3
「フンフフ、フーン」
ドラゴン少女は陽気に調子はずれな鼻歌を歌っていた。見た目は美しい少女なので、その姿を誰かが見れば思わず笑みを浮かべるだろう。
しかしザムの顔は青ざめ、気温は涼しいのに顔には汗が見える。なぜなら美しい少女が恐ろしいドラゴンだと知っているからだ。さらにはドラゴン少女がいる場所が問題だった。
「いやー、しっかし何も無いねー。ずっと岩ばっかりだー」
「……そうですね」
ザムの顔はずっと前を向いている。いや、その方向しか顔を向けられない。なぜならば、馬車の御者台で馬を操るザムのすぐ横に、ドラゴン少女が座っているからだ。
馬車の車輪が大き目の石に乗り上げ、上に跳ねた。小柄なドラゴン少女は、その衝撃で御者台から落ちそうになった。
「わっと」
「っ!」
ザムは慌ててドラゴン少女の腕を掴み、馬車からの落下を防いだ。
「ふー。ありがと」
「い、いえっ、ドラゴン様! 申し訳ありませんでした!」
ザムははじかれた様に手を離し、深々と頭を下げた。思わずドラゴン少女に手を触れたことでザムの顔色はさらに悪くなり、全身から冷や汗が吹き出る。
ドラゴン少女はそんなザムの様子を見て、頬を大きく膨らませた。
「もう。ドラゴン様じゃなくて、ちゃんと名前で言ってよ」
「ですが、それはあまりにも恐れ多く……」
「いいから!」
「は、はい……ファーラ様」
ザムが恐る恐るファーラの名前を口にすると、彼女は満面の笑みを浮かべた。
「うん。やっぱり自分のことは名前で言ってくれたほうがいいね」
そう言ってドラゴン少女、ファーナは鼻歌を歌いだす。ザムは大きくため息をはくと、めまいを感じて額を手で押さえながら呻いた。
「……なんだってんだ、クソッタレめ……」
それから何度もファーラはザムに話しかけてきたが、恐怖と緊張で「はい」や「いいえ」程度の返答しか彼はできなかった。代わり映えしない景色にファーラはやがて飽きて眠そうにあくびをし始める。やがて彼女は御者台で眠りに落ちた。
「すー、すー」
静かな寝息をたてるファーラ。その赤い髪と白い肌は瑞々しく、伏せたまぶたから伸びる睫毛は長い。それはまだ子供特有のあどけなさを残しながら、優美な女性としての資質を十分に感じさせる姿だった。
そんな少女が傍らにいるというのに、ザムの顔は緊張と冷や汗で大変なことになっていた。
「……うう……」
ザムの口から悲痛なうめき声が漏れる。それは今の自分の状態のせいだった。
馬車というのは揺れる。大きな箱にただ車輪をつけただけなので、地面の凹凸による衝撃は直接体へ伝わるからだ。そしてザムとファーラが座るのは馬車の外に作られた御者台。馬車の中であれば放り出される心配は無いが、柵も何も無い御者台ではその危険がある。
そんな御者台で寝たりしてしまったらどうなるだろうか。地面に落ちるだけならまだいい。落ちた際に首の骨が折れたり、馬車の車輪に巻き込まれたりしたら怪我どころではなく死んでしまう。
そんな状況でファーラは寝てしまった。ドラゴンだからか、普通の人間とは感覚が違う。見た目は人間の少女だが、ドラゴンなので平気なのかもしれないが、落ちて怪我や服が破れたりするかもしれない。もしそんなことになってしまったら、ドラゴンは怒り狂ってしまうのではないか。それがザムは恐ろしい。
そんな結果にしないためにはどうすればいいのか。ファーラが御者台から落ちないようにすればいい。
ということで、ザムは御者台でファーラの肩を抱き寄せていた。その顔は引きつっている。ファーラはというと、幸せそうな寝顔でザムの肩に頭を乗せていた。遠くから見れば、仲睦まじい恋人同士のようだ。
「……仕方がないとはいえ、この後俺は殺されたりしないよな……」
ザムは乾いた笑い声をあげる。
「まだ起きないのか……」
