[2] 「バルバロッサ」作戦
ヒトラーがいつから対ソ開戦構想を始めていたかは定かではない。だが、1925年に刊行した著書「わが闘争」においてすでに、ヒトラーは第三帝国のとるべき国家政策の最終目標としてロシアの征服を挙げていた。第三帝国の「レーベンスラウム(生存圏)」の形成と維持には、ウクライナひいてはロシアの天然資源の活用が必須であると記した。
1940年7月の時点まで、ヒトラーは具体的な対ソ開戦を表明していなかった。しかし、対英戦の行き詰まりや「独ソ不可侵条約」に伴ったソ連の領土拡大によって東プロイセンやルーマニアへの脅威が増大したことを受けて、ヒトラーは自身の構想を夢から現実にしなければならなくなった。
1940年7月21日、ヒトラーは陸軍総司令官ブラウヒッチュ元帥に対して、対ソ戦に関する具体的な研究を開始するよう命じた。ブラウヒッチュからヒトラーの意向を聞いた陸軍参謀総長ハルダー上級大将は陸軍参謀本部の作戦課、地図測量課、ソ連関連の軍事情報を管轄する東方外国軍課の各部局に主要な問題点の予備的研究を命じた。
陸軍側の研究は、第18軍参謀長マルクス少将が8月5日にハルダーに提出した「東部作戦構想」(通称マルクス案)をベースに行われた。この作戦案は食糧・資源の供給地であるウクライナとドネツ河流域、軍需生産の中心に当たるモスクワとレニングラードを占領することが定められていた。ハルダーはソ連の政治中枢である「赤い首都」モスクワの奪取とそれに伴う赤軍の殲滅により、ソ連が崩壊することを目論んでいた。
この目的を達成するため、主攻軍はプリピャチ沼沢地帯の北部に配置し、南部は道路網が貧弱で機動作戦に不利であることが想定されたため、支攻軍のみを配置する。これはモスクワ占領後に南下する主力と協同してウクライナを占領する。この後に陸軍総司令部はマルクス案に修正を加え、最終版の侵攻計画案「オットー」を作成した。
7月29日、ヒトラーは国防軍統帥部長ヨードル大将に対して「来年5月にソ連への侵攻を行うつもりである」ことを伝えた。これを受けて国防軍総司令部でも、ロスベルク中佐を中心に対ソ戦の研究が進められた。
ロスベルクは9月15日に「東部作戦研究」(通称ロスベルク案)を完成させた。ロスベルク案ではソ連軍が採り得る作戦行動として、自国の奥深く退却した後にドイツ軍が補給の維持が困難になった時期に反撃する事態を最も避けるべきとしていた。
このような前提に基づいて兵力分配が設定されていたが、主攻はプリピャチ沼沢地帯北部に設定していた。これはマルクス案と一致している。ただし、ロスベルク案は北翼に2個軍集団を配置し、中央部の軍集団をモスクワに突進する一方、最も北に位置する軍集団は東プロイセンからバルト海沿岸部に進撃する。プリピャチ沼沢地帯南部の1個軍集団はポーランド南部から東または東南に前進する。3個軍集団はそれぞれの前面にいるソ連軍を撃破しつつ、プリピャチ沼沢地帯東部で合流して、全前線に渡って攻撃を実施する。
12月5日、ベルリンの帝国官房を訪れたハルダーは陸軍総司令官ブラウヒッチュ元帥や国防軍総司令部総長カイテル元帥、統帥部長ヨードル大将が列席する中、ヒトラーに陸軍の対ソ攻撃計画案「オットー」を上申した。
ヒトラーはこの案に大筋で承認を与えたが、モスクワの早期占領はハルダーが主張するほど重要ではないという判断を示した。また国防軍総司令部に侵攻の訓令起案を命じる際、ヨードルに対して「レニングラードとウクライナの占領を侵攻作戦の第1目標として位置づけるべし」という意向を示した。
12月18日、国防軍総司令部から最終計画案がヒトラーに提出された。ヒトラーはこの最終計画案に多少の訂正を加えて承認し、「総統指令第21号:バルバロッサ作戦」として発令した。この訓令における戦略目標は次のように説明されていた。
「西部ロシア(ソ連)に存在するソ連軍の主力を、数個の装甲兵力の楔を突進させる大胆な作戦によって殲滅し、戦闘能力を有する敵軍が広大な国土の奥地へと退却することを阻止すべし(中略)。
本作戦の重点は、プリピャチ沼沢地帯の北に展開する2個軍集団(北方・中央)に置き、まず中央軍集団の強力な装甲・機械化兵力をもって白ロシア(ベラルーシ)の敵兵力を殲滅。続いて、快速部隊を北に転じ、北方軍集団と協力してバルト地区の敵兵力を壊滅させる。これらの任務を達成後、レニングラードとクロンシュタットを占領し、その後に交通と軍事の中心地たるモスクワの占領作戦へと移行すべし。(後略)」
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