2
『キミたち、だれー?』
ドラゴンはそう問いかけてくるが、茫然自失となったザムとカルルの二人には、それに答えることなどできない。何の反応もしないことに苛立ったのか、ドラゴンの目が細くなる。それはまるで子供が拗ねているような、恐ろしいドラゴンの外見に似つかわしくないユーモラスな表情だった。
『なんで無視するのーっ!』
「!」
ドラゴンは咆哮した。巨体にふさわしい大声は地面と岩山を揺らし、それに比べれば小さなザムとカルルはその衝撃で後ろへ吹き飛ばされてしまった。料理していた鍋と燃えていた木も転がっていく。
「うわわわわわ……」
睨み付けるドラゴンの恐ろしさにカルルは腰が抜けてしまい、地面に倒れたまま意味の無い言葉を漏らし続ける。
ザムは恐怖で早鐘を打つ心臓と震えそうになる足をごまかし、精神力で動くと地面へ跪くとドラゴンに頭を垂れる。
「貴方様は高名なるドラゴン様とお見受けいたします。私たちの非礼に心を害されたでしょうが、どうか怒りをお静めください」
それはザムの今までの慇懃無礼な態度とは違い、丁寧な言葉や洗練された所作はまるで貴族のような姿だった。
あまりの変わりようにカルルは目を丸くする。すると横目でザムはカルルを見ていた。そこで自分の格好と彼が何を指図しているかに気付き、慌てて同じように地面へ跪く。
それを確認したザムはもう一度ドラゴンへ話しかける。
「私は貴方様と三百年前に交わした約束の生贄を捧げに来たのです。どうかお納めください」
ザムが言い終わると、カルルはゆっくりと立ち上がり、空に浮かぶドラゴンの足元まで歩いていく。そして地面へ両膝をつけると、深く頭を下げる。手はそろえて地面へ置き、頭も地面に擦りつけようとするかのように低い。
「私はカルル・ウズ。ベレロ国の王族ウズ家に名を連ねる者です。三百年前の約定の通り、生贄としてやってまいりました」
カルルが言い終わると、静寂に包まれる。カルルは緊張でひどい耳鳴りがしていることに気付く。それはごうごうとも、ざあざあとも聞こえる、まるで嵐のような音だった。
カルルはただじっと地面を見ている。カルルたちにとって目上の人間と話すときは、顔を見ないようにするのがマナーだったからだ。こうして地面に両膝をつき頭を下げるというのは、最上位の身分である王にだけ行う儀礼だった。
それを王族であるカルルが行っている。つまり、それだけドラゴンが恐れられていた。なにしろ、一度国を滅ぼされかけたのだ。
重いものが地面に落ちる大きな音と地響き。これはドラゴンが空中から地面へ降り立ったことを意味している。
カルルは体をびくりと震わせたが、それを一瞬で止める。何か失礼があってはドラゴンを怒らせてしまう。全身に冷や汗がどっと流れる。
ずっと地面を見ているので、今がどういう状況なのかわからない。しかしさっきの音の位置と、上のほうから聞こえる呼吸音からドラゴンが自分のすぐ近くにいることが感じられた。
これから私はドラゴンの生贄となるのだ。やはりあの牙で噛み砕かれ、食べられてしまうのだろうか。どうせなら痛くしないで欲しい。そんなことを思いながら、カルルはただじっとその時を待っていた。
そのドラゴンはというと、自分に捧げられた生贄を前にして混乱していた。
(どういうことー?)