ザムはちらりと後ろにある窓から馬車の中を確認する。物音も動く気配も感じられない。
気絶したカルルは馬車の中のベッドへ寝させていた。呼吸や心音は確認したので死んでいるということは無いはずだ。たまに苦しそうに呻いていたが、おそらくドラゴンの悪夢でも見ているのだろう。
馬車は岩山の裂け目にできた道を行く。道は何度も折れ曲がり、自分が今どの方向へ向かっているかも把握できていなかった。
「……そもそも、この道がどこへ繋がっているのかもわからないしなあ……」
ザムは自分の国から外に出たことは無い。出れるなどとも思っていなかった。
彼は任務で何度か辺境と呼ばれる場所へ行ったことがあるが、それでもこの岩山より数日ほど王都へ近かった。そこから見える岩山は霞がかっていて、恐ろしい場所だと知ってはいたが自分には関係ないと思っていた。
その場所に今いるのだとそう思った瞬間、ザムは急激な寒気に襲われた。
王都や村の周辺ならば魔獣が襲ってくることはあまりない。しかしここは辺境のさらに辺境で、魔獣の駆除などされたことがないような場所だ。いつ襲い掛かられてもおかしくはない。
(さらには、この道の先がどうなっているかもわからない)
誰も来た事が無い場所の地図が存在しないことは当たり前だ。ザムはまともな地図など持たず、襲いかかる魔獣たちを警戒し、さらには脳裏に浮かぶドラゴンの恐怖と戦いながら何日も旅をしていた。すでに精神の疲労は限界だった。
(……極め付きはドラゴンご本人様の登場だ……ハハッ、もうどうにでもなれ)
ザムは空ろな目をしながら、なかば現実逃避したまま馬車を進める。行く先は誰もわからない。
「クソ。暗くなってきやがった」
太陽はすでに大きく傾き、あと数時間で夜が来るだろう。さらに両側を高い岩山で遮られているため太陽の光があまり届かず、すでにだいぶ周囲が暗くなっていた。
舗装もされていない荒れた道を、明かりも無しに進むのは不可能に近かった。大小の岩が転がっていたり大きな穴もあったりするので、それに気付かなければ危険極まりない。馬車が壊れてしまえば修理も不可能だ。
「ここで夜営だと……ちくしょう」
死すら通れないと言われる人外魔境。そんな場所で夜を過ごすなど、普通の人間の神経では考えられない。
「でも、やるしかない、か……」
ザムは今も肩に頭を乗せて眠るファーラを見る。寝顔はまさに子供そのもので、目を凝らしてもこれがあのドラゴンだとは信じられない。しかし変身を間近で見ているので、理性はこの少女がドラゴンなのだと理解していた。
「…………」
たった一日で次々と起こった衝撃の出来事で、ザムの精神は限界まで酷使され、それ故に奇妙に落ち着いた状態になっていた。ファーラの肩を抱いているという状態でも、体重は軽く体温は少し高い、などと冷静に観察していた。それは恐怖を克服したというより、開き直っただけとも言えるだろう。
「まあ、やるだけやってみるか」
どこか晴れやかな表情をザムが浮かべた瞬間、地面の盛り上がりに車輪が乗り上げて馬車が跳ね上がった。ファーラに目を向けていたため、道の確認がおろそかになってしまっていたのだ。
「うおおお!」
手綱を引いて馬を止めるが、すでに体は宙に浮いている。無理矢理体をひねり、ザムは自分の体がファーラの下になる状態で御者台から地面へ落ちた。
「ぐっ!」
背中を強かに打ちつけて、ザムの口から声が漏れる。速度が遅かったため、骨を折るようなことはなかった。
「ふあーあ……何ー、どうしたのー?」
ファーラが目を覚ます。馬車から放り出されたのにも関わらず、あくびをしながら眠気眼をこする姿はあまりにのん気だ。
「なんでザムの上に寝てるんだろ?」
「……とりあえずどいてくれ。重い……」
実際はそれほど重くないのだが、痛みに呻きながらザムがそう言ったとき、馬車から大きな悲鳴があがった。
