5
まぶたが震え、カルルは目覚める。聞こえるのは前と同じ、馬と車輪の音。太陽はすでに昇っていた。
体を起こそうとして、痛みに呻く。それは硬い床に寝ていたせいだ。
カルルが寝る際に床に敷いていたのは薄い毛皮一枚だけだ。そもそも馬車にはベッドが備え付けてあり、床で寝ることなど考えられていなかったため、それ用の寝具が無かった。なのでザムが持っていた毛皮を使ったのだ。
「そうだ……床で寝たんだった。イタタ……枕がなくても寝られるものだね」
昨夜の出来事を思い出す。
残念なことに枕の予備は存在しなかった。そのことに気付きカルルが寝られるだろうかとつぶやくと、ザムはそれが聞こえたのでこう言った。
「自分の腕を枕にすればいいだろ」
カルルは不満げに答える。
「そんなの腕が痛くなるじゃないか」
それを聞いてザムは笑う。
「なるほど。誰かの腕枕がいいんだな。俺がしてやろうか」
そんな昨夜のやり取りを思い出し、カルルは顔を羞恥に染める。
「腕枕とか……そんな……まだ早いって、違う!」
勝手に浮かぶ妄想を振り払うために、カルルは激しく頭を振る。
「そんな事するはずないじゃないか。この毛皮を渡されたし」
昨夜、カルルが布団を被り寝ようとすると、ザムから毛皮を投げ渡された。
「これを下に敷け。直接床に寝るのはキツイからな」
その言葉を思い出し、口を不満そうに尖らせた。
「敷いても辛いじゃないか」
そう口にしたところで何かに気付いたようで、カルルは寝ぼけていた目を大きく開く。
(ザムは毛皮に包まって、扉に寄りかかるようにして眠っていた。それは、床に敷く毛皮が無かったからじゃないか?)
二日前のときには床に毛皮を敷いていた。カルルはそれを覚えている。
(そうなった原因は、私が床で寝ることになったから。ザムは私を気遣って……それと扉の前にいたのは、何かあったときすぐに外へ出れるから?)
カルルは呆然とした気持ちで、床に敷かれた毛皮を見る。触ると毛は硬く、品質が良いとは言えない。
床を触ってみる。それは毛皮よりも硬く、冷たかった。
カルルはそのままじっと考え込み、顔を上げるとベッドへ目を向けた。そこにはのんきな寝息をたてるファーラがいた。
「すぴー、すぴー」
布団ははね除けられ、服の裾はまくれ上がってへそが見えてしまっている。ファーラの寝相は良くないのだろう。
明日も野宿するようだったらファーラと一緒にベッドで寝よう。カルルは自然とそう思った。
カルルは布団から抜け出すと、馬車の前方へ向かう。そこには小さな窓があり、馬車を操るザムの背中が見えていた。
窓のすぐそばまで来たとき、大きく馬車が揺れた。
「キャッ」
「ん? 起きたのか、カルル」
「イタタ……おはよう、ザム」
「よく眠れたか?」
「……うん。おかげさまで、ね」
何かを含むような言い方にザムは一瞬眉を上げたが、気のせいかと片付けた。
「ところでさっきの悲鳴、可愛かったな」
「か、可愛いって……それ、馬鹿にしているだろ」
低く湿ったカルルの言葉に、小さな笑いで返答する。まるで女の子のようだなと思ったが、これ以上からかうのもよろしくないと思い、ザムはそれを口にすることは無かった。寸前まで出かかってはいたが。
「ファーラはまだ寝てるのか」
「うん。ぐっすり寝てる」
ファーラはむき出しの腹を手で掻く。うら若き少女とは思えない。それは外見だけで、実際は百四十歳をこえるドラゴンではあるが。
「……こうやって見ると、まるでドラゴンには見えないね」
「昨日はその姿でもかなりびびっていなかったか?」
「今でも怖いものは怖いよ」
初めてドラゴンを目にしたときの恐怖は、いまも焼きついている。これまで生贄になることは自分の運命だと言い聞かせてきたが、そんなカルルの覚悟は一瞬で打ち砕かれてしまっていた。正気を失わなかったのは奇跡に等しい。
しかし今のカルルの精神状態は、意外なほど落ち着いていた。それはこのドラゴンがあまりにもドラゴンらしくなかったことと、たった一人残った護衛の人間もその原因の一つなのだろう。
沈黙してしまったカルルへとザムは目を向ける。しかし窓は小さく、その表情は伺えない。