ドラゴンは生贄を捧げろなど、そんなことを言った覚えが無い。
足元にいる小さな人間、カルルを見下ろす。きちんと観察することはできなかったが、まだ若く可愛らしい顔立ちだったと思い出す。
もう一人の男、ザムへ顔を向ける。彼も頭を下げているのでドラゴンが見ている事には気付いていないだろう。髪はボサボサで横に広がっていて、服装もカルルと比べるとかなりみすぼらしい。剣らしきものは腰にあるが、鎧も盾も無い。
あらためて観察してみると、二人の服装はドラゴンがこれまで見た人間とは違っていた。カルルが着ている服に似たものはあるが、足首まですそがある物はなかったし、刺繍の模様も見たことが無い。金髪というのはよく見かける色だが、その顔立ちは彫りが浅い。これまで見た金髪の人間たちは、どれも彫りが深く角ばった輪郭をしていた。それに比べると二人の輪郭は丸い。
(意味がわかんない)
ドラゴンはここの地域の管理を任されていた。それも始めたばかりというわけではなく、それなりの年数が経過していた。
任された地域で見たこと無い人種の人間が存在し、しかも三百年前の約束だと言って生贄を捧げてくる。これは本来なら自分より上の人間へ報告すべき事だ。
(でも、これ報告したら絶対なんか言われるなー。もしかしたら説教、レポート、減給の三連撃かもー?)
そうなった場合を想像して、ドラゴンの顔色が青くなる。
(マズイよー! そんなことになったら死んじゃう! オッサンたちの説教はウザいし、鬼ババアは何度もレポートやり直しさせるし、給料少なくなったら買い食いできなくなるしー!)
『ウアアアアアー! どうしよー!』
「ヒャアッ!」
「うおおおおおっ!」
ドラゴンの咆哮で再び吹き飛ばされるザムとカルル。そのせいでザムは岩に頭をぶつけ、カルルは何度も地面を転がったせいで泥だらけとなる。
『もーうっ、メンドクサイなあっ! なんでボクがこんな悩まなくちゃいけないだよう!』
ドラゴンは駄々っ子のように、何度も地面を踏みつける。それは幼い子供がすれば微笑ましいものなのかもしれないが、体のサイズが大きすぎた。一踏みごとに地面が揺れ、轟音と砂煙が舞い上がる。はっきり言って天変地異と変わらない。
「ドラゴン様! どうか、どうか、怒りをお静めくださいっ!」
ザムはなぜ突然ドラゴンが暴れだしたか理解していなかったが、なんとか落ち着かせようと何度も怒鳴る。必死に叫ぶ姿は悲壮ですらあった。いつその暴力が自分へ向けられるかわかったものではない。
しばらくドラゴンの足踏みは続き、やっと止まった。
「……落ち着かれましたか?」
『うーん、少しはスッキリしたかな』
そのあまりに朗らかな口調に、ザムは引きつった笑顔を浮かべることしかできない。
周囲の地面はひび割れ、とろどころにできた地割れは人が落ちる大きさだ。ザムは自分が無事であることに感謝し、目の前にいるドラゴンは簡単に自分の命を刈り取ることができると実感して恐怖した。
「……それはよかったです」
ザムはカルルの姿がないことに気付く。周囲を見回すと、遠くで地面に倒れている姿を発見した。慌てて駆け寄って抱き起こす。
「おい、大丈夫か!」
「……うーん、頭がグワングワンする……」
何度も地面を転がったせいで目が回っただけらしい。さっとザムはカルルの腕や足の怪我を確認したが、血が出ているような場所は無く、骨も異常がなかった。
「頭を打ったりしていないか?」
「頭は痛くないよ。ただ、ちょっと気持ち悪いだけで」
「そうか」
ザムは安心してほっと息をはくと、カルルを見ていた顔を上げる。カルルもそちらへ顔を向けると、顔が一瞬で硬直した。
ドラゴンがこちらを見ている。
「…………」
二人は身動きできずに、ただドラゴンの目を見る。視線を外さなければならないのに、それができない。
ドラゴンは大きな足音をたてながら、悠然と近づいてくる。カルルがザムへと体を摺り寄せる。本能的な恐怖のせいだろう。カルルの肩を抱くザムの手にも力が込められた。その手にカルルが手を添える。
ザムとカルルが寄り添うその姿は、誰かが見れば恋人の様に映ったかもしれない。しかし、二人のほかにはドラゴンしかいなかった。