「ギャアアアアアアアー!」
「次から次へ、まったく……」
ザムはファ-ラをそっとどけると、髪の毛を手でかき回しながら立ち上がる。すっかりやつれた顔で馬車へと向かい、扉を開けた。そこには頭を抱えて空中に向かって叫ぶカルルの姿があった。
「ギャー! ギャー!」
「うるさいな。落ち着け」
ザムが声をかけるが一向にカルルの叫び声は止まらない。ため息をはいたザムはカルルへ近づくと、額を指で弾いた。
「いったあーっ!」
「正気に戻ったか」
カルルは痛む額を両手で押さえながら、周囲を何度も見回した。
「え? ここは?」
「馬車の中だよ。カルルは気絶したから運んだのさ」
ザムが説明するがよくわからないようで、カルルは目を白黒させるばかりだ。
「どこまで記憶がある?」
「えーっと……ドラゴンが来て、それが女の子になって、それがまたドラゴンになって……それから……」
カルルの体が大きく震えだす。ドラゴンと出会った時の恐怖を思い出してしまったからだ。目から急激に光が失われる。
「アワワワワ」
「よし! 思い出すな、いや思い出したうえで落ち着け!」
理不尽なことを言いながらザムはカルルの肩を持って揺らす。容赦がないのでカルルの首が不安定に大きく揺れた。その効果があったのか、徐々に目に光が戻ってきた。
「……ハッ」
「よし、戻ってきたか」
「ねー? どうしたのー?」
カルルが正気に戻ったとザムが安心したとき、ファーラが馬車の入り口から顔をのぞかせた。それを見た瞬間、カルルの体が再び震え始める。
「あばばばばドラゴンンンンン」
「ええい! 話が進まん! ファーラは外にいてくれ!」
カルルを落ち着かせ、ザムは現在の状況を教える。ファーラと一緒に行くことを伝えたときはまた正気を失いそうになったが、額を指で弾くことでそれを防いだ。そのせいでカルルの額は真っ赤になっていた。
「……ということだ。くれぐれもドラゴン、ファーラの機嫌を損ねないようにな」
「うん。でも、ドラゴン様を名前で呼ぶなんて……」
「我慢しろ」
ザムとカルルは馬車の外へ出る。そこではファーラが馬に話しかけていた。
「そうかー。キミも大変だねー。ボクもジジイやババアにいつも怒られてさー」
「……馬の言葉がわかるのか」
ザムが感心しように言うと、それが聞こえたのかファーラが振り向く。
「ううん。わかんないよ」
「わからないのかよ!」
「だって馬だよ。ユニコーンとなら話せるけど」
「でも、さっき話しかけてただろ」
「あれはただグチってただけー。ツルムのおっちゃんが馬にグチると楽になるって言ってたから、それをマネしてるんだー」
笑いながらそう言うファーラに脱力して、ザムは大きく肩を落とす。
「なんだよそれは……まあいい。カルル」
ザムに呼ばれたカルルは、恐る恐る強張った顔でファーラの前へ進み出る。
「あ、あらためまして、ドラゴン様……」
跪こうとしたカルルの後ろ襟をザムは掴み、持ち上げて無理矢理立ち上がらせる。
「な、何を!」
「いいから。こいつにはそんな事しなくてもいい。だろ、ファーラ」
ザムが目を向けると、ファーラは頷いた。
「うん。いいよー」
「しかし、ドラゴン様は!」
「あー、ちゃんと名前で呼ばなきゃだめだぞ」
「そうだね。ちゃんと名前で呼んでほしいなー」
ザムとファーラから見つめられ、そのプレッシャーでカルルの顔から冷や汗が流れる。
「え、あ……ファーラ……様」
「うん! ブクはファーラだよ。えっとー、キミは?」
「は、はいっ! カルル・ウズです!」
「ファーラ、最初に会ったときにちゃんと自己紹介しただろ」
「えー? そうだっけ?」
ドラゴンであるファーラに馴れ馴れしく話しかけるザムを、カルルは信じられないといった表情で見つめる。それを感じてザムは苦笑を浮かべた。
