「ふぁー、お腹いっぱい」

 ファーラはベッドへ飛び込む。

「ファーラさん、静かにしてくださいっす。まだ寝ないでくださいっすよ」

 ニドレフはすでに寝息をたてていたファーラを起こす。

「えー、なにー? ねむーい」

「まだあの二人の話ちゃんと聞いてないっす。何があったんすか?」

 ファーラは眠そうに目を擦りながら喋る。

「えーっとねー、空飛んでたらー、あの山に人がいたから行ってみたの」

「で、どんな話をしたんすか」

「なんかね、ドラゴンに生贄を持って来たーって言っててー。ボクにあげるとか言ったから、めんどくさいし秘書のところへ連れて行こうと思ったの」

「いまいち分からないすけど、まあいいっす。でも、それなら飛んで行けばよかったんじゃないっすか?」

 ドラゴンの姿になれば、あの馬車なら手か足で掴んで空を飛んでいける。

「だって、街に行ったら秘書がいるしー」

「いや、秘書さんのところへ連れて行こうとしたんすよね?」

 ニドレフは首をひねる。

「だってー、ボク逃げ出してきたじゃん? しかも生贄とかめんどくさいことも一緒だしー、そうしたら絶対怒られるしー」

「怒られるのが嫌で、わざとゆっくり移動してたんすか!」

 ニドレフが驚いた声をあげると、ファーラは頷く。それを見てニドレフは頭を押さえてため息をはく。

「そうしたって結局怒られるっすよ? 逆に何で早く来ないんですか、って言われちゃうっす……」

 ニドレフは秘書の怒る顔を思い出し、背筋に氷柱を突き刺されたような気分になる。青い顔になったニドレフとは対照的に、ファーラは目を半分閉じて眠そうに船をこいでいた。

「ちょっと、寝ないでくださいっす! 何か聞いてないんすか!」

 肩を揺さぶるが、ファーラの頭が揺れるだけで目は開かない。

「んーと……カルルが生贄……」

「それは聞いたっす! 他には!」

「……すー」

 ファーラは眠りの世界へ旅立ってしまった。ニドレフはがっくりと肩を落とす。

「はあ……どうなっちゃうんすかねえ……」

 ニドレフは秘書から直々にファーラを連れ戻して来いと言われていた。その時はまさかこんな場所にいると思っていなかった。偶然とある村で岩山で大きな光が見えたという情報が無ければ、ファーラを見つけることは不可能だったかもしれない。その光とは数日前、ファーラがブレスでザムたちを黒焦げにしかけたときのものだった。

 そしてやっと見つけたと思ったら、とんでもない厄介ごと連れていた。こんなことなら見つからなければ良かったとすら思う。

 重いため息をつくと、ニドレフもベッドへもぐりこむ。

「何事も無く終わればいいっすけど」


 ドアを叩く音でカルルは目覚めた。上半身を起こすと、目をこすりながら室内へ視線をめぐらす。窓からは朝日の弱い光が差し込んでいた。

「起きたか」

 すでにザムは起きていた。

「ザムさーん、カルルさーん。朝っすよー」

 ドアの向こうからニドレフの声。ザムは腰の剣の位置を確認し、ベッドの上でまだ寝ぼけているカルルへ振り向いた。

「これから朝食だ。行くぞ」

 目覚めたばかりではっきりしない頭のまま、カルルはベッドから下りる。ザムがドアを開けるとその後にフラフラとついて行く。階段の手前まで来て、やっとカルルの意識が回復した。

「はっ!」

「やっと目が覚めたか。朝が弱いにもほどがあるだろ」

 そう言って笑うザムに顔を真っ赤にするカルル。

「うるさいバカ! 顔を洗えばはっきりするんだ!」

「外に井戸があるんで、そこで洗えばいいっすよ」

 聞こえた声にカルルはぎょっとする。ニドレフがいることに気付いていなかったのだ。それほどまでにカルルは朝が弱い。

 さっきまでの醜態を見られていたことで、カルルはさらに赤面する。それを見て、ザムがニヤリと口元を歪めた。

「どうせなら水浴びもしてきたらどうだ? ずっとしていないだろ」

 カルルはもう何日も体を拭くことすらできていない。この村へ到着したときはこれで体をキレイにできると喜んでいたが、宿屋の建物に対する驚愕や食事の際のザムの態度のせいで、そのことが意識から飛んでいたのだ。

 カルルの肩がワナワナと震えだす。

「ザムー!」

「おい、こんな所で暴れるな。階段から落ちる」

「ムキー!」

「喧嘩はダメっすよー!」

 ニドレフの仲裁もあり、落ち着くことが出来たカルルは井戸へ顔を洗いに行き、そのあと食堂へ向かう。ドアを開けると、すでに何人もテーブルで食事をしている光景があった。ザムたちの姿はすぐに見つかる。