ドラゴンは長い首を伸ばして二人へ顔を近づける。間近で見るドラゴンの顔に、ごくりと唾を飲み込み、顔中から汗が吹き出す。
パチパチとドラゴンは瞬きしながら見つめ続ける。ザムとカルルは瞬きなどできない。
ドラゴンはカルルへ鼻先を近づけ、なぜか何度も臭いをかぐように鼻を動かす。
『いいニオイー』
「え?」
思いがけない言葉にカルルは目を丸くする。
さきほど吹き飛ばされたときに、偶然こぼれた鍋の中身の上を転がり、それが全身にまとわりついて、良いにおいがカルルからしていた。
『お腹へったなー。ごはん食べよーっと』
そう言うと、ドラゴンの全身が光りだした。
「なんだっ?」
突然の眩しさに、ザムは目を腕で覆う。カルルもザムの胸に顔を埋めるようにして光から逃げる。
発光は一瞬だけだった。光がおさまったのを感じてゆっくりと目を開けた二人の目の前には、一人の少女が立っていた。
「ごはんー、ごっ、はっ、んっ!」
年齢は十代前半、赤く長い髪が特徴的だ。仕立ての良いワンピースを着ていて、なぜか大きな袋を背負っていた。
少女は背負っていた袋を地面へおろすと、中身を探り出す。
自分の体ほどもある袋に頭を突っ込んでいる姿を、ザムとカルルの二人はただ呆然と見ていた。
「あったー!」
少女がつかみ出したのは、大きなパン。ただのパンではなく半分に切られていて、その間に何枚も肉の薄切りが挟んであった。非常に分厚く、少女の小さな口では食べるのが大変そうだ。
少女は鼻歌を歌いながらかぶりつく。数口食べたところで二人の視線に気付き、顔を向けた。
「そんなに見たってあげないよ。これはボクのだからねっ」
細められた目は剣呑で、しかしその顔立ちは美しい少女なので、恐怖よりも微笑ましさが勝る。じっと見つめる目の瞳孔が縦に長いことにザムは気付く。
「……信じられない、が……」
突然輝きを放ったドラゴン。目を開けたときにはあの巨大なドラゴンは消えていて、かわりに少女が立っていた。その少女の目は瞳孔が縦に長く、それはドラゴンの目と同じ特徴だ。
「この子が、ドラゴン……」
ザムはごくりと喉を鳴らす。目の前で鼻歌交じりにパンにかぶりつく少女の姿からは、全くあの恐ろしいドラゴンの片鱗すら感じられない。しかし目の前で起こった状況から考えると、彼女はあのドラゴンで間違いない。
ドラゴンであろう少女はパンをあっという間に食べ終わると、再び袋の中へ手を突っ込んだ。そして取り出したのは、二つ目のパン。
「一個でガマンしようと思ったけど、ガマンできなーい」
そう言うと少女は嬉しそうにかぶりつく。無邪気な子供そのものの様子に、ザムは急に緊張が薄れていくことを感じて大きく息をはく。
「……俺たちもメシにするか」
その言葉に、カルルは驚愕した表情で勢いよく顔を向けた。信じられないといった様子で目を見開いている。
「何を、言っているのです、か……」
「あー、どうやらしばらく食事するみたいだし、このまま何もしないっていうのももったいないしな」
「ええっ? だって、あの、あれは、ドラゴン……」
カルルは何度もザムと少女へ視線を往復させる。混乱しているのだろう。言葉を発しようとするのだが、何を言えばいいのかわからず、ただ何度も口を開閉させるだけだ。
「まあ、落ち着け」
ザムはカルルの両肩に手を置き、目線を合わせて顔を見つめる。
「たぶんあの子は、おそらくドラゴンだろう。いまいち信じられないが……」
「そうです、ドラゴンです! ドラゴンに生贄を捧げなければ!」
「そうだな」
「一刻も早く生贄を! 生贄は……私ですっ! ドラゴン様、私を食べてください!」
「そのドラゴン様はパンを食べてるぞ」
「じゃあどうすればいいんですかっ!」
叫ぶカルルの肩を、諭すように何度か手でやさしく叩く。そうすると興奮して荒かった呼吸と上下する肩が、だんだんと落ち着いてきた。
「……とりあえず食事にしよう。鍋は地面にぶちまけられたからな、仕方がないが保存食だけだ」
「…………はい、わかりました」
嬉しそうにいくつものパンを食べる少女を横目に、ザムとカルルはただ黙々と硬いパンと塩漬けの木の実を齧った。
「ふぅ、お腹半分より少ないけど、なくなっちゃうからガマンしなきゃ」
「それで半分以下なのか……」