「で、全員揃ったところで今後の予定を決めよう」
「予定?」
「ああ。もうすぐ夜になるからな。夜営の準備をしなきゃいけない。ファーラはどうする。俺たちと一緒に夜営するのか?」
「面白そうだからそれでいいよー」
ザムとしてはファーラが嫌がってどこかへ行ってくれないかと思ったのだが、そううまくはいかないようだった。思わず苦笑いが浮かぶ。
「それじゃまずは水場を探したいんだが……正直無理だ」
今日一日移動してきて、周囲は岩と土しかなかった。動物どころか草木も無く、ここは生者が来るべき場所ではないのではないかと、ザムは何度もそう考えてしまい顔を蒼白にさせていた。そんな生物がいない場所に川があるとは思えない。
「まだ水はあるから、節約すればなんとか行けるだろう。夕飯だが、水節約のために煮込み料理は無しであの硬いパンと塩辛い木の実だけだ。あれが無ければ暖かい飯が食えたんだがなあ……」
恨めしげにザムはファーラへ視線を送るが、なんのことかわからずキョトンとした顔で彼女は首をかしげるだけだった。
「俺たちはそれでいいが、ファーラはまだ食料あるよな?」
「食べ物はねー、ないよ」
「そうか……って無いのかよっ!」
「うん。さっき全部食べちゃった」
そう言ってファーラは薄くつぶれた袋を見せる。それはファーラが人間に変身した際に背負っていたものだった。
「たしかその大きさは、ファーラの身長と同じぐらいだったと思ったが……それ全部食料だったのか?」
「うん」
「いつの間にそれだけ食ったんだよ!」
「だって、寝て起きたらおなか減っちゃうんだよ」
昼食のときもファーラはかなりの量を食べていた。それでもあの袋はまだ満杯に近かったはずだ。となると、ザムがカルルと馬車の中で話している間に中身を全部食べたことになる。驚異的な早食いと胃袋だ。
「ドラゴンは意味がわからない……仕方ないから食料を分けてやる。ただし、これも節約のために少なくするからな」
「えー、お腹いっぱい食べたいなー」
「我慢しろ」
不満げに口を尖らすファーラを一言で切り捨て、ザムは馬車の中へ食料を取りに入っていく。その背中をじっと睨んでいたファーラは、不意にカルルへと顔を向けた。突然のことにカルルの体は小さく跳ねる。
「ふえっ!」
「おでこ赤いよー」
ファーラはカルルの額を指さした。それで慌てて額を両手で隠し、カルルは視線をあちこちに彷徨わせる。
「うわわわわ、これは、その、ザムの指で弾かれて」
「あー、デコピンかー。あれ痛いよねー。たまに力入りすぎて頭の骨割れちゃうし」
楽しそうに笑いながら言っているが、その凄惨な内容にカルルは何の反応もできず、ただ目をグルグルと回しながら乾いた笑いを漏らすことしかできなかった。
「アハ……アハハ……」
「……? 何引きつった顔で笑ってるんだカルル?」
言われた言葉の能天気さに、カルルは高速で首を回し眉毛と目尻を限界までつり上げた憤怒の表情でザムを射殺すかのように睨んだ。
「何でお前はそんなに気楽そうなんだーっ!」
「いやあ、そんなに深刻にならなくてもいいかなって、な。どうせもう後戻りできないし、こうなりゃどうにでもなれっていう悟りを開いたというか……」
締まりの無い顔で話すザムを、さらに気持ちを込めた目で睨むカルル。そんな二人へ向けられる声。
「ねー、ごはんまだー?」
数秒間睨み合ったが、カルルが先に顔を背けた。
「ファーラ様を待たせるわけにはいきません。早く準備をしてください!」
「わかりましたよ王子様っと」
ザムがやれやれと肩を竦めた。すると眉をひそめ、眉間にしわを寄せながらカルルを睨んで鼻をひくつかせた。
「……なんですか」
「お前……臭くないか?」
昼食の準備中にザムたちはファーラと出会った。その際にカルルは吹き飛ばされ、こぼれた鍋の中身の上を転げまわった。それは服に染み込み、時間が経過したことで異臭を放つようになっていたのだ。