「ちゃんと目が覚めたか?」

 カルルは無言で椅子へ座る。

「朝食メニューは一つだけなんで、もう頼んでるっすよ。飲み物は適当に選んだっすけどいいっすよね」

 ニドレフの言葉に反応せず、カルルはただザムを睨みつける。

 昨夜の寝入りばなの言葉は何だったのか。私を気遣ってくれているのではないのか。そんな思いが渦巻くが、カルルはそれを言葉にしない。

 ニドレフは頬を指で掻きながら作り笑いを浮かべる。と、ちょうどその時に朝食が運ばれてきた。

「いただきまーす」

 ファーラは真っ先に食事へ手をつけた。メニューは大きめのパンに薄い肉と数種類の野菜のスライスを挟んだもの。酸味があるソースが食欲を刺激する。飲み物はミルク。

 カルルは無言でそれを手に取って食べはじめる。しかしザムを睨みつけたままだ。それをまったく気にする素振りも無く、ザムも食事をはじめる。ニドレフは引きつった笑顔。

「で、今日はどうするんだ」

 不意にザムが口を開く。

「それなんですけど、町まで飛んでいこうと思うっす」

「飛ぶって、ファーラに乗ってか」

 ザムが目を見開くと、ニドレフは首を縦に振る。

「そうっす。これならすぐに街まで行けるっすからね」

「俺はそれでかまわないが……」

「えー? もっとゆっくり行こうよー」

 ファーラが口にものを入れたまま抗議する。

「ファーラさん、どうせ怒られるなら早く行ったほうがいいっす。もしかしたら秘書さんもそれで許してくれる……かも?」

 自分でも信じていない口調でニドレフは言う。

「秘書に怒られるのはもうやだよー」

「その秘書ってのは、どういう人間なんだ。ファーラが恐れるって、そこまで強いのか?」

 ザムはそう言いながら、ドラゴンより強い人間がいるなど信じられなかった。

「ある意味強いっすねー。普通の人間なんですけど、頭の良さと口の悪さなら誰にも負けないっす」

「そいつは何者なんだよ……」

「ファーラさんに次ぐナンバーツーなんすけど、秘書さんが全部仕事してるんで実質的なナンバーワン、って感じっす」

「ドラゴンより上ってどういうことだ……」

 ザムは頭を押さえる。普通の人間がドラゴンの上に立つなど、空と地面が入れ替わるほどありえないことなのではないか。しかし目の前のニドレフは、平然とした顔で話している。彼が真実を言っているのだろうと、ザムは理解した。

「ボクは仕事なんかしたくないのにさー。あれやれー、これやれーってうるさいんだよ秘書のヤツー」

「本当はファーラさんがやらなきゃいけない仕事なんすよ。それにほとんど秘書さんがやってるじゃないっすか」

「もう全部秘書がやればいいじゃんかー」

 情けない顔で訴えるニドレフと、うんざりした表情のファーラ。

「そのファーラがやっている仕事って何だ? ドラゴンがやる仕事なんか想像できないんだが……」

「それはっすね、ファーラさんはこの地域の責任者なんすよ」

「……つまり、ファーラが支配してるってことか」

 真剣な顔で問うザムに、きょとんとした表情になるニドレフ。

「支配っすか……そういうのじゃなくって、守ってるというか……」

 腕組みをして唸るニドレフ。

「俺もうまく説明できないんで、秘書さんに直接聞いたほうがいいっすよ」

「そうか……」

 誤魔化しているわけではない事が見て取れたので、ザムはそれ以上の追及をしない。しかしその胸中は疑問で一杯だった。

 ザムはちらりとカルルを見る。カルルはザムに顔を向けないようにして食事をしているため、その視線に気付いていない。

(生贄について聞きたいが……ファーラもニドレフも何か隠しているようだが、秘書が全部知っているだろう。その時にまとめて聞けばいい……)

 ザムは胸中で独りごちると、大きく口を開けてパンを乱暴に噛み千切った。

 食事を終えると最低限の荷物を持って村の外に出る。馬も馬車も無い。ドラゴンの姿になったファーラなら持っていけるが、もしも落とした場合の被害を考え、また馬が暴れるので村に置いてきたのだ。

