[4] 攻城

 6月30日、第2装甲集団と第3装甲集団はミンスク西方で、巨大な包囲網を完全に封鎖することを完了した。ドイツ軍はこの最初の包囲戦によって、41万を超えるソ連兵を死傷または捕虜にするという大きな勝利を得た。しかし、この勝利にはいくつかの不安材料が残されていた。

 この時すでに、ドイツ軍は包囲したソ連軍を完全に密封するには兵力が十分ではなかったことが判明した。ミンスク包囲戦においても、約20万人に及ぶソ連軍の兵士が重装備を放棄して東方に脱出していた。このためヒトラーは装甲部隊に対し、包囲が完了するまでは東進を停止するよう命じた。だが、第2装甲集団司令官グデーリアン上級大将はヒトラーの命令に対して異議を唱えた。

 わずかな時間でも装甲部隊が停止すれば、その間に赤軍に再集結の余裕を与えてしまう。「早期のモスクワ攻略」こそが対ソ戦の勝利につながると考えていたグデーリアンは陸軍参謀総長ハルダー上級大将に対して「自分の責任でさらに東進を続けたい」という要望を繰り返し訴えた。最終的に、ハルダーはグデーリアンの要望を受け入れた。この決断の背景には「イワン」、すなわち一般のソ連兵士たちの最後まで戦い抜く姿勢があった。

 ドイツ軍の将兵たちはソ連軍の兵士をスターリンに痛めつけられたロボットだと考えていた。しかし、ソ連軍の兵士は西側の兵士なら降伏したであろうと思われる状況に陥っても、異常な勇気と自己犠牲の精神を発揮して立ち向かった。このことは、すでに中央軍集団の最初の障壁であるブレスト=リトフスク要塞を巡る攻防戦で示されていた。

 6月22日、中央軍集団が「バルバロッサ」作戦を開始する。第2装甲集団に所属する第12軍団(シュロート大将)の第45歩兵師団(シュリーパー少将)はブク河と水路で4つに区切られたブレスト=リトフスク要塞に襲いかかった。

 水路と城塞で囲まれた前時代的な構造の要塞そのものは特に戦略的な価値を持っていなかったが、要塞内に設置された大砲は中央軍集団の兵站に重要な鉄道や道路を射程圏内に捉えていた。中央軍集団は後方地域の安全を確保するため、この要塞をいち早く手中に収める必要があったのである。

 第45歩兵師団は攻撃前の準備砲撃で要塞の大部分はすでに崩壊していると見込んでいたが、煉瓦とコンクリートで造られた要塞は思いのほか堅牢だった。第28狙撃軍団(ポポフ少将)は必死の抵抗を繰り広げ、第45歩兵師団の兵士は要塞のわずかな部分しかに突入することが出来なかった。

 翌日以降、第12軍団は21センチ榴弾砲や60ミリ攻城砲で第28狙撃軍団の防御地点を粉砕しようとした。要塞に立てこもった第28狙撃軍団は手持ちの武器と弾薬がある限り、抵抗を続けた。最終的に、歩兵の肉弾攻撃で抵抗拠点を1つずつ潰していくことを余儀なくされた第12軍団の損害は日に日に増大していった。

 6月28日、中央軍集団司令部がミンスクの陥落に沸く頃、要塞はまだ占領されていなかった。焦りを募らせた第12軍団司令部はこの日の夕方、第3航空爆撃団に対して航空支援を要請した。第3航空爆撃団のJu88爆撃機7機は500キロ爆弾や1800キロ爆弾を雨のように投下して、コンクリートで固められた防護施設を徹底的に破壊した。

 6月30日、第45歩兵師団はようやく要塞の占領を報告した。同師団はわずか4平方キロの要塞を占領するために、戦死者428人と負傷者1000人以上の損害を被った。

 要塞内の抵抗はこれで全て停止した訳ではなかった。一部の拠点では7月下旬まで生き残ったソ連軍の残兵が散発的な抵抗を続けた。ある守備兵が要塞の壁を彫って、次のような決意を遺していた。

「死んでも降服はしない。さらば、祖国よ。1941年7月20日」

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