「なっ!」
カルルは驚愕して自分の服の臭いを嗅ぎ、その顔が歪む。
「うええぇ……」
「さっきも言ったけど、水は節約するからな。服の洗濯は無理だ。着替えてこいよ」
カルルは涙目で、とぼとぼと重い足取りで馬車の中へ入っていく。その背中には哀愁が漂っていた。
カルルが着替え終わるとザムは食料を配る。するとファーラの目がハの字に下がり、実に悲しそうな顔になった。
「これだけなの?」
「文句を言うな。これでも多めにしてるんだぞ。だいたいファーラはもう食べてるじゃないか。分けてもらえるだけありがたく思え」
ファーラは切なそうに手のひらに乗せた食べ物を見る。そこには固く味のしないパン、一切れの干し肉、塩漬けの木の実が二つ。今日の夕食はたったそれだけだった。
「ファーラ様、私のを差し上げます」
カルルは自分の食事を渡そうとしたが、ザムに止められる。
「だめだ。これから目的地まで何日かかるかわからないんだ。ちゃんと食べておけ」
「でも、ファーラ様が!」
「たしかにファーラはドラゴンだ。でも、俺たちが探してるドラゴンじゃない、気にするな。それにカルルはドラゴンへの生贄なんだぞ。生贄が餓死とか冗談じゃないよ」
ザムが淡々とそう口にする。それを聞いてカルルは絶句した。たしかに生贄を捧げるドラゴンではないが、ファーラは強大な力を持つドラゴンなのだ。それを相手にこんな物言いをしたら、怒りに触れて殺されてしまうかもしれない。カルルは顔を青くしながら怒りの表情で叫ぼうとした。
「……っ、あなたね!」
しかし突然勢いよくファーラが立ち上がったため、カルルの声は途中で切れた。
「よし、食べ物を探しに行こう」
その言葉にザムとカルルは目を瞬かせる。
「探すって、どこを?」
「えー? 森とか。お腹減ったらよく森に行って動物とか食べてるしー」
「森は遠すぎる」
ザムたちが住むベレロ国は森と呼べるものがほとんど無い。そもそも木々が少ないのだ。荒地や乾いた土壌が多く、植物の育つ場所は国土の半分以下だった。
肥沃な土地は王都周辺で森も近い。ザムたちがいるのは、王都から半月ほども離れた辺境だ。そこまで移動するのは不可能だった。
「でも、こんなのじゃ足りないよー」
ファーラは手に持った食料をいっぺんに口へ入れると、よく噛みもせずに飲み込んでしまう。
「もっといっぱい食べたいー!」
だからといって、これから移動するのは無謀だ。もうすぐ夜になってしまう。真っ暗のなか移動するのは危険だし、魔獣に襲われる危険性がある。ザムはそう説明したがファーラは納得しなかった。
「だったら飛んでいけばいいよ」
「飛ぶ?」
ファーラの体が光り輝く。すると少女の姿から、巨大なドラゴンへと変化した。
カルルは驚いて腰を抜かしていた。ザムはというともう慣れてしまっていて、平然と高い位置にあるドラゴンの頭を見上げていた。
「なるほど。ドラゴンになって飛んでいけばすぐに行けるというわけか」
『うん。じゃあ、ちょっと行ってくるねー』
翼を広げて飛び立とうとするファーラにザムは声をかけた。
「待てファーラ。俺も一緒に行く」
その言葉にファーラはキョトンとした顔、カルルは驚愕の顔で顔を向けた。
「お前、このあたりの地理はわかってるのか」
『んー? わかんないかも』
「それだとどこに森があるかわからないだろうし、この場所にも戻ってこれないんじゃないか?」
ファーラはその言葉に首を傾げるだけだ。見ようによってはユーモラスだったが、そことに興味も見せず、ザムは大きなため息をついた。
「俺が道案内をする。だから連れていってくれ」
「ちょ、ちょっと!」
ザムの暴挙にカルルは慌てて止めようとするが、その表情はふてぶてしいほどに落ち着いたものだった。ザムはカルルを見ると、懐から鍵を取り出して投げた。
