[3] ミンスク包囲戦

 6月25日、第2装甲集団はバラノヴィチを占領した。第47装甲軍団(レメルセン大将)はモスクワ街道沿いに南西からミンスクに迫り、第24装甲軍団(シュヴェッペンブルク大将)は進路を東に取ってスルーツクへ向かった。

 この状況を受けたパヴロフは撤退せざるを得なくなり、夜間にスロニムからシュハラ河の東岸への総退却を第3軍・第10軍に命じた。絶え間ないドイツ空軍の空襲を受け、各部隊は燃料と輸送手段を失ってしまったため、徒歩で撤退した。しかし、命令伝達の大半を伝令と有線電話に頼る西部正面軍の指揮系統は依然として寸断されたままだった。ボルディンの独断ですでに東に脱出した部隊は存在したが、退却命令を知らずに拠点を維持してドイツ軍と交戦を続けた部隊も数多くあった。

 6月26日、戦況を悲観したパヴロフはモスクワに次のような電文を送った。

「1000両以上の敵戦車が北西方面よりミンスクを包囲しつつあり。これに適する手段なし」

 さらにパヴロフは包囲されつつあるミンスクから慌てて西部正面軍司令部を東方のボブルイスクに移転させた。この行動が麾下部隊との連絡を悪化させることになる。パヴロフは事態を掌握するために連絡将校をU2小型機で各地に向かわせたが、ドイツ空軍の制空下で全機が撃墜されて派遣した将校は1人も戻ってこなかった。

 ビアリストク突出部では、依然として第3軍と第10軍に所属する13個師団がヴォルコヴィスクからミンスクに至る袋状の突出部を形成して必死の抵抗を続けていたが、燃料や弾薬の補給が途絶えた状況では長期間に渡って戦闘を続けられる見込みはほとんど無かった。このような状況下で、西部正面軍の戦略予備としてミンスク周辺に配置されていた7個軍団は第13軍(フィラトフ中将)として編成された。

 第2装甲集団の進撃を食い止めるべくスルーツクの東で反撃に乗り出した第13軍の第20機械化軍団(ニキティン少将)と第4空挺軍団(ジャドフ少将)だったが、第46装甲軍団(フィーティングホフ中将)によって瞬く間に壊滅されてしまった。辛うじて包囲を免れた第13軍司令官フィラトフ中将は西部正面軍司令部に対して東への全面的な撤退を進言したが、パヴロフがこの提案を拒絶した。フィラトフは独断で第2狙撃軍団(エルマコフ少将)を引き連れて、ベレジナ河の東岸に退却した。

 6月27日、第47装甲軍団の第17装甲師団がミンスク近郊で第39装甲軍団の第20装甲師団と連結した。白ロシアの首都ミンスクは翌28日、第20装甲師団によってほぼ全域が占領された。

 ミンスク西方において巨大な包囲網に閉じ込められた第3軍と第10軍は東と南東に向けて必死の脱出を図り、戦車や火砲などの重装備はほとんど放棄した。指揮系統から完全に外れ、小グループに分かれた西部正面軍の敗残兵たちは「ポレーシェ」と呼ばれる東方の湿地と森林の混合地帯に逃げ込んだ。

 6月28日、第24装甲軍団はボブルイスクとスヴィスロチでベレジナ河に到達した。ボブルイスクでは撤退した西部正面軍の第4軍によって橋が爆破されていたが、そこから北北西に約50キロの位置にあるスヴィスロチでは第4装甲師団がベレジナ河にかかる橋を無傷のままで奪取することに成功した。

 開戦時、62万5000人の兵員を有していた西部正面軍は事実上消滅してしまった。28万7000人が捕虜となった。2585両の戦車、1494門の火砲が捕獲・破壊された。同正面軍に配備されていた1909機の航空機も、その4分の3が破壊された。

 ミンスク包囲戦の勝利により、中央軍集団は侵攻開始から約1週間で「バルバロッサ」作戦の第1段階である「ドニエプル河以西におけるソ連軍の殲滅」をほぼ完全に達成したのである。

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