ドラゴンに生贄を
山本アヒコ
1
青年は馬車の御者台に座りながら、ぼうっと前を見ている。見えるのは、岩と土しかない道。
道幅は広いが大小の岩が転がっていて危ない。舗装もされていないので尻の下から伝わる振動は激しく、たまに身体が衝撃で跳ね上がるほどだ。
空を見上げる。太陽は頂点に近い。よく晴れた青空の両端に見えるものがある。それは高い高い岩の壁。この道は巨大な岩山を裂いて続いていた。
もう一度前を見る。その先は岩の壁に阻まれていた。だがそう見えるだけで、実際は先に進める。道は複雑に折れ曲がっていて、その角度が急なために行き止まりのように見えていた。
「……はあ」
青年が思わずため息をつくと後ろで物音がした。
「どうしましたか?」
青年を気遣う声に唇を小さく歪める。
「なんでもありません……はあ、なんでこうなった……」
馬の蹄が地面を叩く音と、馬車の車輪が軋む音。ゆっくりとしたテンポで聞こえる音は牧歌的なようだが、男たちの雰囲気からすると、まるでこれから処刑場へ向かう者たちへの鎮魂歌だ。
実際、彼らにとってこの旅は処刑場へ行くようなものだった。そのため一様に顔は青く、緊張と恐怖による寝不足で目は血走っていた。
だが一人だけ例外の男がいた。どこか眠たげな目はこれまでの苦労を表しているかのように、疲労と倦怠感を感じさせた。しかし体全体はリラックスしていて、他の男たちとは違い周囲を観察する余裕がある。
「……しかし、殺風景だなあ」
彼らが進んでいるのは荒野。道らしきものはあるが適当に土が踏み固められただけで、石は転がっているし凹凸が激しい。
大きな音がした。馬車の車輪がくぼみへ落ちたのだ。馬車を引く馬を鞭で叩くが、それでもくぼみから抜け出せない。
「ええい、何度目だ! お前たち、はやく馬車を押せっ!」
ヒステリックに身なりの良い中年男性が叫ぶ。周囲の男たちは馬から下りると、馬車を後ろから押す。青年もそれを手伝う。
「せーの!」
掛け声に合わせて何度か押すと、馬車はくぼみから抜け出せた。
「ぐずぐずするな、早く馬に乗れ! いくぞ!」
唾を飛ばしながら怒鳴る男に辟易しながら、青年は馬の背にひらりと飛び乗る。
「ったく、やってられねえよなあ」
そうだろ相棒、と声をかけながら馬の頭をなでる。同意するように馬が小さく鳴いた。
「なにをしている!」
動き始めた集団から遅れてしまっていた。申し訳ありませんとおざなりに謝罪して、手綱を持ち軽く馬の腹を蹴る。青年をなぐさめるかの様に、馬は小さく鳴いた。
青年が所属している集団は、一つの馬車と十一の馬で構成されている。馬には一人ずつ人が騎乗していて、馬車の周囲を守るように配置されていた。青年の位置は馬車の左側。
馬車は木製で大きい。馬車は高貴な身分の人間たちの乗り物なので、見栄え良くするために形や装飾にこだわるものだ。しかしこの馬車はそんなものとは無縁で、ひたすらに頑丈で無骨だった。なにしろこの馬車は、犯罪者や捕虜を移送するための物なのだから。小さな窓には木製の格子まではめ込まれていた。
青年は横目で馬車を見る。窓からは中の様子が見えない。顔でも出さないかと思ったが、そんな気配は無い。
周囲の男たちの雰囲気が変わった。何事かと前を見ると、遠くに巨大な壁が見えた。天を貫く高さのそれは、壁ではなく巨大な岩山だ。岩山は単体で存在するのではなく、山脈として左右見える限りに広がっていた。
それこそが国の周囲を囲み、頑強さと過酷さで人を阻む、死すら通れぬ場所と呼ばれるもの。彼らの目的地は、さらにこれを抜けた先にある。
恐怖があっという間に全体を支配した。ある者は神に祈り始め、ある者は死人のような顔色へ変わる。進む速度が急激に下がり、ついには停止してしまった。
誰も喋らない。恐怖に顔を強張らせたまま、ただ巨大な山脈を見つめるだけだ。
