[3] 宣戦布告

 6月21日の夜が更けるにつれて、ベルリンの駐独大使館に居残っていたベレシコフはリッベントロップに連絡することを諦めていた。当直のドイツ外務省職員はこう繰り返した。

「外相とはまだ連絡が取れません。しかし、あなたの申入れはよく分かっています。知己続き措置を取っております・・・」

 午前3時ごろ、電話が鳴った。受話器から響いた聞きなれぬ声にベレシコフは背筋に冷たいものを感じた。

「リッベントロップ外相はヴィルヘルム通りの外務省でソ連政府の代表にお目にかかりたいと申しております」

「大使の身支度と車の手配にいささか時間がかかります」ベレシコフは言った。

「外務省の車がすでに大使館の前に待機しております。外相は即刻、ソ連代表にお目にかかりたいとのことです」

 デカノゾフとベレシコフが大使館を出る。眼の前に黒いリムジンが停まっていた。正装した外務省儀典課の役人が1人、ドアの脇に立っていた。親衛隊(SS)の将校は車の助手席に座ったままであった。車が走り出す頃、6月22日の夜明けを迎えていた。

 ヴィルヘルム通りの外務省では、人だかりが出来ていた。玄関は撮影用の照明で明るくなっていた。2人のソ連外交官は報道陣に取り囲まれ、しばらくカメラのフラッシュを浴びせられた。デカノゾフは落ち着いた様子で取材に答えたが、ベレシコフは顔に固い表情を浮かべていた。ますます不安がつのり、なによりこの取材を予想していなかったのである。

 ソ連代表の到着を待つ間、リッベントロップは落ち着きがなく室内を歩き回っていた。なぜなら、これから約2年前に締結した「独ソ不可侵条約」の破棄を通告しなければならなかった。彼は繰り返し自分に言い聞かせていた。

「今、ロシアを攻撃すると言われる総統は絶対正しい。こちらが攻撃せねば、ロシア人は必ず我々を攻めるはずだ」

 ソ連代表の2人はドイツ外相の広々した執務室に案内された。寄木細工の床がはるか向こうのデスクにまで続き、ブロンズ像が壁面に沿って延々と並んでいた。部屋の一番奥に置かれた机に灰緑色の制服を着たリッベントロップが座っていた。

 デカノゾフは黙って部屋の中を進んだ。ベレシコフは近づいてきたリッベントロップの様子を見て「酔っているな」と思った。その顔面は赤くむくみ、眼は充血してどんよりと曇っていたからだった。

 おざなりに握手を交わした後、リッベントロップは片隅のテーブルに2人を案内した。一同が席に着いた後、デカノゾフはドイツ政府に条約の保証を要請する声明文を読み始めた。

 リッベントロップはそれを遮るように口を開いた。

「お2人をお招きしたのは、まったく違う理由からです」

 ソ連代表は顔を見合わせた。リッベントロップは言葉をとちりながら述べた。

「ドイツに対するソ連政府の敵意ある態度と、ドイツ東部国境に集結するソ連軍部隊の由々しき脅威に鑑み、ドイツ帝国は軍事的対抗手段を取らざるを得なくなりました」

 ベレシコフは頭をがんと殴られたようなショックを覚えた。ドイツ軍はすでにソ連侵攻を開始したに違いない。彼の通訳を聞いたデカノゾフは目を見開いた。

 リッベントロップはぎこちなく立ち上がると、ヒトラーの覚書全文を提示した。デカノゾフはすでに言葉を失っていた。

「総統の指示により、私はこの防衛措置を公式に貴下にお伝えする」

 デカノゾフは顔を真っ赤にして立ち上がった。

「ソヴィエト連邦を攻撃するとは、挑戦的かつ略奪的行為だ。侮辱するにも程がある。必ず後悔しますぞ。この代償は高くつくでしょうな!」

 ソ連代表の2人はドアに向かった。リッベントロップは急いでその後を追い、せっぱ詰まった様子で囁いた。

「私個人はこの攻撃に反対であると、モスクワの方々にお伝えください」

 デカノゾフとベレシコフが車に乗り込む頃には、夜は明けていた。ウンター・デン・リンデンではSSの分遣隊がすでに同地域に非常線を張っていた。大使館で2人を待っていた館員たちから電話線は全て切断されたという報告を受けた。そこで無線をロシアの放送局に合わせた。モスクワ時間はドイツの夏時間よりも1時間早い。時刻は午前6時。驚いたことに、ニュース速報はもっぱらソ連の農工業の生産拡大に終始していた。ドイツ軍侵攻は全く取り上げられていなかった。

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