいしか違いがありません。それなのになぜ彼らは人間ではないのでしょう?」

 ザムは言葉に詰まる。思わずカルルへ目を向けたが、カルルは目が合うと一瞬目を丸くさせ、自分に意見を求めていることに気付くと慌てて首を振った。小さく舌打ちをする。

「わからないな」

「正解はこれです」

 オルラドはポケットから何かを取り出す。それは透明な魔石、遠話石だ。それがほのかに輝きだす。

「私たち人間はこうして魔石がなければ魔法を使えませんが、魔人は魔石が無くても魔法が使えるのです」

「魔法……」

 カルルは呆然と光る魔石を見つめる。

「これは離れた場所にいる、この魔石と対になる物を持った相手と話ができる魔法が使えます。他には火や水を出したり、ここにある照明のように光を放つこともできます」

 食堂の壁に設置された照明は、どれも魔石が光っているものだった。ザムたちは気付かなかったが、この建物で使われている照明はどれも魔石を使うもので、オイルや蝋燭など火を必要とする物は一切無いのだ。

「種族によって使える魔法は違います。マーマンとマーメイドは水の魔法、エルフは風の魔法というように」

「魔法なんて、おとぎ話のなかの出来事だと思ってた……」

「マーマンたち別の大陸からやってきた魔人が魔石を持ってくるまで、魔法は確かに空想の産物でした」

「その言葉だと、魔石はこの大陸では手に入らないということか」

「そうではありません。魔石は、魔石の原石に魔力を注ぐ事で製作できるのですが、私たち人間は魔法が使えないため石に魔力を注ぐなどという事は思いつかなかったのです」

「なるほどな……ちょっと魔石を見せてもらってもいいか」

 オルラドはどうぞとザムへ魔石を手渡す。手に取ったそれを、様々な角度から観察する。オルラドと比べると小さなザムの手でも包むことができる大きさだ。

「これは、水晶に似ているな。濁りも無く綺麗だ。かなり価値があるんだろうな……」

 まるで宝物を見るかのようにザムは感嘆している。隣で見ているカルルも同じ顔だ。それを見てオルラドは困惑した表情になる。

「それは魔石なので多少値段は高くなりますが、それほど高価なものではありませんよ?」

「そんなはずは無いだろう? これなら半年分の食料、いや最高級の馬と交換できる」

 さらに困惑した顔となるオルラド。確認のためカルルへと目を向けると、頷く。

「それぐらいの遠話石なら、一個千ドラ程度なのですが」

「ドラ?」

「ああ。国が違うのだから通貨単位も違うのが当たり前ですね。それならば……しかし物価もかなり違うはずですから……」

「ん? 通貨単位とは何だ?」

「え、ああ通貨は貨幣、つまりお金のことで……」

「金とは何だ?」

「は?」

 オルラドの表情が崩れる。それに訝しげにしながら、ザムは再び問う。

「だから、金とは何だ」

 ちょっと待ってください、そう言ってオルラドは頭を指で押さえた。その状態で数秒間頭を整理すると、一度深呼吸をして口を開いた。

「……すいません、ベレロ国で食べ物や服などを手に入れるにはどうしていますか?」

「それは、狩った動物の肉や皮と交換だな。俺のような下級氏族はまず使わないが、貴族たちは水晶と交換してる」

 ザムは身につけていた小袋から、水晶をいくつか取り出す。それは遠話石と比べるまでも無い、指の先程度の小さな水晶の欠片。

「それ一つでどれほどの価値があるのですか?」

 オルラドが恐る恐る質問すると、それが常識であるという様子でザムは言う。

「大体、ひと月は十分暮らせるな」

「はあっ?」

 思わずオルラドは大声をあげた。それはザムとカルルだけではなく、普段どれだけ怒っていても声を荒げることがない彼を知っているファーラとニドレフ、そして控えているメイドたちを驚かせるのに十分な大きさだった。オルラドは口を大きく開けて呆然としている。

