[3] 瀉血

 1930年代、中国への侵略を始めた日本―関東軍は満州一帯を占領し、傀儡政権を樹立した。日本の傀儡政権である満州国政府はモンゴルとの国境画定で紛争を抱えた。関東軍はこの紛争を利用して「北の大国」ソ連の出方を見極めようと画策していた。

 1939年5月、関東軍は満ソ国境のハルハ河付近でソ連軍のモンゴル駐在部隊と衝突した。第1次ノモンハン事件である。

 クレムリンは関東軍の行為を「日本政府が侵略の意図を有している」とみなし、さらなる攻撃を仕掛けてくるだろうと予想したが、満ソ国境を管轄する第57特別軍団(フェクレンコ中将)の行動に不満を懐いていた。そこで、白ロシア軍管区副司令官ジューコフ中将に対し、第57特別軍団を査察するよう命じた。

 ブジョンヌイの部下であり、典型的な「騎兵閥」の一員であったジューコフはその実、トゥハチェフスキーの信奉者であった。ジューコフはこの機会にトゥハチェフスキーが提唱した「縦深作戦」の有効性を証明してみせようと考えた。

 ノモンハン一帯の戦場を視察し、第57特別軍団の問題点を指摘したジューコフはモスクワに部隊の増援を訴えた。クレムリンはこの要請を認め、ジューコフを第57特別軍団長に任命した。ジューコフは兵員5万7000人、戦車・装甲車約900両、火砲500門を前線に集結させた。

 8月20日、ジューコフは総攻撃を命じた。戦車と装甲車は火砲の支援を受けながら、関東軍に襲いかかった。後方地域ではトラックの輸送部隊が縦横無尽に駆け巡り、兵員や弾薬の補充を滞りなく行っていた。機動力に欠けた関東軍はバラバラに包囲されて2週間のうちに、大きな損害を被って撤退した。

 9月15日、日ソ間で停戦協定が締結された。この敗戦によって関東軍はソ連の国力を脅威と受け取り、その勢力圏を南方へと差し向けることになる。

 ジューコフはノモンハンにおける戦功をスターリンに認められて、1941年1月には参謀総長に就任した。そして、6月22日の開戦から、ジューコフは精力的に前線の各地をめぐり、ある事実に気付いたのである。

 緒戦に被ったソ連軍の敗北は、その大半が粛清で生き延びた将校たちの未熟さに端を発していた。司令官たちは急きょ繰上げで陸軍大学を卒業した者ばかりで、実戦経験のない肩書きだけの彼らは戦況に応じて対処する術を持たず、常に型にはまった解決法を当てはめようとした。その結果、ドイツ軍の前進が最も予想される道に沿って兵力を集中させることもなく、教科書どおりの作戦や兵の運用を行なった。そのため経験豊富なドイツ軍は容易にソ連軍の意図を見抜いて、反撃することが出来たのである。

 さらに、どのレベルの司令部でも協同作戦や支援砲撃、兵站のための訓練を受けた参謀将校が不足していた。このような参謀将校たちは麾下の部隊を掌握するために必要な連絡も、上官への戦況報告すらしなかった。いったん電話線が切断されてしまうと、多くの司令部が完全に通信不能の状態に陥った。軍管区司令部さえ、動員後は「正面軍」という大規模な組織を運用するにも関わらず、熟達した通信士が不足していた。

 赤軍は司令部の数に対して、有能な参謀将校と通信機構が圧倒的に不足していた。緒戦の敗北によって、軍・軍団・師団の兵力が壊滅的に激減したため、生き残った指揮官たちはもはや司令部とは言えない体制で指揮を執る状況に追いやられてしまった。

 ジューコフは3週間に及ぶドイツとの戦争から、指揮系統上の問題、さらには戦車や火砲をはじめとする兵器の全般的な不足に対処する方法として、ある結論に至った。その内容はとりあえず戦前の概念を放棄し、赤軍の組織をより基本的かつ単純なものに立ち返らせるというものであった。

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