[2] 後遺症
赤軍に粛清の嵐が吹き荒れていた頃、欧州は再び緊張が高まっていた。ドイツは覇権を確立するのに充分な軍備を有しつつ、その前提として外交手段が必要だった。独ソ不可侵条約によって、スターリンは第二次世界大戦でヒトラーの側に立つことを意味した。
1939年9月1日、ドイツ軍は7個装甲師団を含む約150万人の兵力で、ポーランドへの侵攻―「白作戦」を開始した。
このとき、ドイツ軍は初めて実戦で装甲部隊を投入し、自動車化部隊と組み合わせて大規模な機動兵力を編成した。その機動部隊を敵の予想しない地点へ集中的に投入して敵の動揺と混乱を誘い、戦線の動きを加速させる。グデーリアンはこの戦術を「電撃戦」と命名した。
「白作戦」において、第19軍団(グデーリアン大将)は10日間で約360キロを走破するという驚異的な快進撃を成し遂げた。2週間足らずの戦闘でポーランド軍は組織的な抵抗を封じ込まれ、グデーリアンは自ら「電撃戦」の有効性を証明して見せた。陸軍の中で確乎たる地位を掴んだグデーリアンの「電撃戦」はドイツ軍の剣になり、翌年の対フランス戦でさらに「磨き」がかけられることになる。
9月14日、クレムリンは「独ソ不可侵条約」の秘密議定書に基づき、ドイツに対して指定されたポーランドの地域に赤軍が侵入するであろうと伝えた。その3日後、ソ連軍は東部から大量の戦車を投入してポーランド領内に侵攻した。
粛清の「後遺症」は、すでにこのとき現われていた。作戦初日こそソ連軍は目ざましい進撃を見せたものの、2日目には早くも燃料の不足が発生し、進撃の速度は急速に低下した。ビアトリスクでドイツ軍に接触したときには、前線の部隊は燃料を緊急に空輸してもらわなくてはならなくなっていた。ポーランド東部は将来、対独戦が発生した際の「緩衝地帯」であり、ポーランド戦後の国境線が独ソ戦の戦線となった。
粛清の「後遺症」は、11月30日に開始した「冬戦争」において、さらに深刻な状態で全世界に露呈された。この日、レニングラード軍管区司令官メレツコフ上級大将率いるソ連軍は約60万の兵力を動員して、フィンランドに侵攻した。切迫する対独戦に備えて、フィンランドとの国境線を戦略上の要地から遠ざけることが目的であった。
スターリンの忠実な部下である国防相ヴォロシーロフ元帥はこの侵攻が「4日で片が付くだろう」と予想していた。このときソ連軍はフィンランド軍に対し、兵員数で5倍、戦車と航空機では30倍もの兵力と膨大な砲兵隊を抱えていたのである。しかし、フィンランド軍の巧妙な反撃に何度も裏をかかれ、開戦からわずか1か月後には戦況は完全に膠着してしまった。
失態を重ねたメレツコフは解任され、代わりにティモシェンコ上級大将が北西部正面軍司令官に就任する。しかし戦況は好転しなかった。ソ連軍はようやく優勢に立つことが出来たのは、翌40年の2月になってからだった。
1940年3月12日、ソ連はフィンランドと領土割譲要求を含む和平条約を締結した。ソ連は当初の思惑通りカレリア地方を併合できたが、そのために支払った代償は戦果とはとてもつり合わないものだった。約5万人の戦死者。15万人を超える負傷者。国際連盟からは脱退を命ぜられ、ソ連は外交上も孤立することになった。
予想以上の失態にスターリンは赤軍の首脳に対して、「冬戦争」で露呈した戦術面・兵器面の弱点に関する検証と、それに基づく改善提案を行なわせた。だが、指揮系統を根幹から破壊された巨大な軍事組織を、机上の理論だけで立て直すことは不可能だった。
この嘆かわしいソ連軍の有様を見て、ヒトラーは大いに興奮してスターリンの粛清を「壮挙」と称え、「ソヴィエト連邦のような腐り切った体制はいずれ崩壊する」という確信を持つようになった。多くの外国人や情報機関もまた、ドイツの見解に同調した。
しかし、ひとつだけ違う見解も持った国があった。
日本である。
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