第7話
その日、トキが音楽室に部活の準備に行くと、運悪く不良の上級生二人に捕まってしまった。いや、もしかしたら彼らはトキを待ち構えていたのかもしれない。だがトキにとってはどちらでも同じことだった。
「離して!やめて下さい!」
トキの両腕は、二人の人間によってしっかりと抱えられてしまった。小柄なトキがいくら暴れて叫んでも、つかまれた手に痛い程の力が加わるだけだ。
二人の不良は薄く笑いながら、音楽準備室の扉を開けた。
最初はちょっと怖がらせてからかうだけのつもりだった。
だが二人は、トキの尋常ではない怖がり方に嗜虐心を刺激され、優越感を感じていた。
だがトキが恐怖を感じている本当の理由は、この不良によるものではなかった。準備室からにじんでくる、背筋をアリが這い登る様な悪寒。
それと同じものを、二人もうすうす感じているのだろう。
しかし、トキほど感覚の鋭くない二人はその悪寒を理解ができずに、自分たちのちょっとしたイタズラのスパイス程度にしか思っていなかった。
「離して下さい!僕に近付くな!」
トキは得体の知れない恐怖に突き動かされ、身を守るためにその能力で一人を突きとばした。
自分達よりはるかに弱いはずの羊の、突然の反抗に緊張の糸を切られ、不良の二人は激昂した。
トキを二人がかりで準備室に連れ込むと内側から鍵を閉める。
薄暗く、空気のよどんだ小さな部屋。
「嫌だ、イヤだ、ここには居たくない!」
ふくれあがる恐怖感から、半狂乱になりながらトキが逃げようとするが、不良二人が横から押さえ込む。
小さな部屋に、不機嫌そうな声が響く。
煩い。
五月蝿い。
うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい。
不良の二人は、それが自分の口から出ている言葉だとずっと思っていた。
逃げようと暴れるトキの力は以外に強く、黙らせようとしているその声にさえ苛立って、彼らは大きな叫びをあげた。
「うるせぇ!」
不意に、すべての音が止まった。
三人とも、突然できた音の空白に戸惑い、何が起こったのか顔を見合わせた。薄氷の上に立ったような緊張感が、彼らを動けなくする。
トキは入口を向いて、不良の二人はその逆、部屋の奥を向いて固まっている。
何分、それとも何秒だったのか、鉛のような時間が過ぎた。
トキは静寂のおかげで、かなり落ち着きをとりもどしてきていた。しかし、余裕を持てたせいで無関係な事が頭に浮かぶ。
まるで自分達は蝋人形のようだとトキは思った。そして、その蝋人形をつかもうと何者かが手をのばしてくる。その手は、年齢によってではなく、外的な力によって皺がついている。
そんな光景がトキには視えた。
皺のよった手が、生命を感じさせない手が、トキの背後から近付く。トキは、空気が固まり、耳が詰まったような気がした。
外からは何も聞こえず、ただ自分の心臓の脈打つ音と耳鳴りしか聞こえない。
背後で、乾いた紙が開くような音が、それだけが幽かに響き、皺のよった手が……。
その直後、ブラスバンド部の部員が忘れ物を取りにこなかったなら、トキは助からなかったかもしれない。
準備室の扉が開いた瞬間に、あの気配はどこかへ消えてしまった。
だが、トキとは反対に部屋の奥を向いていた不良の二人は、真正面からその何かを見たようだ。
今朝になって、不良の二人は血の気の引いた顔でトキに詰め寄ってきた。
半分は意味の通じない脅迫だったが、彼らが何かに追い詰められていることは何となくわかった。
そしてトキは今、ふたたび、準備室の扉の前に立っている。今度は自分の意思で、一人で、音楽準備室の扉に手をかけた。
キスイが音楽室のドアノブを掴むと、急に表情を変えた。
イヅルが視線でどうかしたかを聞くと、キスイはドアノブを掴んだままドアの向こうをにらんだ。
「振動だ、誰か叩いてる」
キスイが目線を送るとイヅルはポケットから小さな丸い緑の珠を取り出した。
「開けた瞬間に飛び出してくるってのはないよな」
「なら、刑事ドラマみたいにやってみようか。キスイが突入して、ボクがバックアップする」
「わかった。それで行こう」
うなずき、イヅルが小さく唱え始めたのを確認して、キスイはドアノブを回した。
体ごとドアを押し込み、一気にドアをあける。
同時に中から飛び出してきた何かが、キスイの横をすり抜けようとした。
「オン!」
イヅルのするどい声とともに珠が飛び、音楽室から出てきた何かに命中した。
「アミタリティ…」
「待て待てイヅル」
キスイがイヅルを遮った。