 村の近くの森へ向かう。ザムとカルルはその木の多さにまたも絶句した。ベレロ国の森と比べるのも馬鹿らしい。木々の太さも全く違っている。

 その森の中を二時間ほど歩くと、そこそこ広い場所へでた。そこだけ木の姿が無く、まるで広場のようだった。

 三人は平気な顔をしているが、カルルは膝に手をやって苦しそうに息をしていた。カルルはろくに運動もしたことが無いため、二時間歩き通すのは非常に厳しいのだ。顔中に汗を浮かべて、今にも倒れそうなほど顔色が悪い。

「だから背負ってやろうって言っただろうが」

「……ぜったい……嫌だ……」

 息も絶え絶えに声を出すカルル。その様子にザムは肩をすくめる。

「子供じゃないんだから、素直に人の好意を受け取ってくれ」

「……子供じゃないから、嫌なんだ……」

 微妙な雰囲気を気にした様子も無いニドレフの陽気な声が聞こえた。

「ちょっと早いっすけど、ここで休憩っす。その後ファーラさんに乗って街まで行くっすよ」

 ザムたち三人は、ドラゴンの姿に変化したファーラの背中に乗った。その際カルルはその高さとドラゴンの体に触れる恐怖で、石像のように固まってしまった。

 三人は縦に並んで乗っている。前から順番にカルル、ザム、ニドレフという順番だ。

「大丈夫か」

「……無理」

「がまんしろ」

 泣きたいのだが恐怖のあまり逆に泣けないカルルを、ザムは無情にロープでドラゴンの背中へくくりつける。

「そんなに怖がらなくても平気っすよー」

 ニドレフが笑いかけるが、カルルの表情は固まったまま動かない。その目には涙が浮かんでいる。

「よし。俺もロープを結んだぞ」

『じゃ、いくよー』

 ファーラは巨大な翼を広げ、上空へ一気に上昇した。どんどん地面が遠くなる。

「ひいいいいいいい!」

 急発進で体にかかる圧力と、羽ばたくことで揺れるドラゴンの背中にカルルは悲鳴を上げる。

 ファーラの上昇は地上数百メートルまで続いた。停止したことにカルルが胸を撫で下ろす間もなく、ファーラは水平飛行を始める。羽ばたくたびに加速して、あっという間に目の開けられない速度となる。

「うぶぶぶぶ!」

 顔に叩きつけられる風のせいで、カルルは満足に息もできない。吹き飛ばされないようにファーラの硬い鱗の背中へしがみつく。恐怖で頭が一杯で、背中からザムが覆いかぶさるようにして守っていてくれていることに気付かない。

「もう少しスピード上げてもいいっすよ」

『わかったー』

「うわああああ!」

 そこでカルルは意識を失った。

「ううん……」

 誰かがカルルの頬を叩いていた。それを鬱陶しそうに手で払う。

「おい、起きろカルル」

 頬を叩いていたのはザムだ。その顔は緊張なのか恐怖なのか、とてつもなく強張っていた。

「んー、何だよ寝てるのに……」

「寝てないだろ。気絶してただけじゃねえか。それより、見ろ」

 ぼんやりした頭でザムが指さす方向へ目をやり、その全身が固まる。

「あれは一体何だ……」

 地平線の向こうまで広がるのは、一面の青。太陽の光を浴びてきらめく海だ。それは美しい光景のはずだが、ザムにとっては得体の知れないものでしかなかった。

 絶句する二人にニドレフは気付く。

「海を見るのははじめてっすか?」

「海……」

 ザムたちはそれ以上の言葉が出ない。ドラゴンと出会ったときも信じられないと思ったが、それ以上の衝撃だった。目の前の光景全てが青色に染められている。波が銀色に光り、複雑な模様を織り上げていた。

 陸地は青色の手前で途切れている。地面がどこまでも続いているものだと思っていたザムにとって、その境界線を見ることは恐怖に近い感情を呼び起こした。

「海は何なんだ……地面は、どうしてあそこで途切れているんだ」

「海はそうっすねえ、とにかく大きい池みたいなもんすよ」

「池だと! だったらあれは全部水だっていうのか!」

「そうっすよ」

 あっさりと言うニドレフに何も言葉が出ないザム。カルルも「信じられない」とつぶやき、魅入られたように海を見つめていた。

 ザムたちの国は水資源が少ない。池は王都にしかなく、川も数本しか流れていなかった。井戸も水量が少なく、雨が少ない時期があれば枯れたも同然になる場所もある。辺境の村ではそのせいで死人も出るほどだ。

 水が少ないということは、耕作地を増やせないということだ。ただでさえ荒れた土地しか無いというのに、用水路もまともに作れない。そのため雨頼りになり、日照りが続けば簡単に不作となる。常になんとか生きれる量しか取れない作物が減れば、それが死者の数へと変換された。ベレロ国はそれほどまでに限界状態なのが常なのだ。