「ちょ、どうしたんすかオルラドさん!」

「ニドレフさんは聞いていなかったんですか! あの水晶の欠片がひと月ぶんの生活費と同じなんですよ!」

「えっ、それマジっすか!」

「聞いていないじゃないですか! そういえば何も喋っていなかったですね」

「すいませんっす。なんか難しい話してるし、そのうちウトウトしちゃったんす」

 そこで自分が大声で叫んでいる事に気付き、オルラドはわざと大きく咳払いをした。そしてメイドが自主的に用意した飲み物を飲み、一息つく。

 ザムとカルルは突然豹変したオルラドに、ただ目を丸くしていた。

「取り乱しましてすいません。ええと……ここまで旅をしてきたのですよね? 宿泊や食事はどうしていたのですか」

「野宿でテントか馬車で寝ていた。食料は持っていたからそれを食べた。それに宿に泊まったのは……そういえばあの時の宿屋と食事の代品を渡していなかったな。これで足りるだろ」

 ザムは指の先ほどの水晶の欠片をニドレフへ差し出す。それを微妙な表情で受け取り、ニドレフは顔を横へ向ける。オルラドはニドレフにアイコンタクトで伝える。何も言わず受け取れ、と。小さくありがとうございますと言いながら、ニドレフはそれを受け取った。

(まさか貨幣経済ではなく今も物々交換だとは……)

 オルラドは頭痛がしてくるのを感じながら、努めて平静を装う。

「その水晶のほかに宝石や鉱石はありますか?」

「水晶と石以外に山から取れるものがあるのか?」

 不思議そうにザムは言う。カルルも同じ表情でオルラドを見ていた。頭痛がひどくなるのをオルラドは自覚した。

(なるほど……それほどまでに資源が存在しなければ、文明が停滞してしまうのも仕方がないのかもしれませんね……)

 心では盛大にため息をつきながら、それをオルラドは表に出さない。

「それでは、ええと魔人については置いておきましょう。まずはこの世界の歴史について知っていただきます。そうすればカルル様が生贄となる必要が理解できると思いますので」

 カルルの体が硬直し、そして真剣な顔となり大きく頷く。それを視界の端にザムは見ながら、鋭い目をオルラドへ向ける。

「では、マーマンたちが南の大陸からやってきたおかげで、この大陸の人々はこの海の向こうに違う世界があることを知りました。それは少なくない混乱を引き起こしました」

 当時はドラゴニア共和国という大陸全てが一つの国ではなく、大小無数の国々が存在し、共存と対立、拡大と縮小、侵略と消滅をくり返していた。それは大陸という閉じられた世界で起こっていたが、そこに外から壁を壊して違う世界が侵入してきたのだ。混乱が起きるのは仕方がないだろう。

「幸いなことに、彼らは侵略や略奪のためではなく友好と貿易を望んでいました。また最初に接触した国も平穏な気風だったこともあり、交流は特に大きな混乱も無く進みました」

 マーマン達の船団は一年ほどその国に滞在することになった。完全に未知の種族と国との接触のため、その擦り合わせは慎重にやるしか無く、貨幣価値も全く違うため貿易するにも一苦労だったのだ。

 さらに彼らの船は長旅でいたる所が損傷していて、大掛かりな修理をしなければ南の大陸へ戻ることも不可能だった。

 その国の南側は全て海ということもあり、港も船も多く造船と漁業が盛んだった。しかしマーマンたちと比べるとその差は歴然で、船の大きさと性能だけでなく、港の構造なども彼らから見れば時代遅れだった。

 船を修理しなければならないという必要性もあり、マーマンたちはその技術を惜しげもなく提供した。その代わりに船の修理に使う木材や鉄、食料をもらう。そういった契約が交わされる事となった。

 これは南の大陸の者たちより、この大陸の人間たちのほうが圧倒的に利益があることだった。まず船と港作りの技術力が格段に上がり、また彼らが持ち込んだ魔石という、おとぎ話にしか存在しなかった魔法の力を手に入れたからだ。

 マーマンたちは水と光の魔石しか持っていなかったが、それだけでも大陸の人間にとってはとんでもなく価値がある物だった。当時は魔石一つがその重さの十倍以上の金と交換されていたという。

「そんな物を独占すれば他の国が面白くないはずがありません。周辺の国々と小競り合いが度々起こったそうです。しかし国はそれを退けました。それに魔石が一役買ったそうですが、正確にはわかっていないようです」

「まるほどな」

「それで、それからどうなったのですか!」

 カルルは身を乗り出して目を輝かせている。それはまるで母親に話をせがむ子供のようで、高貴な王族には似つかわしくない。それはザムから見れば幼く見え、オルラドやニドレフから見れば歳相応だ。