そんな中、青年だけは平然とした顔をしていたが、停止してすでに小一時間が経過しようとしていたので口を開こうとすると、艶やかな声が聞こえた。
「どうしましたか?」
それはまだ子供の声だった。その落ち着いた声音と言葉使いは、高貴な身分を感じさせる。
その声で我に返ったのか、周囲がざわめく。
「な、何でもない。行くぞ!」
身なりの良い男は強がった様子で叫ぶ。再び男たちは進み始めた。
夕方近くになり、山脈の麓に到着した。間近でみる岩山の威容はとんでもなかった。首が痛くなるほどの高さ。草木は無く、まさに死の風景。時おり吹く風の音は、まるで死神の声。
そして目の前には、遠くから見たときは見えなかったものがある。それは巨大な壁を裂いて走る、一本の道。道幅は広く百メートルほどはあるのではないだろうか。しかし大小の岩が多数転がっていて、進める場所は少ない。
男たちの目的地はこの先にある。しかし誰もが恐怖で足が竦み動けない。そんな雰囲気を感じてか、馬たちも落ちつかなそうに首をめぐらせている。
「……あー、とりあえずここで野営しましょうか」
たまりかねて青年がそう言うと、ぎょっとしたように身なりの良い男がこちらを見る。
「や、野営だと」
「はい、小戦士長。もうすぐ日が落ちますし、このまま進むのは危険かと思います」
彼らがこの場所へ来るのは初めてだ。それどころかこの国に住む人間たちのなかで、ここへ来た初めての者たちが彼らかもしれないのだ。そんなどこに何があるのかわからない場所で夜を過ごすなど、誰だってやりたくは無いだろう。
「ここまでは危険な魔獣と出会っていませんが、この先はどうかわかりませんし」
男たちの顔が一斉に強張る。魔獣というのは通称で、言ってみれば危険な野性の獣のことだ。馬や山羊といったおとなしい獣は動物と呼び、熊や狼といった危険な獣を魔獣と呼んでいる。しかし、たまにそれを獣と呼んでいいものか迷うような、醜くおぞましいものも出る。それを含めて魔獣ということになっていた。
ここは死すら通れぬ場所。神話や作り話にしか出てこないような魔獣が出ることもありえる。なにしろ彼らは、この先にいるドラゴンへ会いにいかなければならないのだ。魔獣がいないことのほうがおかしいと思える。
「とりあえずテントを立てて、水場を探したほうが……」
「だめだ……」
「え?」
「ここで野営はしない。私は帰る」
小戦士長の爆弾発言に、周囲が騒がしくなる。
「ちょっと待ってください! これをドラゴンの元へ持っていかないと滅ぼされてしまいます!」
「そうです! 三百年前の悲劇がまた起こってしまいます!」
「ええい、うるさいっ!」
小戦士長へ考えを改めるように誰もが大声を出すが、彼は金切り声をあげて周囲を黙らせた。
「そもそもなぜ私が行かなければならないのだ! ドラゴンの元へ生贄を運ぶなど、死ねと言っているようなものだ!」
それはこの命令を受けた時点でここにいる誰もが思っていることだった。
三百年前、この国の王の愚行がドラゴンの逆鱗に触れ、一度滅びかけた。そのときドラゴンが人間たちの命と引き換えに要求したのが、人の生贄だった。
三百年後に生贄を一人。ドラゴンの寿命は数千年とも不老不死とも言われるからか、その壮大な猶予時間とたった一人だけの犠牲に、当時の王は歓喜の涙とともにそれを受け入れたのだった。
そして、それから三百年後が今。彼らはドラゴンの元へ生贄を運んでいる。
ドラゴンは凶暴で強い。この国を一匹で滅ぼせるほどに。そんなドラゴンに会いに行くなど、正気の沙汰ではない。生贄は一人だけでいいはずだが、自分の命の保障などないのだ。かつての王のようにドラゴンの不興を買えば、簡単に命のともし火は消し飛んでしまう。