 しかしあの海のように豊富な水があれば、いくらでも耕作地を増やすことができるうえに、人が渇きに苦しむことも無くなる。ザムたちにとってまさにここは楽園だった。

「でも、普通の水じゃないっすよ。全部塩水っす」

「塩水だと?」

 ザムは馬鹿のように口を開けて目を丸くした。

「何を言ってるんだ? 誰があんな量の塩水を作ったっていうんだよ」

「最初から海は塩水なんすよ」

「嘘をつくな。塩は山から取れるものだ」

「それは岩塩っすね。普通は海から塩を作るっす。海なら取り放題っすから」

 ザムは俯くと肩を震わせ始めた。ニドレフが驚いた顔になる。するとザムの口から微かな笑い声が漏れ聞こえた。

「クックックッ……塩が作れるだと……」

 ベレロ国で塩と言えば、山から掘り出される岩塩だ。濁った白色の石にしか見えない塊。料理などにはこれを削って使う。取れる量は少なく、また険しい岩山に登らなくてはならないため危険だった。そのせいで塩は高価な食品だ。しかし、それが作れるとしたら。しかも無限に。

 塩の独占権を持つ貴族の顔をザムは思い浮かべる。必需品である塩を高額で売りつけて私腹を肥やす人間たちが、このことを知ったらどう思うのか。それを想像するとザムは自然に笑いがこぼれた。

「ど、どうしたんすか? 急に笑いはじめて?」

 たった数日でザムの常識は崩壊した。ドラゴンと出会い、自分たちとは顔形どころか体格まで丸っきり違っている人間とも出会う。使っている道具も違えば、豊かさにも圧倒的な格差があった。

 ザムが生贄であるカルルを護衛していたのは、自分の国をドラゴンに滅ぼされないためだ。荒れた土地ばかりでろくに食べ物も水も無い、そんな自滅する一歩手前で何とか踏みとどまっている国を。だというのに、その国の外にはこんなにも豊かな世界が広がっていた。

「……ククッ。国を守る必要なんて本当にあるのか……?」

「あの、ザムさん……?」

 不穏な雰囲気を感じてか、ニドレフが恐る恐るザムへ声をかける。

「ああ、何でもない。街まではまだ時間がかかるのか」

「い、いえ、もう着くっすよ」

 ニドレフが前方へ顔を向けたので、ザムもそちらへ顔を向ける。

 海と陸地の境界線に隣接するように、いくつもの建物が密集しながら広がっていた。上空から見下ろしているせいで規模は曖昧だが、それがかなりの大きさの街だとわかる。

「あの手前に降りるのか?」

「いえ、そのまま本部へ行くっす」

 ザムは疑問の視線を向け、それにニドレフは答える。

「第九地方管理本部。そこが俺とファーラさんが働いている場所っす。そこに秘書さんもいるっすよ」

 ファーラは街の真上を飛ぶ。ザムとカルルは高さも忘れて覗き込み、眼下に広がる街並みを凝視する。

「ファーラさん、スピードは落としてくださいっす。風で人や商品が飛んで怒られるのはもう嫌っすよ」

『わかってるよー』

 頭上を飛ぶドラゴンを見上げるものは多かったが、誰も驚いた顔をしていない。彼らにとって見慣れた光景だったからだ。何人かの子供が追いかけているが、さすがに追いつけるはずもなかった。

 その建物は街の中心から外れた高台の上にあった。街はその場所から海に向かって広がっているように見える。建物がある位置から海へ向かって緩やかに傾斜していて、その斜面に多くの家々が並んでいた。