満足そうな少女を、ザムは呆れた目で見る。十個以上もあの肉がたっぷり挟まれたパンをたべたというのに、それでも満腹に程遠い。さすがドラゴンだと変なところでザムは感心した。
「ん?」
思わずもれたザムのつぶやきが耳に届き、ドラゴン少女はそちらへ顔を向けた。
目が合った瞬間体が硬直したが、すぐさま地面へとザムは跪く。カルルもそれに続く。
「改めましてドラゴン様、いま一度名乗らせていただきます。私の名前はザムと申します。三百年前の約定により生贄を捧げに参りました」
「私がその生贄であるカルル・ウズです。どうかこの命。お納めください」
二人はより深く頭を下げる。ドラゴンである少女の動きは無い。しかし何も言うことはできないし、動くことはできない。相手は世界最強の生物。先ほどのように暴れられては命は無い。
命を失うのは怖くないと、カルルは考えている。恐ろしいのは生贄の使命を守れないことだ。
カルルは王族同士の権力闘争の果てに、こうしてドラゴンの生贄に選ばれた。すでに自分以外にウズ家の血族は存在しない。全て死亡したのだ。だからこそ、カルルはこの使命をなんとしてでも果たそうとしていた。
良くも悪くも、カルルは幼少から教育された生粋の王族なのだった。
カルルはただ地面に伏して最後のときを待つ。
「……」
地面に縮こまる二人を見下ろすドラゴン少女。それは絶対強者が弱者を冷たく睥睨する光景。
だが実際に少女の浮かべる表情は、追い詰められる側が見せる青ざめたものだった。
(うわあ……どうしよー?)
おいしい食事をして高揚していた気分が急降下する。
(なんだよー三百年前の約束ってー。知らないってーのー)
ドラゴン少女の目は釣りあがり、つい鼻息が荒くなる。その音にザムとカルルの肩が震えた。
しばらく二人をドラゴン少女は睨み続けていたが、何かに気付いてはっと目を大きくさせた。
(この状況って……)
ドラゴン少女は上司から何度も言われたことを思い出す。曰く、『ドラゴンはこの世界の最上位種族と言っていい。だからこそ、他の種族に対して必要以上に高慢な態度をとってはならない。何気ない言葉でも、強大な者が発したものは容易く脅迫となる。仕方がない場合があるが、力をもって相手を服従させるのは、条約によって禁止されているのだから十分注意するように』
現在ドラゴン少女の目の前には、地面に跪く人間が二人。しかも片方は自分を生贄と言い、必死に隠そうとしているが、明らかに恐怖している。これは上司の言葉に反しているのではないだろうか。
ドラゴン少女の顔に冷や汗が一筋流れる。
「うわー、あー、どうしよう」
頭を抱えてぶんぶん振り回す。さらには足をバタバタ動かしてもだえるが、どうすればいいのか何も思い浮かばない。
その様子を感じているはずだが、ザムとカルルは微動だにしない。
「うー、うー、とりあえず、頭を上げてくれないかな?」
しかし二人は顔を上げない。
「え? え? 顔を上げてよ」
「しかし、それは失礼にあたります」
「失礼ってどういうこと? いいから顔を上げてよ!」
ドラゴン少女が大声を出すと、ザムは音がするほど奥歯を強く噛みしめた。
(どうする? 理由はわからないけど、ドラゴンは苛立っている。このままだと殺されてしまうかもしれない。しかし顔を上げるのは……いや、本人が上げろと言っているのだから、無礼者が! などと言っていきなり首を切られることはないはずだ)
あの貴族どもとは違うだろうしな、と考えて、ザムの口元が小さく笑みを浮かべた。
ザムは顔を上げてまっすぐドラゴン少女の顔を見る。縦に瞳孔が長い、ドラゴンと同じ目と目が合う。もう一度ドラゴンに言われて、カルルも恐る恐る顔をあげた。その状態でしばらく静寂が続いた。
「え、えーと、二人の名前はなんだっけ?」
「私はザム。こちらはカルル・ウズです」
「ザムとカルルね。うん。で、どうしてこんな所にいるの?」
「ドラゴン様に生贄を捧げるためです。どうぞお納めください」
ザムがカルルを手で示す。カルルは決死の表情で立ち上がると、数歩ドラゴン少女へ近づいて再び跪く。
「私が生贄となる者です。どうかこの命をもって、我が国をお許しいただきますようお願いします」
それを見てドラゴン少女はまた焦る。
(ホントに生贄なのー! そんなの昔に禁止されたじゃん!)