「一年後、マーマン達は船団を二つに分けました」

 別れた船団の一つは南の大陸へ帰り、もう一つは未知なる大陸を求めて旅立った。

 その後は南の大陸と貿易を続け、その余波はやがて大陸全土へ波及していく。それによって富める国もあれば衰退する国も多かったが、二つの大陸の交流はほぼ問題なく行われることとなった。

 大海へ未知の大陸を求めて旅立った彼らはというと、無事新たな大陸を発見することとなる。その事が伝わると世間はその話題に熱狂し、商人たちは富を、物好きな者は夢を求めて海へ次々と旅立っていった。そのおかげで造船技術や航海方法が格段に進歩し、一気に世界地図は広がることとなるのだった。

「そうやってできたのがこの世界地図と、この本です」

 カルルは好奇心に満ちた目で地図と本を見ていた。しかしザムは不機嫌そうな顔だ。

「それで、どうしてドラゴンに生贄を捧げなくてよくなったのか。その説明がまだだぞ」

 ザムの言葉にカルルははっと顔を上げた。オルラドは飲み物で軽くのどを湿らせると、目を鋭く光らせながら口を開く。

「今のこの世界地図になったのは、二百五十年ほど前です。いくつもの大陸が発見され、それにともない多数の種族、多数の国が出会うことになりました。お互いが未知の相手であり、似ている部分もあれば全く違う部分もあります。これで衝突と混乱が起きないわけがありません」

「戦争か……」

「いえ。大陸どうしがあまりに距離があるため、それはどの大陸も不可能と判断しました。片道で三ヶ月から半年、またはそれ以上。ろくに補給もできず、もし海で嵐に見舞われたらひとたまりもありません。さらに魔獣に襲われることもありました」

「海に魔獣がいるのか……」

 海にいる魔獣は、基本的に海洋生物の体をしている。魚や亀にイカやタコなど。それらは自由に海を泳げるが、人間たちはそうではない。船を壊されれば魔獣たちの餌になるしかないのだ。

「船よりも大きな魔獣もいるので、それと出会って生き残れた人々はごく少数です」

 カルルはごくりとのどを鳴らす。

「そ、そんな恐ろしい場所を通って貿易がうまくいったのですか?」

「そこで活躍したのが南の大陸の魔人、マーマンとマーメイドたちです。彼らが貿易船を使い、大陸から大陸へ海を渡って行きました」

 マーマンとマーメイドは海の中でも呼吸が可能で、手と足の水かきを使って魚のように泳ぐことができた。泳ぎだけでなく、海中での戦闘力も非常に高かった。彼らは水の中で華麗に槍を操り、海に現れる魔物たちなどものともしなかったのだ。

 さらにもう一つマーマンとマーメイドには特徴があった。それはイルカやシャチにクジラなど、一部の海洋生物と意思疎通ができる能力だ。その力で船団は何匹ものイルカやシャチを仲間として引きつれ、彼らを使って魔獣と有利に戦うことができた。船よりも大きな魔獣も、それよりさらに巨大なクジラを同行させることでその被害を無くすことができたのだった。

「その力を使ってマーマン達は大陸どうしを船で行き来することができました。どの大陸も造船技術が未熟であり、さらに広い海を渡る航海方法など知りません。もし彼らがいなければ、きっとまだ誰も海の向こうに大陸があるなど知らなかったでしょう」

「すごいですね……」

「おい」

 スケールの大きな話に感嘆していたカルルは、ザムの固い声に振り向く。

「え、なに?」

「何じゃない。話が逸れてる」

「すいませんでした。では、大陸から大陸へ行き来できるということは、別の種族どうしがが交流するということでもあります。ほとんどの者がそれに同意したのですが、それに異議を唱えた者もいました」

「それは?」

「ドラゴンです」

 部族と家族単位でナワバリを持つドラゴンたちは穏やかな性格だ。自分たちに影響が無ければ、ナワバリ内でも人間がなにをしていようが構わないと思っている。実際ドラゴンのナワバリの中にある村や街は昔から多かった。

 しかし個人でナワバリを持つドラゴンはそうではない。少し近づいただけで人間を血祭りにするような気性が荒いドラゴンが多かった。そしてそれは人間だけではなく、他の大陸の人間および魔人に対してもそうだったのだ。