 ファーラは建物に隣接する広場へ着地する。これが街から外れた場所に第九地方管理本部がある理由だった。巨体のドラゴンが邪魔にならないスペースが必要だったのだ。

 飛んでいたファーラをすでに見ていたのだろう。何人かの人間が広場に立っていた。

 高さも気にせずファーラの体を滑るように降りたニドレフは、待ち構えていた人たちに軽く手を上げる。

「よ。ファーラさん見つけてきたっす」

 ニドレフへ一人の男が近寄ってきた。

「時間かかりすぎですよニドレフさん。おかげでオルラドさんの八つ当たりが私たちにまできましたよ……」

「ははっ。いつもは俺なんすからいいじゃないっすか」

「あなたのは自業自得ですよ……」

 男はため息をつく。

「では、さっそくお二人ともオルラドさんのところへ……」

「それなんすけど……ちょっとお客さんがいるんすよね」

 ニドレフが振り返ると、カルルの悲鳴が聞こえた。

「キャアアアアアア!」

「よっと」

 ザムはカルルを抱きかかえて、ファーラの背中から垂らしたロープを滑り降りた。かなりのスピードだったが、何事も無かったかのように地面へ降り立つ。

「耳元で叫ぶなよ。耳が痛い」

「うるさいバカ! おろせ!」

 顔をしかめながらザムが抱きかかえたカルルをおろす。すると恐怖で腰が抜けてしまい、カルルは地面へ座り込んでしまった。

「何してる?」

「お前のせいだろ! 肩を貸せ!」

 ザムはカルルを立ち上がらせると、体を支えながらニドレフの方へ歩いていく。ファーラも人の姿になるとその後を追う。

「彼らですか?」

「そうっす。ちょっと、いや、かなり面倒なことなんすよねえ……」

 これからの事を考えると、自然にニドレフの肩が下がった。

 ザムとカルルを案内するニドレフは、建物の正面で立ち止まり彼らへ振り向いた。

「ここが第九地方管理本部っす!」

 建物を見るザムとカルルの表情は、貼り付けたような無表情だ。もう驚くことに疲れたしまっていた。

 まず建物がとてつもなく大きい。全体は巨大な正方形に近い形で、壁はすべてレンガで作られていた。赤色のレンガと白い大理石の屋根飾りや玄関のコントラストが美しい。そこに刻まれた装飾は、腕のある職人が施したとわかる出来栄えだ。

 建物だけでなく、敷地全てがかなりのものだった。

 周囲を囲う塀も赤レンガで造られ、高さも三メートルはある。門構えも立派で、大きな切り出された石でできた門柱と金属製の扉はそれだけでザムたちを萎縮させた。

 門から伸びる石畳はひび割れも無く、脇には花や木が植えられていて、広い庭もきれいに整備されている。広さも美しさも、ベレロ国の王族の屋敷など足元に及ばなかった。

 第九地方管理本部と看板がかけられた玄関をくぐると、二階まで吹き抜けのホールになっていて、そこにいた数人のメイドが一斉に頭を下げた。メイドという存在を知らないザムとカルルは目を丸くしたあと、その見たことが無い服装を観察する。

 黒い服と同色の長いスカート。フリルのついた白いエプロンに頭にはカチューシャ。全てが珍しい。

 ベレロ国には黒色の染料が無い。あるのかもしれないが、使われるのは緑や赤色の染料だけで、黒色の服は存在しなかった。フリルも同様で、このようにヒラヒラとした装飾は無い。服の装飾といえば色違いの糸の刺繍や飾り紐だけだった。

「メイドさんを見るのは初めてっすか?」

「メイドって何だ」

「主人の身の回りの世話や、屋敷の掃除や洗濯をする人っすかね」

「なるほど。使用人みたいなものか」

「男性は使用人、女性はメイドって言ってるっす」

「わざわざ分けなくてもいいだろ。面倒だな」

 階段を上って三階へ。奥まった場所にあるひときわ大きなドアの前にたどり着く。

 そのドアの前でニドレフは緊張した顔となる。ファーラも少し硬い表情だ。意を決してニドレフはドアをノックした。

「開いています。入ってきなさい」

 低く落ち着いた、どこか硬く冷たい印象を受ける声が聞こえた。

「失礼しまーす……」

 恐る恐るドアを開けて中へ入る。

 室内は広く、床には絨毯が敷かれていた。左右にはいくつもの書棚が壁際に並び、多数の本や紙束が入っていた。正面には大きな木製の机が一つ。そこに一人の男性が座り、積み上げられた書類に目を通し、ペンを走らせていた。

 しばらくその前に立っていたが、彼が顔を上げることはなかった。ニドレフは冷や汗をかきながら、おずおずと口を開く。

「えーっと、オルラドさん……ファーラさんを連れてきました」

「……何日かかってるんですか?」

 書類へ落としていた顔を上げ、ニドレフへ向ける。眼鏡のレンズ越しに、男の冷たい視線が突き刺さる。ニドレフの口から小さい悲鳴が漏れた。

「……ファーラ様。あなたが逃げてから何日経過したと思ってますか」

「うーんと……」

「一週間以上、あなたはどこで何をしていたのですか」

 決して大きくはない声。しかしそれを向けられたファーラだけでなく、横にいたニドレフたちも思わず体を固くした。その落ち着いた声音に隠された怒りの大きさに反応したのだ。ファーラは気まずげに顔を横に向けた。