二人の目の前には、額に珠を受けたまま、呆然としているトキがいた。
「大丈夫か?おーい」
立ったままピクリとも動かなくなったトキの頬をキスイはペチペチ叩く。
「あ、えっと、いったい何が……。まさか!」
「悪い。まさかキミがいるとは思ってなくて……」
「ごめんなさいごめんなさい助けて下さい許して下さい僕はそんなつもりじゃなかっ……」
突然早口で話し始めたトキの頭に、ポン、と手をのせる。
「ちょっと黙れ」
トキが黙ったので、キスイは手を離す。
「ごめんなさいもうしませんごめんなさ」
トキの頭に手をのせ、離す。
「ごめ」
手をのせる、離す。
「もうしませんか」
手をのせ、離、そうとしたキスイの手をイヅルが止めた。
「もういいから。それよりも……」
「悪い、ついな。えっと、オガタトキ君だったな。君はここで何をしてるんだ?」
「…」
「…」
「キスイ、手」
イヅルに言われて、手をトキの頭から離す。
「ごめんなさい!あの、僕はその、あの」
キスイはまた手を伸ばし、今度は左肩に置いた。
トキは身をすくませて、恐る恐るキスイを見上げる。
「大丈夫だ。後は俺らがやるから」
「ち、違うんです。僕は、僕だけ助かってしまったから。あの人達はあんなに怖い目に遭ったのに」
「あいつらは自業自得だ。君はただ」
「違います。僕は何もやってませ」
今度はイヅルが、横からトキの頭に手を置いた。
「君も来るかい」
ためらいも、抑揚もなく、イヅルは言った。
トキは目の前の三年生二人を見比べ、小刻みに二回うなずいた。
「じゃあ入って」
トキをクルッと半回転させ、イヅルは音楽室へ入っていった。
「……あっさり決めすぎだ。少しは俺にも相談しろっての」
―――
音楽室は芸術棟の三階、突き当たりにある長方形の部屋だ。入口から入ってすぐ右に窓があり、教壇を挟んで入口と反対の位置に、準備室への扉があった。
「あそこが、その部屋だね」
「はい。でも開けない方が……」
「それはどうしてだい?」
「いえ、その……、すみません変なこと言って」
うつむくトキに、イヅルが何かを差し出した。
「これ、持ってて」
そう言って手渡されたのは、ヒスイ色の小さな珠だった。
「お守りだから。しっかり持っててね」
「あ…ありがとうございます」
キスイは、そんな二人の横を抜けて準備室のドアノブを握った。
「あ!あのっ!」
「ん?」
「入ってすぐに、誰かいます」
キスイはイヅルの顔を見る。イヅルはあいまいな微笑みで、わずかに首をかしげた。
「実体は、はっきりしてるか?それともぼやけて見える?」
「ちょっと……わかりません」
自信なさげなトキを見て、キスイは少し考えてから聞いた。
「オマエは自分の能力を自覚してるか?」
「ぼ、僕ですか?」
トキは自分の手や体をあわてて見回す。それから泣きそうな顔で、キスイを見上げた。
「もってません、ごめんなさい」
キスイは首を振る。
「トキ、お前はもうイジメをはねのけられる力を持っているんだ。暴力から自分の身を守れる力を手に入れたんだよ」
「で、でも。僕は、そんな力なんて持ってませんよ」
「そんなことはないさ。上を見てみろよ」
キスイが指差した先を目で追うように顔を上げると、トキの頭上には、緑色のビー玉のようなものがたくさんあった。
イヅルが先ほどトキに渡したものと同じ珠だ。
「え??」
重力に引かれて、その珠は下にいるトキに向けて落ちてくる。頭をかばおうと上げた両手を、キスイが途中でおさえつけた。
「よく見て、止めろ!」
キスイの言葉を理解する間もなく、珠がトキの耳や髪をかすめる。
そして一つの珠がトキの額に向けて落ちてきて、皮膚に触れる直前で動きを止めた。
バラバラと音を立てながら、珠が床に落ちてゆく。あれだけたくさんあったのに、トキに直接当たりそうになった珠は一つだけだった。
そして床に落ちた珠は、転がりながらイヅルの足元に集まっていく。
「力を使う為にまず必要な事は、自分の力を認識することだ」
トキの額の上で静止した珠をつまみながら、キスイが言った。
「オマエは、自分の力で自分を守ることができる」
「自分の力で、自分を守る?」
「ああ、ひとりでここまで来れたんだ。勇気もある。だから、できるさ」
「僕が、勇気がある?」
「そうだ。そして戦うのは俺達がやる。だから、自分の身をしっかり守ってやれよ」
「……はい、頑張ってみます」
トキは少し不安そうな顔をしていたが、それでもしっかりうなずいた。
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