[4] 再編

 赤軍指導部はドイツ軍の快進撃に対し、絶え間なく対処せざるを得ない状況に置かれていた。そこで1941年7月15日に「回状第一号」を発令した。これを基にして兵力の蓄積を行い、これからの戦闘を通じて赤軍の再建を図ろうとしたのである。

「回状第一号」によって、まず軍はその中にあった「軍団司令部」をすべて廃止した。軍司令部に5~6個狙撃師団に2~3個戦車旅団、1~2個騎兵師団を直轄させる方式に変更された。まだ経験の浅い指揮官でも把握のしやすい状態に移行されたのである。

 また、肥大化した狙撃師団も編成が簡素化された。今まで師団の中に組み込まれていた車両隊・対戦車砲隊・高射砲隊などが師団から切り離された。これらも部隊の装備は供給が絶望的なまでに不足していたため、この改編によって軍司令官たちはこれらの装備を一手に集めて、最も危険にさらされている部隊を支援するために自由に配分することが可能となった。

 赤軍の機械化軍団は1932年に世界に先駆けて創設されたが、「冬戦争」における運用法の失敗を受けて、1939年に一旦は廃止された。ところがスターリンはポーランドやフランス侵攻におけるドイツ軍の装甲部隊の活躍にショックを受け、1940年に機械化軍団の復活を命じた。復活した機械化軍団の多くは官僚主義的な要因により熟練した指揮官やT34やKV1などの新型戦車が慢性的に不足し、緒戦時は「張子のトラ」に近い状態に陥っていた。機械化軍団は解体され、より定数を縮小した戦車師団と自動車化狙撃師団に再編された。戦前に編成されていた戦車師団も新しい編成に組み替えられた。そのため、新編の戦車部隊の中では「戦車旅団」が最大の戦闘単位とされ、すべて歩兵支援用に配備することになったのである。

 だが、ほとんどの師団の実戦力はこれにはるかに達せず、さらに少ない定員・定数の師団が編成された。これらの部隊は「独立旅団」と呼ばれるようになった。独立旅団の定数は師団の約3分の1であり、1941年の秋から1942年始めにかけて、約170個が新たに編成された。

 7月15日の回状では、特に騎兵の大規模な拡張を指示していた。30個師団の新設が定められたため、1941年末までに騎兵師団の数は82個に達した。だが騎兵師団は装備と運用法に関して、すでに時代遅れの存在になっていた。サーベルを掲げて敵に突進する戦術は敵の機関銃になぎ倒されて自軍の人的損害を増やす結果を招き、高い損耗率を出した。部隊規模をすり減らした師団は順次、騎兵軍団へと吸収された。

 だが、軍の再編より困難であったのは赤軍の作戦・戦術概念を転換することであった。攻めるにせよ守るにせよ、ほとんどの赤軍将校は部隊を教科書どおりに動かそうとする傾向にあり、ドイツ軍が最も兵力を集中させている場所に対して直接、正面攻撃を仕掛けようとする場面が多かった。

 1941年の緒戦期に「最高司令部」から出された指令の多くは単純な内容であり、それを受ける指揮官たちの未熟さを露呈するものだった。モスクワ防衛戦が繰り広げられていた1941年11月にドイツ軍―第4装甲軍司令部が作成した報告書の中でも、この事実は裏付けられている。

「戦車自体は優秀である。それらは一部、装甲がドイツ製のものを凌駕しており、良質な近代兵器と特徴づけられるべきものである。ドイツの対戦車兵器はロシアの戦車に対して十分、効果的ではなかった。兵器・装備が優秀で数量も優勢であるにも関わらず、ロシア人はそれを有効に使用することができない。それは、部隊指揮訓練を受けた士官が不足していることに起因するようである」

 新たに繰上げされた未熟な将官たちが、トゥハチェフスキーの「縦深作戦」を完璧に使いこなすまでには、壮絶な戦いとそれに伴う大勢の下士官の犠牲が必要だったのである。

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