小戦士長はこの道の先に、そんなドラゴンの姿を幻視していた。山よりも大きい体、人を丸呑みできる巨大な口、そして山を消し飛ばすドラゴンのブレス。その強大な力に、貧弱な人間はあまりにも無力だ。
「死んでたまるか! 私は帰る!」
そう叫ぶと突然馬の向きを変え、全速力でもと来た道を戻り始めた。呆然とする一同。そして大混乱に陥る。
「どうすればいいんだ!」
「生贄は持っていかなければ。しかし……」
「俺だって死にたくねえよ!」
この部隊の指揮官は逃げていった小戦士長のみだ。ほかの人間は全てただの最下級兵士。誰も指示することができない。
もしこのまま生贄を放り出して逃げたなら、任務放棄として処刑されるだろう。しかし、ドラゴンと会えばほとんど死んだも同然だ。行くも戻るも死の影に覆われ、どうすることもできずにただ混乱が加速する。
「あー、ちょっといいすかー」
阿鼻叫喚の中であがる間延びした声。場違いな声は誰なのかというと、あの青年だ。眠たげな目に諦観の色をたたえながら片手を挙げている。
「逃げちゃいましたけど、いちおうあの人が指揮官ですし、追いかけたほうがいいんじゃないかなー、と」
「し、しかしだな、生贄はどうする」
「それなら俺が連れていきますよ」
「一人でか!」
「ええ、まあ。任務ですし、行かないとまずいでしょ」
そう言って茶化すように肩をすくめる。自分の命がかかっているとは思えない、気の抜けた様子だ。
「だが、護衛が……」
「ゆっくり行きますよ。その間に小戦士長を連れてきてください」
「あ、ああ……」
前人未到の場所にたった一人の護衛で向かうなどありえない。しかも運ぶのが国の運命を司るものだというのに。しかし誰もが自分の命が惜しく、伝説の生物であるドラゴンの恐怖に負けた。そして、ありえないはずの青年の提案を受け入れた。
青年が乗っていた馬は馬車を運転していた男が使う。そして青年は馬車の御者台へ座る。
「本当に一人で行くのか?」
「大丈夫ですよ。それより早く行ってください。日が落ちる前に小戦士長に追いつけませんよ」
残る青年を気にしているようだったが、一旦走りはじめると誰も振り返らず、その姿はあっという間に見えなくなってしまった。
「……きっと戻ってこないだろうなー」
悲壮感など全く感じさせない声で言った。
「まあ、俺でも戻ってこないだろうし、ね」
ため息を一度つく。
「何があったんですか?」
馬車の中から発せられた声に青年は振り向く。
「ちょっとトラブルがありまして。これからあなたの護衛は俺一人になります」
「えっ、一人ですか?」
「大丈夫です。なんとかなります」
無責任に言い放つ青年。馬車の中の人間も呆れたようだ。
「なんとかって、まあ、いいですけど。どうせ私は失われる命ですから」
「はい。それまでは守ります。命はかけない程度に」
その言葉に一瞬絶句したあと、クスクスと笑い声が馬車から聞こえた。
「面白い人ですね。あなたのお名前は?」
「ザムです。氏族名はありませんので」
「ザムですか。短い間ですが、よろしくお願いします」
「はいはい。承りましたー。ところで馬車の中に荷物を入れたいんですけど、よろしいですかー?」
「いいですよ」
「じゃあカギを開けますので、逃げたりしないでくださいねー」
馬車の扉に付けられた頑丈な鍵を外す。ゆっくりと扉を開けると、暗い馬車の中を光が走る。
馬車の中は広い。もともと何十人と言う犯罪者や捕虜を移送すためのものだからだ。そんな用途のものにしては、かなり中は綺麗だった。いくつかの木箱や樽と壷が置いてある。さらには簡素ながら清潔な毛布が乗ったベッドまで。それでもまだスペースに余裕があった。
「はじめまして、ザム」
その人物はベッドの傍らにある椅子に、優雅に腰掛けていた。
体は小さい。何しろまだ十四歳なのだ。髪の毛はザムと同じ金色で短い。しかしロクに手入れされていないボサボサのザムとは違い、滑らかで光を反射して美しく輝いている。肌も日焼けしておらず綺麗な白色で、ソバカスがあるザムからすれば羨ましい。