「大丈夫だと思うが、馬車の中でおとなしくしているんだ。鍵をちゃんとかけておけよ。馬車は頑丈だから魔獣が来ても持ちこたえられる、はずだ。ファーラ、ちょっと待っててくれ」
ザムは馬車の中に入り、ロープを抱えて出てきた。
「ファーラ、俺を背中に乗せてくれないか」
『いいよー』
ファーラはザムへ手をのばす。ドラゴンの手は大きく、ザムをつかむと頭しか見えなくなった。それはまるで子供が人形遊びをしている様。しかし子供は巨大なドラゴンで、人形は生きた人間だ。
ファーラはザムを背中まで持ってきて、手を開く。手の位置と背中には少し距離があった。ザムは落下の衝撃で体勢が崩れた。このままだと滑り落ちてしまう。
「うおっ!」
ザムは慌てて手をのばすと、指が鱗の隙間に引っかかった。落下することは防げたが、手だけでぶら下がっている状態だ。カルルが悲鳴をあげる。
『どうしたのー?』
「おいっ、動くな! 落ちる!」
ザムは何とかよじ登り、額の冷や汗を腕で拭う。
「ふう……ファーラ、このロープを首に巻いてくれ」
ザムが抱えていたロープを垂らすと、ファーラは器用に爪の先で掴み、首へロープを巻きつけた。
「けっこう長いロープなんだがな、首に二回しか巻けないか。まあいい」
ザムは自分の腰を余ったロープで縛る。外れないかどうか何度も引っ張って確認した。
「よし、いいぞファーラ。とりあえず来た道を戻る方向だ」
『わかったー。いくよー』
ファーラは大きく翼を広げ、力強く空気を叩くと大量の砂が巻き上がる。一回翼を動かしただけで数メートルも空へ浮かんだ。そのままゆっくりと翼を動かし、あっという間に空高く上昇した。
カルルは呆然と上空のドラゴンを見上げる。上昇を続けたドラゴンは一瞬その動きを止め、力強く羽ばたくと高速飛行をはじめた。翼が翻るたびに速度は上がり、その姿は瞬く間に小さくなって消えていった。
「ぐううううう」
ザムは高速飛行による風圧に必死で耐えていた。ドラゴンになったファーラの背中には、いくつかの鱗から角のように突起ができているものがあり、そのうちの一つに彼はしがみついていた。
風は強い。両手でしがみついいているのにもぎ取られそうだ。ロープで体を結んでいるといっても、いつ千切れるかわからない。ザムは離すものかと手に力を込める。
風が強烈に顔を叩くなか、うっすらと閉じていた目を開けた。近くに雲がある。それほどの高さだった。
ザムは地上へ目を向ける。そこは一面岩山が連なっていた。死すら通れない場所と呼ばれる山脈だ。鋭く尖った山々が連なる景色は、まるで剣が何千本も並んでいるようだった。
ザムの腰の辺りから頭に向けて寒気が走った。それは本能的な恐怖。人間は空を飛べない。ザムは切り立った崖などに立ったこともあるが、こんな山よりも高い場所になど来たことがあるはずもなかった。あまりの恐怖に頭が真っ白になる。
「ぎっ……!」
『どうしたのー?』
恐怖にとらわれかけたザムの様子を感じたのか、ファーラが器用に目だけを動かしてザムを見た。その声で反射的に顔を上げると、ザムの目に光が飛び込んできた。
それは沈みゆく太陽。薄く雲に覆われ、抑えられた優しい陽光が大地を照らす。
夕日を浴びて輝く砂色と緑色の風景。砂色の場所は荒野、緑色は草原や森。遠く霞んでいるのはベレロ国を囲む山脈、自分たちがいる死すら通れない場所の反対側。
ザムは声も無く目の前の光景に見入っている。ザムは芸術や絵画といったものを愛でる心を持っていなかった、いや知らなかった。そんな余裕のある人生ではなかった。だというのに壮大な自然のモザイク画は、彼の心を殴りつけ、優しく包み込んだ。
『だいじょうぶー?』
どれほど呆けていたのだろう。ファーラの声でザムはやっと我に返った。