「一日、二日程度なら大目に見ていましたが、さすがにこれほどの長期間となると問題です。見てください、この最終確認待ちの書類の山を。そもそもですね……」

「あのね、ザムとカルルを見つけたからなのっ!」

 止まりそうにない男の説教をぶった切り、ファーラが大声を出す。

「……それは誰ですか」

「これだよ!」

 そこで初めてザムたちに気付いた様子で、男は小さく眉毛を動かした。細められた目はザムとカルルを値踏みするかのようだ。その不躾な視線にカルルは居心地悪そうに肩を動かし、ザムは同じように目を細めて男を見る。

「……見たところ子供のようですが。どこで見つけたのですか」

「それなんすけど、西にあるあの岩山でファーラさんが見つけたらしいっす」

 ニドレフの言葉で男の眉間に皺ができる。

「西の岩山というと、キリス山のことですか? あの周辺には人がいた形跡は無かったはずですが」

「あのね、岩山の中にいたの」

「ファーラ様、それは本当なのですか?」

 男はザムとカルルへ顔を向ける。まるで人を射殺すような視線だ。それに気圧されながらもカルルは口を開こうとしたが、先にザムが答えた。

「あんたが言っているキリス山かどうか知らないが、俺たちは確かに岩山を越えてきた。そこは俺たちの国では、死すら通れない場所と呼んでいる」

「国ですか……それはどのあたりにあるのです」

「岩山の中だ」

 ザムはずた袋の中から丸められた羊皮紙を取り出すと、机の上に置いた。男は無表情に目を向け、それを広げる。ニドレフやカルルたちも近寄り、それを見る。

 羊皮紙は地図だった。しかしそれは地図と呼ぶにはお粗末過ぎる代物である。書かれているのはいくつかの絵記号。道や川といった場所は描かれておらず、曖昧に街と村と山があるだけだ。しかも地図はかなり古く、端やところどころが崩れて穴が開いてしまっている。さらに風化と汚れで非常に見にくい。

 描かれているものが少ないのはしょうがない部分もあった。まずベレロ国はほとんどが荒れた土地で目印となる村が少ない。どこも荒野や岩山ばかりでわかりやすい目印となる地形も無い。また村々を移動する人間がほとんど皆無だったため、地図の必要性が高くなかったことも原因だった。

「国の地図だ。見ろ、周りを岩山に囲まれているだろ」

「たしかにそう見えますが……」

 男は椅子から立ち上がると背後の棚から何かを手に取る。地図だ。ただし羊皮紙ではなく折りたたまれた薄い紙製。机の上に男はそれを広げる。紙を見たことも無いザムは目を見開くが、無言で目を向ける。しかし見えない。

「何か台はないのか」

 ザムとカルルの身長は、その机と目線の高さが同じ程度しかなかった。ニドレフは椅子を二つ持ってくる。その上にザムとカルルは立つ。

 地図は色鮮やかに主要な村や道と川、山と森の位置も詳しく描かれていた。男は右端にある街を指で示す。

「ここが今私たちがいるトライグルの街です。そして、この西側にあるのがキリス山」

 キリス山を表す灰色は、広範囲の場所を占めていた。トライグルの十倍以上あるかもしれない。

「ファーラ様。二人と出会った場所を……まあわかりませんか。ニドレフさん。あなたが見つけた場所は」

「ここっす」

「ふむ。ですが、だからといって彼らがキリス山から来たとは言えませんね」

「それなんすけど、ここの村でキリス山から夜に光の柱が見えたっていう情報を聞いたんす。で、実際そっちへ行ってみたらファーラさんを見つけたっすから、少なくともファーラさんはそこにいたってことになるっす」

「ふむ……とりあえず、なぜファーラさんと一緒にお二人がここに来たのでしょうか」

 男は眼鏡の位置を直すと、ザムの目を見る。

「俺も質問するけど、あんたは一体誰なんだ?」

「ああ、申し送れました。私はオルラドといいます。ここ第九地方管理本部でファーラ様の秘書をやらさせてもらってます」

「ああ、あんたが秘書か。ん? 秘書は名前じゃないのか」

「秘書は職業になりますね」

「そうなのか。それで俺たちがファーラと一緒に来たかっていうとだな、あんたを紹介してもらうためだ」

 意外な言葉に、オルラドの目がかすかに大きくなる。

「ファーラに聞いたんだが、なんでも他のドラゴンと連絡を取れるらしいな。ちょっと紹介してほしいドラゴンがいるんだ」

「……どういったご用件でしょうか?」

 ザムは振り返り、カルルを見る。カルルが緊張した顔で唇を引き結ぶと、ザムは後ろへ下がる。かわりにカルルがオルラドの正面へ立ち、悲壮感すら漂う瞳で見つめる。

「私の名前はカルル・ウズ。ベレロ国の王族の一人です。三百年前の約定に従い、この身をドラゴン様の生贄に捧げるべくやって来ました」

 静寂が室内を支配する。カルルとオルラドは真剣な顔で睨み合っていたが、片方の顔が突然崩れた。

「はあっ?」

 常に感情を表さず、鉄面皮と呼ばれたオルラドからは誰も想像できない声と顔だった。彼は中途半端に口を開けた間抜けな表情で固まっていたが、カルルの困惑した表情に気付いて我に返った。一つ咳払いをしてずれた眼鏡の位置を直す。