服はすその長い貫頭衣を色とりどりの腰紐で絞っている。袖やすそに飾り縫いがある。これは庶民の服ではありえない。またすその長さは身分によって決められていて、長いほど身分が高い。その長さは足首まである。これは王族にしか認められていないものだった。
「はじめまして、というわけじゃないですけど。ええと……お名前は?」
「私の名前はカルル・ウズ。カルルと呼んでくれ。氏族名はもう意味が無いしね……」
氏族名とは貴族にのみ与えられるものだ。氏族名を持つ者の名前を呼ぶときは、必ず氏族名も含めるのがマナーだった。氏族名を省略するとうことは、その氏族を侮辱する行為となる。うっかりでもやってしまうとその場で乱闘、しまいには戦争にまで発展してしまうほどだ。
だが、そんなことは全く気にしない様子でザムは頷いた。
「わかりました、カルル様」
「様もいいよ」
「わかりました、カルル」
「敬語もいいよ」
「はいはい、わかったよカルル」
ぞんざいにザムが答えると、カルルは吹き出してしまい、手で口を押さえながら肩を震わせて笑う。
「どうしたんだ、何がおもしろかった?」
「ふふっ、君は私のこと王族だって知ってる?」
「もちろん知ってるよ」
「知っていてその態度なんだ」
カルルは嬉しそうに小さく笑う。
「それでだ、荷物を馬車の中に入れたいんだけど」
「そうだったね。荷物って何?」
「水と食料とテントと鍋と……あと、色々だ」
水は一樽、食料はずた袋一つ、その他もろもろを運び込んだがまだスペースには余裕があった。
「俺が寝れるスペースは十分あるな」
「えっ、ザムはここで寝るの?」
「そうだよ。テント張って地面で寝るより、ここで寝るほうが快適だし体力の消耗が少ないからな」
「あの、私もここで寝るんだけど」
「ん? 今さら俺みたいな身分の低いやつとは一緒に寝れないとか言うのか?」
「い、一緒に寝るって!」
カルルは真っ赤な顔になって叫ぶ。
「ベッドはカルルが使えばいいぞ。俺は床に寝るから」
「そうなんだ。それなら……って、そういうことじゃなくて!」
「何だ、嫌なら外にテント張るけど。ただ、もう何日もテント暮らしなんだよなあ……地面は硬いし冷たいし、雨が降ってくると冷たいんだよなあ……」
ザムがわざとらしく恨めしそうに言うと、カルルは大きなため息をついて苦笑する。
「しょうがないなあ。いいよ、馬車を使っていいから」
「そうか。じゃあ夕飯の準備するよ」
カルルはそう言って、鍋と食料や薪を持って馬車の外へさっと出て行った。それに一瞬目を見開いたあと、苦笑とは違う心からの笑顔を浮かべた。
「ああ、本当に面白いな、ザムは。こんなに笑ったのは久しぶりだ……」
夕食を食べた後はすぐに就寝した。カルルは話をしようとしたのだが、ザムがそれを拒否したのだ。
「明日は日の出とともに出発します。山を抜けるのにどれだけかかるがわかりませんが、早く出発すればその分距離が稼げますし、もしかしたら一日で目的地に到着できるかもしれません」
「でも、ドラゴンの里ってどこにあるのかわからないのだよね?」
「そうだけど、進めば近づくし、いつかたどり着けるものだよ」
そう言うとザムは毛皮に包まって床に寝転んだ。それでもカルルは何度か話しかけたが、静かな寝息が聞こえたので諦めた。
「もう。せっかく話せると思ったのに。私だって何日もこの中に閉じ込められて、誰とも話せないままだったのに!」
そう拗ねて頬を膨らませる様子は、実際の年齢よりも幼く見えて非常に可愛いらしかった。
布団をかぶるとザムに背を向けてベッドへ横になる。しばらくブツブツと恨み言をつぶやいていたが、やがて寝息に変わった。こうして不真面目な護衛と生贄、二人だけの夜は終わるのだった。