不意にカルルは顔を上げた。小さな窓から向けられた瞳は、不明瞭な色で輝いていた。それは恐怖だったり不安だったり、しかし負のものだけではなく希望やその他の何かが複雑に混じった色だ。そんな目をザムは見たことが無かった。
思わず言葉を無くすザム。手綱さばきが乱れ、馬車が大きく揺れた。
「うおっ!」
「わっ!」
ザムは慌てて手綱を引く。カルルは再び転倒した。
「ふわっ? なにー?」
この衝撃でファーラはベッドから落ちて目覚めた。寝ぼけた顔であたりを見回す。床に打ち付けた尻を押さえるカルルが目に入り、不思議そうに首を傾げた。
「何でもない。よく寝れたか?」
「うーん……まだ眠いー。おやすみー」
ベッドへのそのそと這い上がると、そのままファーラは二度寝を始める。すぐに寝息が聞こえてきた。
「くーかー」
「カルル、大丈夫か」
痛みにうっすらと涙を浮かべながらも、カルルは立ち上がる。
「道が悪い。また揺れると危険だ。床か椅子に座ってろ。メシは適当に食え」
「……わかった」
カルルは椅子に座り、硬いパンと水だけの粗末な朝食を食べた。
それからは特に会話は無く、健やかなファーラの寝息だけが聞こえ続けた。
「ん?」
ファーラは目を開ける。
「ふぁー、あ?」
大きなあくびと伸びをする。そして周囲の暗さに気付いた。
夜に寝て起きたのに暗いのはどういうことだろう、とファーラが首を傾げると馬車の扉が開いた。
「起きたのですねファーラ様。夕食の準備はできています」
扉を開けたカルルは笑顔で言った。
ファーラは不思議に思ったことを一瞬で忘れ、ベッドからおりると馬車の外へ出る。そこではすでにたき火が準備され、串刺しの肉が焼かれていた。
「起きたか。生肉はそこにあるぞ」
岩に腰掛けたザムが傍らの袋を目で示す。ファーラは幾分考え、首を振った。
「ううん。これからしばらくは生肉食べないようにする。昨日食べたし」
「そうか。だったらこれを食べろ。もう焼けてる」
「わーい」
ファーラは焼けた肉を手に取ると、大口でかぶりついた。ブチブチと音を立てて噛み千切る。
「固いけど噛み応えがあっていいねー」
ザムはその言葉に小さく笑い、同じく肉を噛み千切る。カルルはというと、その肉の固さに四苦八苦していた。なかなか噛み切れなく、口の中で何度も肉を転がす。
「一旦口からだせばいいだろうに」
ザムが呆れた口調で言うと、カルルは眉を上げて反論する。
「ふひからだすなんてふぇきるか!」
「口に物を入れたまま喋るな」
カルルは無理矢理飲み込もうとして、のどに詰まらせた。表情を歪ませて胸を叩く。ザムは水の入った皮袋を手渡し、カルルはそれで肉を流し込んだ。
「ふぅ」
「あははー」
カルルの苦しむ姿が面白かったらしく、ファーラは大口を開けて笑う。口の中に残っていた肉が飛ぶ。
「お前も口に物を入れたまま笑うな」
顔に飛んできた肉片を忌々しそうにザムは拭う。それを見てさらに笑うファーラ。と、そこで何かに気付く。
「あれ? なんで夜なの? ごはん食べて寝たんじゃなかったっけ?」
その疑問にカルルが答える。
「ファーラ様は一日眠っていらしたのです」
二度寝したあと、ファーラが目を覚ますことは無かった。昼食休憩のときに声はかけたのだが、全く起きる素振りも見せなかった。それほどまでに熟睡していた。
「そうなんだー」
ファーラは特に驚いた様子も無くただ頷く。それを見たザムの顔に疑問が浮かぶ。
「ドラゴンはそんなに寝るものなのか」
「うーん。前は二日や三日はよく寝てたよ。他のドラゴンはバラバラ? 何年も寝たり、全然寝なかったりするのもいるよー」
この世界には、ごく少数だがドラゴンを倒した者が存在する。そのほとんどがドラゴンの寝込みを襲ったものだ。しかしドラゴンの眠りが深いか浅いか、それはその瞬間にならなければわからない。眠り深ければ名声を手に入れ、浅ければ命を失う。その事から、ドラゴンの寝姿という故事が生まれた。意味は、結果が出るまでわからない。
「そうなのですか」
カルルは驚きに目を丸くする。ザムも驚いてはいたが態度に出さず、黙々と肉を口に運ぶ。
「カルル、水」
自分がザムの水袋を持ったままだったことに気付き、カルルはそれを返す。ザムが水袋に口を付けようとした瞬間、思わず声が出た。
「あっ」
「どうした」
「な、なんでもない……」
