第1章:運命の日

[1] 断絶

 1941年6月21日土曜日、ベルリンは素晴らしい夏の日差しに満ちた朝を迎えていた。ウンター・デン・リンデンに構えるソ連大使館では休日の和やかな雰囲気の中で、館員たちは仕事についていた。

 バルト海から黒海に至る国境付近にドイツ軍の大部隊が集結している件について、モロトフ外務人民委員(外相)から駐独大使デカノゾフあてに訓令が届けられていた。その内容はドイツ外相に即時会見を申し入れて、「納得する説明」を要求するというものだった。

 ベレシコフ一等書記官兼首席通訳官は会合の手配をすべく、ヴィルヘルム通りのドイツ外務省に連絡を入れた。しかし、外務省は「リッベントロップ外務大臣は不在で連絡がつかない」と一点張りだった。

 時が過ぎるにつれて、モスクワの外務人民委員部(外務省)からは情報をよこせとの催促が絶えなくなった。今まで同盟諸国から80回以上の警告を受けた上に、ドイツの意図を示す証拠がますます増えるにつれて、クレムリンはヒステリーに似た焦燥感に陥っていた。内務人民委員部(NKVD)の長官代理は前日にも「少なくとも39機もの軍用機がソ連領空を侵犯した」との報告を受けたばかりだった。

 ベレシコフはドイツ外務省に繰り返し電話を入れたが、相変わらず「外相は不在で、いつ戻るか分からない」という返事だった。今度は儀典課長ワイツゼッカーに連絡を取ろうとしたが、ワイツゼッカーもまたつかまらなかった。 昼ごろ、ベレシコフは政治局長ウェルマンにようやく連絡がついた。ウェルマンは外相の所在を尋ねるベレシコフにこう答えた。

「総統司令部で会合が開かれているみたいです。おそらく、全員そこに集まっているのでしょう」

 だがリッベントロップはこの日、外務省を離れていなかった。部下に命じて不在を装い、モスクワのドイツ大使館に送る『緊急、国家機密』と題する指令書の準備を進めていたのである。翌朝未明、国防軍はソ連侵攻を開始する。侵攻開始から2時間ほど経った後、駐ソ大使シュレンブルク伯爵が攻撃の口実となる苦情書をソ連政府に届ける手はずになっていた。

 午後の日差しが傾くにつれて、モスクワからの催促はますます狂乱の度を強めた。ベレシコフは半時間おきに外務省に電話したが、電話に出るドイツ外務省の上級職員は誰もいなかった。

 時を同じくして、6月21日のロンドンも陽が照って暖かい1日になった。駐英ソ連大使マイスキーはケンジントン宮庭園18番のソ連大使館で手早く仕事を片付けた後、午後1時ごろに夫人とともにロンドン郊外のポヴィントンにあるファン・ネグリン元スペイン共和国首相の邸宅に向かった。この1年、マイスキー夫妻は日頃の疲労を癒すためにネグリン邸で毎週末を過ごしていた。ネグリン邸に到着したマイスキーは突然、大使館にいる参事官から電話で呼び出された。

「モスクワ駐在英大使のスタフォード・クリップス卿が帰国中で、今すぐにでもお眼にかかりたいとのことです」

 マイスキーはポヴィントンから車を飛ばして1時間足らずでケンジントンのソ連大使館に到着した。大使館で待ち構えていたクリップスが口を開いた。

「ドイツのソ連攻撃が近いということを、私が繰り返しソ連政府に伝えていたことはあなたもご存知のはずです」

 クリップスはやや興奮した面持ちで続けた。

「それがですね、明日にでも攻撃が始まるんですよ。遅くとも、6月29日までにはね。その確証を我々は掴んでいるんです。これをあなたにお伝えしようと思って来たんです」

 マイスキーはクリップスの警告を、本国に緊急有線通信を送信した。時刻は午後4時だった。この後、再びネグリン邸に戻ったマイスキーは休暇どころか眠れぬ夜を過ごした。

 ベルリンでは午後9時半、デカノゾフはついにワイツゼッカーと会見した。デカノゾフはドイツによる領空侵犯に対する抗議書を提出した。ワイツゼッカーは「口上書はしかるべき当局に提出いたします」と簡単に答えて会見を終えようとしたが、デカノゾフは会見を続けて独ソ関係全般に関する政府の懸念を表明しようと頑張った。ワイツゼッカーは素っ気なく答えた。

「私は大使閣下とは全く別の意見であり、また我が国の政府の意見を待たねばなりません。したがって、この問題は今ここで深入りしない方が良いかと思われます」

 デカノゾフはこの言葉に頷くしかなかった。同席していたベレシコフは雰囲気が次第に変化する感覚を肌で感じ、ますます不安に駆られた。デカノゾフはモスクワに対して「リッベントロップに会うためにあらゆる努力を致しましたが、成果はありません」と報告するしかなかった。

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