「ううん……」
カルルは床から伝わる振動で目を覚ました。
「なんで……」
カッポカッポと馬の蹄がたてる音と、馬車の車輪が軋む音が聞こえる。そしてこの振動から、馬車が今移動している事を理解する。
「よお。目が覚めたか」
声が聞こえた方向を見る。それは馬車の進行方向にある小さな窓。その向こうは御者台になっていて、馬車を操作しているザムがこちらをのぞいていた。
「どうして移動しているのかな?」
「もう日の出から二時間ほどだよ。起こそうとしたんだけどな、カルルが全然起きなくてさ。鼻に指を突っ込んでも起きないんだから、大したもんさ」
「なっ! そんなこと本当にやったのか!」
「さあね。それより朝飯を食べたほうがいいよ」
「うるさいバカ!」
思わずカルルは枕を投げつける。しかしザムとの間には頑丈な壁があり、枕は軽い音をたてて壁にぶつかっただけだ。ザムは小さいが愉快そうに笑った。
「何を笑っているんだ。そもそも人の寝顔を見るなど……」
そこでカルルは気付いた。昨日は体を拭いていないし、下着を交換していないことに。
カルルは王族、つまりは高貴な身分だ。そういう者たちは身なりに気を使う。カルルもそうで水浴びができなくとも、毎日水で湿らせた布で全身を拭い下着も交換していた。この旅が過酷でありそういった行為が贅沢であるのは知っていたが、それでもこれだけは譲れないものだった。それを昨日はあんなことがあったとは言え、完全に忘れていたのは失態だった。しかもその姿を他人に見られた。もしかしたらじっくりと観察され、さらには臭いまで。そこまで考えが及ぶと、カルルの顔色は羞恥の赤色から血の引いた青色へ変化した。
「ち……」
「何だ? ち……?」
「チカーン! 変態! バカ! なんてことをしてくれたんだ!」
「うるせえな、急に怒鳴るな。耳が痛くなったらどうする」
「なんだその言い方は! そもそも一緒の場所に寝るのがおかしいし、寝顔を見たうえに鼻に指を! 鼻に……指を……?」
「よし、落ち着いたか」
「おいバカ何が落ちついたか、だ! 鼻に指を入れたってことは、私の鼻水にお前の指が触れたってことだろ! なにやってるんだ変態!」
「いやまて。そんな鼻水に興奮する高度な性癖は無いぞ。それに鼻水なんか指につかなかったし、どっちかっていうとヨダレのほうが……」
「にゃんだとーっ! 私がヨダレを垂らしながら寝ている顔を見たというか!」
「うん。かなり大量だったからな、仕方なく拭いてやったよ」
「鼻水だけでなくヨダレまでっ! ゆるさん!」
「いやだから、そんな性癖は無いって……そもそもカルルは男……」
「ウギー!」
「聞いてないし……」
馬車の中でカルルが暴れる音に大きなため息をつくザム。
「いやあ、これは……失敗したかねえ……」
背後から暴言を吐いて暴れるカルルをなだめすかしながら数時間。昼ごろになってやっとカルルはおとなしくなった。
「……落ち着いたか?」
「フン」
「ここらで一度休憩しようと思うんだけど」
「……」
「暖かい食事ができるぞ」
持っている食料は、ほとんどが硬く焼いたパンや木の実の塩漬けといった保存食だ。途中で狩った獣の肉はあるが少ないうえに保存ができない。腐る前に消費したいのだが、生で食えるはずが無いので料理しなけれならなかった。
「……食べたい」
「よし。すぐ準備するからな」
火にかけた鍋のなかに生肉と塩漬け肉を入れて煮る。煮立つ鍋を二人は岩に腰掛けながら眺めていた。
「この鍋は豪華だぞ。なにしろ肉が多い。もうそろそろ保存が限界だから、生肉は全部使ったし」
「肉しかないとも言えるね。味付けも塩だけだし」
「さすがに王族は違うね。塩があるなんて俺たちにとっては夢のようさ」
「そうなの?」
「下級氏族は塩なんて簡単に手に入らない。料理に使えるのはほんの少し。味なんてほとんどしないよ」