「いやいやすみません。あまりに馬鹿げた……信じられないことだったので取り乱しまして。それで……本気であなたが生贄だと……?」

 その言葉にカルルは真剣な顔で頷く。オルラドがザムへ視線を向けると、彼も真面目な顔で頷く。オルラドは頭痛を堪える様に机に肘をたて、頭を指で押さえた。そして目だけをニドレフとファーラに向けて、本当なのかと質問すると、二人ともしっかりと頷いた。さらに頭痛がひどくなったかの様に、オルラドは目を強く閉じる。

「……場所を変えましょう」

 そう言うとオルラドは立ち上がり、背後にあるドアへ向かう。顔だけをザムたちへ向けた。

「こちらへどうぞ」

 部屋の大きさはそれなりだった。中央に横へ長い机が置いてあり、周囲に椅子が置いてある。オルラドは机の中央にある椅子へ腰掛けると、対岸側の椅子へ座るように手で示した。

 ザムは一番にオルラドの真正面へ座った。その横へカルル。一つ席を空けてニドレフとファーラが並んで座る。

 全員が着席すると、重い声でオルラドは口を開いた。

「それで、カルル様でしたか。貴方様はベレロ国の王族と言っていましたが、そのような方がどうして生贄に?」

 カルルの顔が微かに強張る。相手はまだ幼く、あまりにも小さい子供のような外見だ。しかしオルラドの瞳は暖かさなど無く無機質めいて輝き、カルルのことなど気にもかけず、心の奥底まで見通すかのようだった。

 ザムのまぶたが微かに動いたが無言。カルルは唾を飲み込む。

「……それでは、私たちの国で言い伝えられてきた事をお話します」

 ベレロ国はその名の通り、千年前にベレロという男が王となり作り上げた国だと伝えられている。

 王を絶対的な頂点とする国。王が全てを決め、その下に全ての人間が存在する。それは月日と共に貴族の出現と、彼らの領地が存在することになったが、王とその血族である王族が頂点であることに変わりは無かった。

 強者が弱者を搾取することで貧富の差が非常に大きいが、特に大きな混乱も無く国は続いていた。

「三百年前、我がベレロ国の当時の王ガリルはドラゴン様に戦いを挑んだそうです。その結果、ドラゴン様の怒りに触れ、生贄に王の息子を、しかも若い者を生贄に捧げるようにと告げられました。その時から三百年後が今なのです。そして私が生贄として選ばれました」

 カルルは言い終わると俯く。オルラドは無言で視線を向けている。沈黙は続く。

「……嘘は、ついていないのですよね……?」

 オルラドの言葉に、カルルとザムは頷く。それを見てオルラドは手を組み合わせて肘を机に置いた。強く目を閉じる。

(彼らが嘘をついていないことはわかっていました。それが間違った言い伝えで何であれ……しかし、あまりにも、そう、あまりにもありえない話ですからつい言ってしまいましたね。反省です)

「そうですか。ですが三百年前の言い伝えですよね? それならば嘘や創作が混じっていたりするのではないですか? そんなものをなぜ誰もが信じているのでしょう」

「証拠がありますから」

 カルルは幾分か血の気の引いた顔で喋る。

「王都のすぐ横にドラゴン様が爪で大地に刻んだ裂け目があります。王都を両断できるほどの大きなものが……もう一つ言い伝えには山を息で消し去ったとあります。この痕跡は無いのですが、先日ファーラ様が見せてくれたあの炎の息は、それを裏付けるものでした」

 それを聞いたオルラドはファーラを睨む。刃物よりも鋭い視線から逃げるように、ファーラは顔を背けた。

「俺も半分は嘘だろうと思っていた。けど、ドラゴンが目の前に現れたら信じるしかなかったさ……しかしせっかく向こうから来てくれたドラゴンが、全くの別人だとは思わなかった」

「そういえば、ドラゴンを紹介してほしいと……」

「ああ。生贄を届ける相手と連絡が取りたい。場所だけでも教えてくれ」

 オルラドの顔が引きつる。

(ドラゴンへ生贄を捧げるなんて、一体何百年前の話ですか)