ドラゴン少女は視線を彷徨わせ、さらに顔色を青くする。その様子を見て、ザムは内心で首をかしげた。
(どういうことだ? まるで年相応の少女に見える。いや、そもそもドラゴンに外見と年齢に関係があるのか? ……よし)
ザムは覚悟を決めて口を開く。
「失礼ですが、貴方様はさきほどのドラゴン様なのでしょうか」
「ん? あ、うん、そうだよ。ボクはドラゴンだよ」
「しかし……見たところ人間の少女の姿をしているのですが」
「あれ? ドラゴンが人の姿に変化できること知らないの?」
「初耳です」
ザムの国でドラゴンの正確な情報を持っている人間はいない。そもそも三百年前の事件についても正確な資料が無いのだ。ほとんど口伝でのみ伝えられていて、文書として残っているは当時の王が残したというたった一枚の羊皮紙のみだった。
それなら三百年の間にその話も失われてしまいそうだが、そうはならなかった。王都のすぐ近くにドラゴンの置き土産があるからだ。
それは地面に刻まれた、巨大な裂け目。王都の直径より長く、ドラゴンの爪の一振りで生み出されたという。地の底ははるかに遠く、かつて誰かが下りていったらしいが帰ってきた者はいない。
人々の心にもドラゴンは傷を深々と刻み、恐怖と畏怖が薄れることは無かった。
「じゃあ、元に戻るね」
ザムが目を見開いた途端、視界は光に塗りつぶされる。目が回復すると、目の前に巨大な赤みがかった鱗のドラゴンが存在していた。
ドラゴンは長い首を曲げて、呆けた様子で上を向いたザムの鼻先まで顔を近づける。
『ほら、ドラゴンでしょ』
ザムは強張った顔をなんとか動かし、かすれた声を出す。
「は、はい……わざわざ、ありがとう……ございました……」
ドラゴンは満足そうにウンウンと頷く。それを見て、このまま倒れこみたくなるほどの脱力感がザムの全身を襲った。それを精神力でねじ伏せて姿勢を保つ。
「では……この生贄、カルルを捧げます」
『えっとー、生贄ね……あのー、それはいらないかなー、って思ったりして』
「はあっ?」
思わずザムは大声を出してしまった。とんでもない失敗をしたことに青ざめたが、口に出してしまったことはしょうがない。
(生贄がいらないだと……一人では足りないってことか? またはカルル個人が気に入らないのか……若すぎるのが原因? たしかに肉付きは良くないが、言い伝えによればドラゴンは王族の息子を生贄に求めたはずだ……血筋は問題ないはず……性別も……)
ザムは必死に頭を回転させる。生贄、ドラゴン、おとぎ話。様々な単語が思い浮かぶ。
ドラゴンに生贄を捧げなければいけないということは、ずっと伝え続けられていた。しかしそれとは別のドラゴンのおとぎ話などもいくつかあった。また、ドラゴン以外の魔獣の話も数多く存在している。
(そういえば、おとぎ話の魔獣はよく若い娘を要求する。しかし魔獣は盗賊やゴロツキたちのことで、過去にあった恐ろしい事件とその教訓を後世に伝えるためおとぎ話にしたものだ。実際にはそんな魔獣はいない。目の前のドラゴンはメスだ。人間の娘を求めるわけが……まさか! だからこそ同性の生贄をっ!)