「じゃあ、料理はどうしてるの?」
「ただ焼くか煮るか。たまに香草が手に入るからそれを使うかだな」
「砂糖はないの?」
「砂糖なんて貴族しか買えない。それどころか砂糖のことを知らないやつのほうが多いんじゃないか?」
「えっ! 砂糖の原料の植物は国民が育ててるはずだよね?」
「たしかにそうだけど、育ててるやつらはそれが何の原料かなんて知らないよ。砂糖を食べたことが無いし見たことも無い。そいつらは育てた植物を刈り取って売るだけだし、砂糖を作るのは他の場所だからね」
「そうなんだ、全然知らなかった……」
カルルはあまりのカルチャーショックに絶句する。
「ふふっ、面白い王族だな」
「面白いって、私がか?」
「うん。王族はその名前の通り王の血を引く人間だ。貴族よりも高い身分のはずなのに、下級氏族のことが気になるなんて」
「たしかに、よく変わってるて言われたよ」
「変わってるどころじゃないな。俺がこんな無礼な態度とっても怒らないし」
「君だって大概変だよ。普通の人は王族を前にしたら、たぶん震え上がるんじゃあないかなあ?」
「俺もまあ、それなりに変わった境遇の持ち主でね」
ザムは肩をすくめる。カルルの目が好奇心に輝く。
「それってどういうものなの?」
「あんまり言いたくないことだよ」
「私を相手にそういう態度ができるってことは、貴族関係?」
「まあね。しかし、それならカルルこそ思うところがるんじゃないか? 王族だっていうのに、今じゃドラゴンの生贄だし」
「……私はもともと末っ子で、たしかに王族だけどその重圧や義務感とは縁が無かったからね。それに王族という肩書きも、もう意味が無くなってしまった……」
その時、何かに導かれるかのようにザムは顔を上げた。見えるのは青空。頂点から下がろうとしている太陽の光に隠れて何かが見えた。
「鳥?」
それはだんだんこちらへ近づいてくる。大きな翼を羽ばたかせて空を飛ぶ姿は鳥に似ていた。しかし近づくにつれて細部が確認できるようになると、それが鳥ではないことがわかる。
まず尾が長い。先端に行くにつれて細くなっていく尾は、体長の二倍近くあるのではないだろうか。宙をうねる様子は、まるで蛇が踊っているかのようだ。
次に鳥には無い二本の腕がある。爪はするどく尖っていて、それが敵を攻撃するための武器であることが簡単に理解できる。それほどの迫力を感じさせた。
そして、羽毛が無い。全身を覆うのは、太陽の光を浴びて輝く赤みがかった鱗。体のところどころで棘状になっている鱗は、見るからに頑丈そうで傷一つつけることなどできそうにない。
「ああああああ、そんな……」
「おいおい……まさか、向こうからやってくるなんて、な……」
二人の頭上を覆う影。それはあまりも巨大で、恐ろしく、そして雄大だった。
大きな翼を羽ばたかせるたびに強い風が吹く。それに髪を乱され、盛大に砂埃を浴びせられても、ただ呆然と見上げることしかできなかった。
長い首の先にあるのは、太い角を生やした頭。鼻面は長く、その巨大な口に並ぶのは恐ろしいほど鋭い牙。トカゲに似たその頭部、しかしそこにある二つの瞳は獣とは違う深い知性を宿していた。
「……ドラゴン」
かつてその息で山を消滅させ、爪の一振りで地を裂いた伝説の魔獣。そのドラゴンが今、二人の目の前に存在していた。
グルルと低くうなりながら、ドラゴンは二人を観察する。あまりのプレッシャーに身動きすることができない。
パチパチと何度かその大きな瞳を瞬かせると、ドラゴンは口を開く。
『あれえー? なんでこんな所に人間がいるのーぅ?』
ドラゴンは威厳も何も無い、間延びした子供のような口調でそう言った。
「「……ええー?」」
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