[2] 遅すぎた指令

 モスクワでは、ベルリン大使館の対応に業を煮やしたモロトフが駐ソ独大使シュレンブルク伯爵をクレムリンに呼びつけた。大使館で文書の焼却を見届けてから、シュレンブルクは車に乗り込んだ。

 独ソ両国の関係は1939年8月24日に締結した「独ソ不可侵条約」の蜜月時代から変わって、とても冷え込んでいた。最近は会見も疎遠になり、シュレンブルクはモロトフの呼び出しを奇異に思いながら、ある不安を胸に抱えていた。

 午後9時半、クレムリンにあるモロトフの執務室で会見が始められた。副首相を兼任するモロトフは日中を外務省、夜間をクレムリンでそれぞれ執務していた。

 モロトフは独ソ開戦の噂にふれ、「ドイツの非難にどのような根拠があるのか、理解に苦しむ」と言い、「この紛糾について希望を得たい」と問い詰めた。シュレンブルクはこのように答えた。

「私は貴下の質問に答えることが出来ません。私はこの問題に関する情報を持っていませんので」

 モロトフは追究の手を緩めず、ドイツの不穏な動きを示す証拠を突きつけた。国境警備隊から続々入ってくる報告によれば、戦車のエンジン音が国境の西側の森に響き渡り、ドイツ軍の工兵隊が川に橋をかけ、国境線に敷設された鉄条網を取り払っているという。

 シュレンブルクの不安が的中した。返事に詰まったシュレンブルクは本国の意向を聞くまではどんな質問にも答えられないと言葉を濁し、クレムリンの無知に驚いていた。

 独ソ開戦の噂は1940年冬から何度もささやかれていた。クレムリンにはドイツのソ連侵攻計画と準備を示した情報が世界中に散らばった諜報員と各国の駐在武官から山のように届けられていた。内心、ソ連侵攻を反対していたシュレンブルクも2週間ほど前、モスクワに帰国していたデカノゾフを昼食に招き、ヒトラーの意図を警告していた。しかし、デカノゾフはすぐさまこれが罠ではないかと疑った。スターリンもこうした情報に耳を貸さなかった。

 開戦の警告に対しては2通りの解釈が可能だった。ヒトラーはただちにソ連へ侵攻するつもりなのか。それとも「独ソ不可侵条約」の時と同じように、経済的・政治的譲歩を引き出し、その間に対英戦の準備を進めるのか。スターリンは後者の可能性に賭けていた。開戦を警告する情報はイギリスから伝えられていたが、スターリンにしてみれば、このような警告は独ソ関係を悪化させて両国を敵対させるための策略でしかなかった。

 スターリンと異なり、国防人民委員(国防相)ティモシェンコ元帥や参謀総長ジューコフ上級大将をはじめとする赤軍幹部は対独戦を覚悟していた。ティモシェンコとジューコフは6月14日に国境周辺の部隊に臨戦態勢を取らせる許可を求めた。だが、スターリンは断固とした口調で戦争に向けた一切の準備を禁じた。

 6月21日の夜、ティモシェンコは越境したドイツ軍の脱走兵が翌朝の対ソ侵攻に関する情報を漏らしたと報告した。スターリンはこの情報を欺瞞として聞こうともしなかったが、ティモシェンコの説得を受けてようやく戦争の準備に着手した。

 指揮官らと討議した後、スターリンは「指令第1号」を送ることに同意した。

「1941年6月22~23日の内に、レニングラード・沿バルト海特別・西部特別・キエフ特別・オデッサの各軍管区において、ドイツ軍が奇襲攻撃を実施する可能性がある。しかし、我が軍は戦争拡大を招くような敵の挑発行動に乗ってはならない。同時に、各軍管区の部隊は万全の戦闘可能態勢を整え、ドイツおよびその同盟軍による万一の急襲に備えること。ただし、特別の指示がないかぎり、右記を超える行動を取ってはならない」

 参謀総長第一代理ヴァトゥーティン中将はこの指令文書を携えてクレムリンから参謀本部に戻り、日付がかわった午前0時30分に発送を完了した。

 この「指令第1号」が国境防備を統轄する各軍司令官に届いたのは、現地時間の午前3時ごろだった。しかし、前線の将官たちにこの指令に対応する時間は残されていなかった。それからわずか15分後、ドイツ空軍の爆撃が開始されたからであった。

 6月22日午前3時15分のことだった。

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