幼いころ母親に聞かされたおとぎ話をザムは思い出す。それは一人の狂った魔女。永遠の若さを求めるために、何人もの若い娘の生き血を啜ったという。
「ドラゴン様……では、どういった生贄をお求めなのでしょうか? それを教えていただきたければ、即急に用意いたします」
『はへっ? いやあ、そうじゃなくてぇ……』
「人数が問題でしょうか?」
『だからぁ……』
顔色を青くしたり赤くしたりのザムと、あたふたと要領を得ない言葉を言うドラゴン。そんな二人を気にする余裕はカルルには無かった。その顔色は青を通りすぎて白くなっている。
(なんていうことだ……っ!)
手は震えるほどに握り締められ、噛みしめた唇は今にも破れて血が出そうに見えた。
(やはりドラゴンを欺くことなんてできなかった!)
カルルは額を地面につけて叫ぶ。
「申し訳ありませんでした、ドラゴン様!」
言い合っていたザムとドラゴンは動きを止め、カルルへと顔を向ける。
「お気づきの通り、私は生贄に相応しい者ではありません! ですが、ですが! 私の血筋は正真正銘王族に連なる者です! どうか私の命をお納めくださいっ!」
血を吐くような決死の咆哮。その迫力に誰も動くことができず、静寂が周囲を包む。
カルルはガバッと勢いよく顔を上げた。大きく見開いた目は血走り、血の気の失せた白い顔は、まるで人間味が無く死人のようだった。
「お願いいたします! 私を生贄に!」
『ウ……ウ、ウガアアアアアアアアアッ!』
ドラゴンは空に向かって吼えた。ビリビリと周囲を振るわせるが、先ほどとは違いこちらに向けられたものではなかったのでザムとカルルは吹き飛ばされることはなかった。しかし咆哮の音量はこれまでより大きく、両手で耳をふさいでも鼓膜が破れるかと思えるほどだった。
『生贄イケニエってなんだよもーぅっ! いらないったらいらないのーっ!』
空へ叫び終えると、ドラゴンはフーフーと息を吐きながら大きく肩を上下させている。
ザムは耳鳴りに顔をしかめながらドラゴンへ話しかけた。
「何がお気に召さなかったのでしょうか……?」
『全部だよ、もー! 生贄なんていらないんだからー!』
「しかし、生贄を求められたのはドラゴン様なのでは?」
『違うってばー。ボクは生贄欲しいなんて言ってないよー!』
何を言っているのか一瞬理解ができず、ザムは呆然となった。
目の前にいる巨大な生物。ザムの五倍はある身長に、その二倍の長さの尻尾。全身は見るからに硬く大きな鱗に覆われ、両手両足には巨大な爪が伸びている。背には巨大な翼を生やし、その口は人など一口にできる大きさで鋭く太い牙が並ぶ。どこからどう見ても言い伝え通りのドラゴンだ。
「そんな……たしかに私たちの国には、この時に生贄として王の子を捧げるようにと言い伝えられています! その約定を反故にするのですか!」
カルルはよりいっそう顔色を白くさせて叫んだ。その悲痛な声に、ドラゴンは視線を彷徨わせながら狼狽する。
『それは、えっと……そうだ! その生贄を捧げるとかいう約束したのいつだったっけ?』
「三百年前です」
『じゃあ生贄を欲しいって言ったドラゴンはボクじゃないよ』
「そんな馬鹿な! 貴方様はドラゴンではありませんか! 他の誰が生贄を要求したというのですか!」
『そりゃあ、他のドラゴンの誰かじゃないかなあ? ボクじゃないし』
「はっ?」
何度目かわからないが、またもザムは口をぽかんと開けて呆然となる。カルルも同様だ。
二人は幼少のころから、何度もドラゴンの恐ろしさについて教えられた。突如響いた咆哮は、国に住むすべての人間に聞こえたと言われる。そして山を消し飛ばし地面を裂いた。その証拠は深々と刻まれていて、最初にその裂けた大地を見た幼いころのカルルは、その夜にドラゴンに襲われる悪夢を見て粗相をしてしまった。ザムも悪夢を見ることは無かったが、間近で見たときは膝が震えるほどの恐怖を感じた。