ザムは不可解そうに片目を細めたが、追求することはなく水を飲んだ。その様子を横目で見るカルル。少し頬が赤い。
「こ、これって間接……っ」
小さく体をくねらせるカルルをファーラは不思議そうに見ていた。
肉が全て無くなり、ファーラは満腹そうにお腹を手で摩り、カルルは上品に口元を布で拭く。すでに食事を終えていたザムは、不意に口を開いた。
「さて、これから寝て、明日も朝から出発するわけだが……」
ザムは言葉を切ると、ファーラの顔を見つめる。
「なあファーラ、向かっている街っていうのはあとどれぐらいかかるんだ?」
この三人旅は、ファーラが強制したものだ。例え本人がそう思っていないとしても、ザムたちにとってはそうだった。ドラゴンの言葉なのだから、それに反対できるわけが無い。
なのでファーラから、自分を馬車に乗せて街に向かえと言われるがままここまで来た。つまり街の詳しい位置やそこまでの距離など全く知らないのだ。
「えーと、わかんなーい。たぶん一日ぐらいだと思うー」
「……どうしてわからないんだ。ここまで自分で来たんだろ」
「だって飛んできたんだよ? 馬車でどれぐらいかかるかなんてわからないよ」
ザムは眉間に手をやって考えると、再び質問する。
「街の位置はわかるんだな」
「うん。それは大丈夫。ちゃんと感じるから」
「感じる? 何をだ」
「石だよー。えっと、名前は思い出せないけど、ボクはそれがある方向を感じることができるんだー」
説明が下手なファーラからザムが聞き出した言葉によると、石は街に置かれた道標のような役割を持っているようだ。その石と反応する石があり、それがあればどんなに遠い場所でも街に置かれた石のある方向がわかるらしい。
「まるで魔法だ」
驚愕しながらザムが言うと、ファーラは「そうだよー」と簡単にさらにとんでもない事を言った。信じられないことに、その石は魔法の道具だというのだ。
「うそ……魔法だなんて……」
カルルも絶句する。魔法というのはザムたちにとって架空のおとぎ話の産物だった。
魔法使いは杖から炎を放ち、姿を霧に変え、人を呪い殺す。そんなことが出来るのかと聞けば、ファーラはまたも「できるよー」と簡単に返す。
ドラゴンもおとぎ話の存在だった。それが実在するのだから魔法ぐらいあっても当たり前。そう考えることも出来るが、やはり長年かけて沁み付いた常識を覆すことは容易なことでは無かった。
しばらく身動きもできない二人。先に我へ返ったのはザムだった。
「と、とりあえず魔法のことは置いておこう……それでだ、ファーラ。明日は空を飛んで行かないか?」
「どういうこと?」
「ドラゴンの姿になれば空を飛べる。あの大きさなら、この馬車ぐらい簡単に運べるだろ。だったらそうすればいい。さっき空を飛べば街まで一日だって言ってたな」
「そ、それは、えーっと」
「街まで行くならそれが一番早いはずだ。どうしてそれをしない」
ザムは真剣な目でファーラを見る。張り詰めた雰囲気にカルルは息をのむ。
(どーしよー)
ファーラは非常に困っていた。何をどこまで話せばいいのか、全く見当もつかない。
(こんなの全部秘書がやってよー)
泣き言を心のうちで言うが、ここに秘書はいない。
無い知恵を振り絞って考える。全ての言うわけにはいかない。最後には全部言わなければならないのかもしれないが、その判断をするのはファーラには無理だった。それらは全て他人に任せていたのだ。
(とりあえず、秘書のことは知ってるから、そのことだけ……)
「えーとね、ボクのこと監視してる秘書がいるって話たでしょ。ソイツがね、ボクをいじめるんだよ。だから逃げてきたんだけど……」
「それが飛ばないことと何か関係あるのか?」
「その秘書はね、街にいるんだよねー。だからあんまり行きたくないなあって……」
生贄を捧げるドラゴンを探すためには、他のドラゴンと連絡が取れる街へ行くしかない。しかしその街には逃げてきた相手がいる。だからすぐには行きたくない。確かに、理屈としては合っているかのように思える。
「ふうん……で、その秘書ってのは何なんだ。どうしてファーラを監視している」
「秘書ははねー、ジジイがボクにつけた家庭教師でもあるんだよ。無理矢理勉強させようとするんだ」
「それは教導士に似ていますね」
カルルがそう言うと、ザムが目で質問する。
