第2章:黒い十字軍

[1] 東方征圧

 6月21日の夜半、クレムリンがベルリンとモスクワでむなしい外交努力を続けていた頃、東プロイセンとポーランドの白樺や樅の森の中に膨大な数のドイツ軍部隊が潜んでいた。3505両の戦車・突撃砲、2255機の航空機をはじめとする総兵力は兵員約305万人を数え、これをイタリアやルーマニアなどの同盟国軍約86万人が支援する。この数字は約130年前、ナポレオンが率いた遠征軍の約6倍に上った。

 1年で最も短い夜の日だった。目的も知らされずに、かつてない規模の部隊が数週間前から東部国境に集結していた。砲兵連隊は万全の準備を整えていた。予備の砲弾は偽装され、あらかじめ選ばれていた射撃陣地の近くに隠されていた。無線は鳴りをひそめ、ひしめくように設置されたテントの中に燃料を満杯にしたドラム缶や各種の資材が置かれていた。

 日暮れに命令が下った。闇に覆われた森の中で各部隊は整列を始めた。麾下の部隊が揃ったことを確認した後、指揮官たちは本国から送られた「総統指令」を片手に読み始めた。

「東部戦線の将兵に告ぐ」

 部隊に緊張が走った。

「憂慮のうちに数か月にわたる沈黙を強いられた末、いまや将兵諸君に真相を語りうる時が来た。我が国境にはソ連軍160個師団が配置されており、ここ数週間、国境のみならず高緯度地方およびルーマニアにも部隊移動が絶えない。

 東部戦線の将兵よ、この瞬間に史上最大の規模の作戦が開始されるのである。フィンランド軍と同盟した戦友たちはナルヴィク(ノルウェー)の勝者のもと北海を望んでいる。

 諸君は東部戦線にあるのだ。ドイツ軍とアントネスク国家主席下のルーマニア軍は、ルーマニアのプルート河、ドナウ河から黒海に至る地域に集結している。史上最大の本戦線が結成されたのは、大戦の究極的勝利の前提を作りながら、現在脅威を受けつつある国を守るだけでなく、全ヨーロッパ文明を救うためなのである。

 ドイツ軍将兵諸君、諸子は重い責任を担って厳しい戦いに入るのだ。ヨーロッパの運命、ドイツの将来、わが民族の生存はいまやひとえに諸子の双肩にかかっている」

「解散!」の号令が出た後、仕事が始められた。偽装が解かれた。納屋の隠し場所から引き出された各種の兵器は駄馬、ヘッドライトに覆いをしたハーフトラックや車に牽引されて、発射地点に運ばれた。砲兵の観測員は歩兵部隊とともに先頭に立ち、ソ連国境警備隊の哨所から数百メートルの地点に迫っていた。前線に展開するドイツ軍は3個の軍集団に分けられていた。

 東プロイセンからニーメン河に至る北翼に、北方軍集団(レープ元帥)が布陣していた。麾下には第18軍(キュヒラー上級大将)、第4装甲集団(ヘープナー上級大将)、第16軍(ブッシュ上級大将)があり、第1航空艦隊(ケラー上級大将)の支援を受ける。目標はバルト海沿岸のソ連軍の殲滅とレニングラードの占領であった。

 ロミンテン荒野からブレスト・リトフスク南方までは、中央軍集団(ボック元帥)が担当していた。麾下には第9軍(シュトラスス上級大将)、第3装甲集団(ホト上級大将)、第2装甲集団(グデーリアン上級大将)、第4軍(クルーゲ元帥)が控えていた。この最も強力な軍集団は緒戦にミンスクで包囲網を形成する予定になっていた。そこでソ連軍の大多数を拘束した後、第2航空艦隊(ケッセルリンク元帥)の支援を受けながら、1812年のナポレオンと同じ進撃路を啓開することになっていた。

 カルパチア山脈からプリピャチ沼沢地帯南方までは、南方軍集団(ルントシュテット元帥)が構えていた。麾下に第6軍(ライヘナウ元帥)、第1装甲集団(クライスト上級大将)、第17軍(シュトルプナーゲル大将)、第11軍(ショーベルト上級大将)があり、ルーマニアを中心とする同盟国軍も含まれていた。第4航空艦隊(レール上級大将)が支援する。目標はウクライナの穀倉地帯・鉱物資源とカフカス山脈に近い油田であった。

 最前線の兵士たちの間では、不安と動揺が広がっていた。ほとんどの者がこの演習はイギリス侵攻―「アシカ」作戦の準備を隠すための陽動作戦だと信じていた。なにより恐ろしい噂しか聞いたことが無い未知の国に侵攻するなんて気が進まなかった。

 指揮官や将校の多くは興奮状態にあった。秘匿名称「バルバロッサ」で呼称されるソ連侵攻作戦の成り行きに対して至って楽観的だった。後方地域に控える師団では、一部の将校たちが作戦の成功を期してフランスから持ち込んだシャンパンやコニャックを開けた。ある大尉は不安を打ち明ける兵士たちにこう語った。

「ロシアとの戦争は1か月足らずで終わるだろう」

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