「だ、大丈夫だ! なんでもないっ!」
風の音に負けないよう、ザムは大声で叫ぶ。
『どっちに行けばいいの?』
ザムは周囲を見回す。先ほどまでの恐怖は全く無かった。目を皿のようにして地上を観察する。すでに岩でできた山脈は背後に消えていた。
(王都周辺なら土地勘があるが、遠いうえにドラゴンを連れていくのはまずい。できるなら村などに近づいて人に見られるのも避けたい。となると辺境地域で獣を見つけなければならない……)
しかし辺境地域は不毛の土地だ。動植物がとぼしく、実際ザムもここまでの道中で動物の姿を見かけることはまず無かった。
それでもザムは必死に目を凝らす。やがてその目が見開かれた。
「ファーラ、あっちだ!」
『どっちー?』
「進んでいる方向から少し右だ!」
『右ねー』
「いきすぎだ! ゆっくり左に戻せ。その向きになったら俺が合図する!」
そんなやり取りを何度か行い、しばらくドラゴンは空を飛ぶ。
「見えるか? あそこに山羊がいる」
『ヤギ? どこどこ?』
ファーラは首を左右に動かすが発見できない。ザムは腕を伸ばして指さす。
それは距離が遠く、砂粒のように小さい影だ。だというのに二人は難なくそれが山羊だとわかるほどの視力を持っていた。ファーラもすぐにザムが見つけた山羊を発見する。
『ホントだー! やっほー!』
ファーラは歓声を上げると大きく翼を広げて、空気を叩いた。速度が急上昇したため、ただでさえ強かった風がさらに強くザムへ襲いかかる。吹き飛ばされないよう、ザムは必死でしがみつく。
空気を切り裂いて飛ぶ姿は流星のようだ。しかしファーラの背に乗るザムは、そんな美しい光景とは無縁でひたすら過酷だった。目は開けれず呼吸も困難。体全体を押しつぶす急加速による圧迫。意識が失われそうになった瞬間、ファーラは翼を大きく広げて急停止した。
『つかまえたー』
ファーラは口に山羊を咥えていた。上空から急降下してその勢いのまま捕まえたのだ。まだ生きているようで、山羊は悲痛な鳴き声を出している。しかしそんなものはファーラには関係なかった。
『いただきまーす!』
そう言うと山羊を一口で丸呑みした。鳴き声は消え、骨と肉を租借する音が響く。
『おいしーい。あれ?』
ファーラは不思議そうに自分の肩からぶら下がっているザムを見た。
『どうしたのー?』
「……どうしたの、じゃねえよっ! 死ぬかと思ったわっ!」
急停止した際その反動で前に体が飛んでしまったのだ。ロープがあったから無事だったが、もし切れていたらザムの命は無かっただろう。ザムは非難の意思をこめてファーラを睨みつける。
「もっとゆっくり飛べないのかっ!」
『だってお腹減ってたんだもん』
「知らん! ……で、もういいか。帰るぞ」
『ヤダ。もっと食べる』
「もう食べただろ」
『ヤダ! だって、丸呑みしたいって言ってもいつもダメだって言われるんだよ。こんな時ぐらいしかできないよ! まだ食べたいー!』
ファーラはそう不満を言いながら足踏みをした。ロープでぶら下がっているザムの体は、その衝撃で激しく揺れる。
「危ない! 暴れるなって! わかったから、食っていいから」
『ホントにー? やったー』
ファーラは満面の笑みで万歳をする。ザムはなんとかよじ登ると、周囲を見回す。
今いるのは広い場所だった。遠くに山が見える以外に何も無い。荒れた土地が広がり、所々に茶色く枯れたような姿の草が生えていた。その風景にザムはじっと目を凝らす。
「見えた。向こうに山羊の群れがいる」
『いっぱいいるの?』
「見えるのは数頭だ。期待はしないほうがいい」
ファーラはザムを背に乗せて、新たなる獲物に向けて飛翔する。
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