教導士とは、主に貴族の子弟に一対一で教育を施す人間のことだ。教導士が教える事柄は多岐にわたり、一人でいくつもの分野を教える者もいれば、一つの分野に秀でた者も存在する。貴族は幼少のころから教導士によって教育されるのが普通だ。カルルもそうだった。
カルルの説明を聞き、ザムは頷く。
「なるほど。そんなものがあるのか」
「ドラゴンにも教導士がいるのですね」
二人は別々の意味で感心する。
「これでわかってくれたー?」
疑問はまだある。ファーラも何か誤魔化している事を雰囲気で感じる。しかしこれ以上突いて逆鱗に触れれば目も当てられない。ザムはここで一旦引くことにした。
「わかった」
大きく安堵した息をはくファーラに、ザムは釘を刺す。
「ただし、十日だ。それ以上は水も食料ももたない。その場合はファーラに飛んでもらう。いいな」
「……うん。わかったー」
「よし。じゃあ寝るぞ。明日も夜明けと同時に出発するからな」
「えーっ」
ファーラが不満の声を出すと、ザムは笑う。
「ファーラは寝てればいい。どうせ俺が御者をやるんだしな。それに寝ているほうが静かでいい」
ファーラは暗い馬車のベッドに寝ていた。
「すー、ぴー」
横から寝息が聞こえる。カルルはファーラと二人でベッドに寝ていた。
見た目がいくら年下の少女でも、正体はドラゴンだ。しかし全くといっていいほどカルルは恐怖を感じていなかった。それはファーラの間抜けな寝顔と、そこで眠る護衛のおかげなのかもしれなかった。
薄く目を開けて床で眠るザムを見る。今日は床に毛皮を敷き、もう一枚の毛皮に包まって寝ていた。場所は扉の近く。体のすぐ横には剣を置いている。きっと熟睡はしていない。何かあればすぐに剣を手に取る。そのことをなぜかカルルは確信していた。
徐々にまぶたは下がり、やがて閉じられるとカルルは深い眠りへ落ちた。それから数分後、馬車の隅で影が動いた。それは床で寝ていたザム。
無言で体を起こすと剣を手に取り、音を立てず扉を開けて外へ出る。冷えた夜の空気が肌をなでた。
小さくなっていたが、たき火はまだ燃えていた。ザムはそれに薪を継ぎ足す。再び燃え上がる炎。彼は昨夜も何度か起きては薪を燃やし、火が消えないようにしていた。それは夜行性の獣が来ないようにするためと、もしもの時のためにだった。
その時、眠っていた馬の目が開いて顔を上げる。そしてとある方向へ向く。ザムもそちらを睨んでいた。いつものどこか緩い雰囲気は無かった。眼光は冷たく鋭く、その全身から放たれる殺気は威嚇程度のものではない。
静かに剣を構える。睨む闇の向こうで何かが動いた。火を恐れることなく近づき、そして光に照らされたその正体は、異形の獣だった。
それは獣と呼べるのか疑問しかない。とにかく大きい。ザムの身長の二倍はある。見た目は狼に似ている。しかし足は四足ではなく、見えるだけで六足。さらに背中から生えた異形の腕。それは狼にはありえないもので、昆虫のように節くれだち甲殻に覆われていた。先端は蜘蛛の様に鋭く尖っている。
「キュイ」
魔獣は小さく鳴いた。狼の口から出たとは思えない高い鳥のような鳴き声。光る二対四個の眼球がザムを射抜く。
突進。魔獣は大きく口を開けながらザムへ肉薄し、異形の腕を振るう。それは何の抵抗も無く振り抜かれた。すでにそこにザムの姿は無く、彼は宙を舞っていた。
ザムは身長の三倍もの高さを跳躍し、落下の勢いのまま魔獣の頭部へ剣を突き刺す。
「ギ……」
悲鳴を上げようとする魔獣。その声が放たれる前にザムは剣を振るう。
それで簡単に魔獣の首は切断された。切り離された首は地面に落ちる前に黒い霧へと変わる。力を失った体も倒れる前に霧散した。足場にしていた魔獣の体が消えたことで落下するが、ザムは危なげなく着地する。
「まったく。あいつらが起きるじゃねえか」
その後、魔獣は再び姿を現すことなく夜明けを迎える。
ザムは床から体を起こし、馬車の外へ出る。朝日に目をしかめながら肩を回し、眠気が残る体を目覚めさせた。馬を一撫ですると御者台へ登り手綱を握る。
朝日に照らされながら、馬車は荒れた道を進む。
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