[4] 開戦

 午前3時15分、黒海艦隊司令官オクチャブリスキー提督はクレムリンに対してセヴァストポリの海軍基地がドイツ空軍の爆撃を受けたとの報告を行った。マレンコフはオクチャブリスキーの言葉を信じず、再度ひそかに電話して士官たちが提督にそう言わせたわけではないことを確認した。

 午前3時30分、国防人民委員部(国防省)にいたジューコフも西部特別軍管区、キエフ特別軍管区、沿バルト特別軍管区からの通報でドイツ軍来襲の報告を受けた。ジューコフはスターリンの邸宅に連絡を入れた。

「どなたです?」

 当直将校の眠たそうな声が響いた。

「ジューコフ参謀総長だ。スターリン同志に伝えてくれ、緊急の用事だ」

「今すぐですか?スターリン同志はお休み中ですが」

「すぐ起こしてくれ。ドイツ軍が我が方の都市を爆撃しているのだ」

 3分ほど経った後、スターリンは電話に出た。スターリンはジューコフの報告を聞いても、黙ったままだった。ジューコフはしびれを切らした。

「いま申し上げたことがお分かりになりましたか?」

「政治局の全員を集めるよう、補佐官に伝えてくれ」

 スターリンは電話を切った。

 スターリンはやつれた痘痕顔を引きつらせて、真っ先にクレムリンの執務室に入った。次第に共産党中央委員会政治局の幹部―モロトフ、ベリヤ、マレンコフ、ヴォズネセンスキー、ミコヤン、カガノヴィチ、シチェルバコフらが集まった。赤軍からティモシェンコとジューコフが参加した。

 暗たる表情を浮かべたティモシェンコがドイツ軍の空襲を伝えた。しかしスターリンはこの期に及んでもなお、和平の可能性を捨て切れていなかった。

「あらためてベルリンと連絡を取り、大使館とも連絡を取らねばなるまい」

 午前5時30分、モロトフはクレムリンを離れた。外務省から駐ソ大使シュレンブルクが接見の申し入れをしたと伝えられたからであった。しばらくして外務省から戻ってきたモロトフが執務室に入る際、全員が緊張した面持ちで自分を見つめているのを感じた。彼は席に座りながら、声を絞り出すように発した。

「ドイツ大使は、ドイツ政府がソ連に宣戦を布告した、と通告しました」

 静寂がまるで闇のようにべったりと覆った。スターリンは椅子にへたりこんで、言葉も出なかった。第1次世界大戦の教訓から、西方でイギリスを打倒する前に東方で新たな戦争を引き起こすには、ヒトラーはあまりに「理性的」である。スターリンはそう判断した。だが、その希望的観測は独裁者自身が持っている小心と猜疑心、過剰な自信を基にしていたのである。

 早朝、ソヴィエトの国民は祖国に降りかかった災難について何も知らなかった。高官たちから開戦の事実を公表してほしいと頼まれたスターリンは「モロトフに説明させよう」と答えた。高官らは指導者自ら語ることを人民が望んでいると主張したが、スターリンは考えを変えなかった。ミコヤンは後にこう述懐している。

「この決定が誤りだったことは明白だ。しかし、国民に何と語りかけていいのか分からないほど、スターリンは混乱し、落ち込んでいた」

 日曜日のモスクワは街じゅうに行楽に向かう人々で溢れていた。正午にようやく、モロトフはラジオを通じて国民へのメッセージを放送した。街道を行き交う人々は拡声器の周囲に集まり、演説に耳を傾けた。

「ソ連の男女市民のみなさん!本日午前4時、ソヴィエト連邦に対していかなる苦情も申し立てることなく、宣戦布告もなしにドイツ軍は我が国に襲いかかり、多くの地点で我が国境を攻撃し、ジトミール、キエフ、セヴァストポリ、カウナスその他のわが諸都市を爆撃した」

 モロトフの言葉の選び方は凡庸で、言葉もぎこちなかった。

「これは文明諸国民の歴史に前例のない背信行為である。ドイツ人―血に飢えた指導者たちは友好条約による義務をすべて履行したロシア人に対する信義を破った。赤色陸海軍人、赤色空軍の武勲赫々たるハヤブサらは侵略者を撃退するであろう。ナポレオンによる侵略へのわが人民の応えは祖国戦争であった・・・赤軍と全国民がわれらの母なる国のため、名誉と自由のための祖国戦争を勝利の内に進めるであろう。わが国の大義は公明正大である。敵は敗退し、我々は勝利するだろう」

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