 とあるドラゴンが海の近くをナワバリとしていた時、偶然マーマン達の船がそこを通った。それに気付いたドラゴンは気分を害し、船へ襲い掛かる。それに気付いたマーマン達は急いで海へ飛び込み、幸いなことに多少のケガをした者しかいなかった。しかし船は完膚なきまでに破壊され、積荷も全て失ってしまう。

 この事はもちろん問題となり、その船が所属する商会および国から抗議されることとなった。それに困ったのはドラゴンがいる大陸全ての国だ。ドラゴンは触らぬ神に祟りなしということで、誰も関わることをせず放置されていた。

 当時はドゴニア共和国という大陸全てが一つにまとまっていた訳では無く、大小の国々が存在していた。それら全ての王と要人たちは集まり、会議をくり返す。議題は、ドラゴンがどうすれば暴れなくできるか。しかし、どう考えても人間には不可能だった。しかしそれで終わるわけにはいかない。すでに他の大陸との貿易は、国々にとって重要な経済事業に組み込まれていたからだ。

 結論として、ドラゴンはドラゴンに任せるしかない、となった。国から選ばれた人間が調停者となり、一万年以上生きていると言われるドラゴンの長老へ話し合いへ向かった。しかし長老の協力は得られなかった。しかし若いドラゴン、と言っても数千年も生きているドラゴンだが、彼らの一部の協力を得ることができた。

 彼らは海の向こうある大陸と見たことの無い種族に興味を持ったのだ。また他の大陸と衝突すれば、いらぬ混乱が起こると考えたドラゴンたちも協力することとなった。

 人間に協力するドラゴンたちは、個人でナワバリを持つドラゴンへ話し合いへ向かった。

「何だキサマら。俺に何の用だ」

「話は簡単だ。人間や外の大陸の者たちをいたずらに傷つけるな」

「ハッハッハッ! なぜ俺がそんな窮屈な思いをしなければならんのだ」

 個人でナワバリを持つドラゴンは、他のドラゴンと考えが合わないからこそ、そこから飛び出してきたのだ。話し合いが成功するはずが無い。

「言うことを聞かせたかったら、力ずくでやってみろ!」 

 大陸中のはぐれドラゴン達との戦いがはじまった。山が消え地が抉れ、森は焼かれ叫び声が大陸中に轟いた。

 はぐれドラゴンは力の限り闘ったが多勢に無勢。またその性格ゆえに協力することはなく、個人で戦った彼らは全て駆逐されることとなる。

 ドラゴンたちは宣言した。『ドラゴンは全ての国の人間、魔人、魔族ほか、あらゆる種族に対して理由無き暴力を禁止する』

「これが最初の世界条約となりました。なぜ世界条約なのかと言うと、ドラゴンはどの種族より圧倒的な力を持つからです。若い百歳足らずのドラゴンでさえ、一つの国を滅ぼすことができるのですから。ドラゴンに勝てる者はほとんどいません」

「それが、どうしてカルルが生贄になる必要が無くなるんだ」

「条約はこうです。ドラゴンは全ての国の人間、魔人、魔族ほか、あらゆる種族に対して理由無き暴力を禁止する。つまり……」

 意味を理解したザムは仮面じみた無表情に変化する。解っていないカルルは、恐る恐るオルラドへ続きをうながす。

「ど、どういうことですか?」

「……ドラゴンが生贄を求めることが禁止されました。二百年ほど前のことです」

 カルルの顔が人形のように白くなる。

「部族および家族単位でナワバリを持つドラゴンは、人を生贄に求めません。そもそも人を好んで食べることがないのです。では、人を生贄に求めるドラゴンとは? そう、そこから出て行った個人でナワバリを持つドラゴンだけです。そのドラゴンたちは全ていなくなりました」

「いなくなっただと……それは、本当なのか」

 ナイフのような鋭く睨むザムへ、オルラドは落ち着いた表情で言う。

「はい。誰一人いません」

「しかし、一匹ぐらい……」

「いません。人間を好物としているドラゴンは最後まで抵抗しました。そのことで、彼らはドラゴン達によって全て駆逐されたのです」

「駆逐というのは……」

「はい。殺されました。何人かは条約を守ることを誓ったそうですが、それを拒んだドラゴンは全て死に絶えたのです」

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