「……すいません、あまりにも突然のことなので。少し時間をもらえませんか」

 オルラドは懐から透明な石を取り出すと口元へ近づけた。すると石は淡く輝き、オルラドはそれに向けて何やら話しかける。輝きはすぐに消え、懐へ石を戻す。その様子を口を開けて見ていたザムとカルルに彼は気付いた。

「どうしましたか?」

「それは……何だ」

「これは遠話石ですよ。魔力で離れた場所と会話をするための魔石なのですが、それほど珍しい物では……」

 その説明を聞いてさらに唖然とした顔になる二人に、オルラドは目を細める。そして二人の服装と持ち物へ目をやり、ザムの腰にある石製の剣を見て眉間にしわができた。目だけをニドレフへ向けると、コクリと小さく頷く。知らずに息が漏れた。

「お呼びでしょうか」

 ドアをノックする音に続いて、一人の若いメイドが部屋へ入ってきて一礼する。オルラドが遠話石を使って呼んだ者だった。

「長旅でお疲れのことでしょう。まずは浴場で汚れを落としてゆっくりお休みください。詳しいお話はその後、夕食の後にでも」

「ドラゴンと連絡はできるんだな」

 ザムは探るようにオルラドの瞳を覗き込む。言葉は落ち着いているが視線からは脅迫に近い意味が読み取れた。しかしオルラドは無表情を崩さない。火花散る斬り合いではなく、お互いに切っ先を突きつけた様な数秒間の対峙。

「確約はできませんが、できるかぎりの事はいたします」

「わかった」

 ザムは立ち上がると、背後のメイドが佇む開かれたドアへ向かう。カルルも慌てて立ち上がり、何度か振り返りながらザムを追った。二人の姿が閉じられたドアで遮られるまで、オルラドはその背中をじっと見ていた。

「……さて」

 オルラドの目が向けれれたファーラとニドレフは、その肩を震わせた。

「いろいろ聞きたいことが多いんですが……とりあえず一通り話してもらえますか?」

 一番最初に会ったファーラから話し始める。しかしその内容は支離滅裂で、特に有益な情報など何も無かった。

「急に生贄だからあげます、なーんて言われてもわけわかんないじゃん。だからさ、秘書のところに連れていけばいいかなーって思ったの」

「その判断は正しいですが、いや本当は私ではなく自分で判断するのが正しいのですけど。それと、いいかげん私の名前を覚えてください」

「えー? 秘書でいいじゃん。言いやすいし」

 では私以外の名前はなぜ普通に言えるのですか? そうのどまで出かかったが、オルラドは口にしなかった。無駄であるとわかっていても言わなければならないのは彼女の教育係だったからだが、今はそれどころでは無いので注意はしなかった。

「……ニドレフ、あの剣を見ましたか」

「はい。石の剣だけじゃないっす。料理に使う鍋や食器も土器だったっす。それと魔獣からカルルさんを助けるために弓を使ったんすけど、それを見て驚いてるようだったっす。あと途中の村で一泊したときが一番驚いてたっすね。小さい宿屋をまるでお城みたいに見上げてたっす」

 オルラドは遠話石を使ったときの彼らの反応を思い出す。それと合わせて考えるならば、彼らの国は今の世界の文明とは大きな差がある。隔絶と言ってもいい。

「そういえば、ボクが魔法あるよーって言ったときも驚いてたなー」

「そうなんすか。魔獣倒したのは魔法使ったからかと思ったんすけど、そうじゃなかったんすねー」

「魔獣を倒した……?」

 オルラドが小さく言うと、ニドレフは大きく頷く。

「ザムさん、あの剣で魔獣を一刀両断してたんすよ。それと最初は遠くにいたからわからなかったんすけど、近くで見たらあんなに小さいじゃないすか。信じられなかったっすよ」

 オルラドは言葉を無くす。聞くとその魔獣は小さな魚型だったらしいが、それでも魔獣の頑丈さは普通の生き物とは桁違いだ。ニドレフも魔獣を倒していたが、こう見えて彼はけっこうな腕を持つ剣士だった。普通の人間ならこうはいかない。

「普通の人間ではありえない力とその体格……文明の違い……ドラゴンの生贄……」

 思わず片肘をついてオルラドは頭を押さえる。彼が考えついたことが本当ならば、これは歴史的な発見と邂逅だった。しかし、それに付随する出来事がかなり繊細な問題を孕んでいる。一歩間違えば大惨事だ。

 オルラドは目を閉じ、眉間に深い溝をいくつも刻みながらどうやってこの問題に対処し、どうすれば最高の結果を得られるのか、その思考に没入するのだった。

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