それほどの強大な力を持つドラゴンが、まさか何匹もいるなど、二人にとって想像の埒外であった。
ザムはあの時と同じかそれ以上の恐怖に震えそうな体を精神力で押さえつけ、カラカラに乾いたのどから掠れきった声を絞り出す。
「……で、では……三百年前に生贄を求めたドラゴン様は、いったいどこにいらっしゃられるのでしょうか……」
『知らないよそんなの』
ドラゴンが拗ねた子供のような口調で放った言葉に、ザムはついに耐え切れず顔を手で覆った。急にめまいと頭痛が彼を襲う。
(嘘だろ……生贄を捧げる相手がいないってどういうことだ。しかもドラゴンが複数いるなんて! まさか、言い伝えの内容自体が間違っているなんてことは……ありえるっ! あのクソ貴族どもが隠蔽、または改変した可能性も……くそっ、想像したくもない)
混乱の極致に陥るザム。カルルもあまりの事に思考を放棄して、跪きながら空ろな目をただ地面へ向けていた。
(うーん。三百年前かー)
ドラゴンはこの場所についての記憶を探る。
(たしかー、ここが開発地域になったのは二百年前ぐらいだったような……それより前となると全然わかんないや)
ドラゴンは一応この地域についての知識はあった。ちゃんと講師から教えられたのだが、残念なことに彼女は勉強が大の苦手だった。なのでいくら記憶を掘り返しても、たいした情報は出てこなかった。
(こんなのはいつも秘書が調べてくれてたし……)
『そうだ!』
ドラゴンは吼えた。ザムとカルルはそれで正気に返る。
『こんなメンドクサイこと、全部秘書にやらせればいいんだ!』
ドラゴンは目を弓なりにして、満面の笑みを浮かべた。
『そうだよ、そうだよ。何でボクがこんなに悩まなくちゃいけないのさー。三百年前のことなんてボクは関係ないもんねー』
突然上機嫌になったドラゴンを見上げながら、ザムトカルルは目を白黒させることしかできない。しかしドラゴンが二人へ目を向けると、全身が震えた。
『と、いうことで、街に行こう』
そう言われても何のことかわからず、ザムたちはただ立ち尽くす。
『それじゃあ早速……』
ドラゴンの動きが止まる。
(ちょっと待ったー。このまま帰ると絶対お説教されるなあ……)
ドラゴンは器用に腕を組むと、目を閉じて首を傾けながら苦悩する。
(ただでさえ逃げたのに、こんなやっかいな事持って帰ったら……)
背筋に走った寒気に、ドラゴンはぶるりと身じろぎする。
(このままサボリたい。けど、それやったら激怒するし、もしかしたら上のほうにまで報告いくかもしれないし……)
ドラゴンは重いうめき声を漏らし、牙が擦れ合って耳障りな音を立てる。そのあまりの恐ろしさに、ザムとカルルは顔が青くなった。
『よーし、決めた!』
ドラゴンの体が光り輝き、それがおさまると少女の姿に変化していた。ドラゴン少女はニッコリと二人に笑いかけた。
「それじゃ、ゆっくり行こうー」
「はぁ……どこにですか?」
「街だよ街。トライグルって所」
「そこに行ってどうするのですか?」
「んー? とりあえず秘書に話して、そうすればなんとかなるよ。たぶん」
ドラゴン少女は満面の笑顔を浮かべるが、ザムの心は重い暗雲によって覆われていた。
「……そう、ですか……」
「うん。よろしくー」
「よろしく、とは……?」
「え、ボクたちみんなで行くんだよ」
ザムはもう感覚が麻痺してしまい、驚くことも無く死んだ魚のような目でドラゴン少女を見る。
「……それは、ドラゴン様と、私たち二人が一緒にその街まで行くということですか……?」
「そうだよー」
ついにカルルは意識を手放し、地面へと倒れこんだ。ザムは気絶することもできず、ただ乾いた笑いを微かに漏らし続けるだけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます