②サイコ
「どうしたらいいんだあ~」
中間テストの時と同じ発言をしながら、小春は
青白い月に見下ろされた校舎は、監獄のように重苦しい威圧感を漂わせていた。
薄い暗闇を溜めた窓からぼんやり漏れている緑色は、非常灯だろうか。弱々しく発光するクラゲが、命の乏しい海底を漂っているような情景を眺めていると、見飽きているはずの四階建てについ大袈裟な印象を抱いてしまう。この暗闇は生命を拒絶している。
課題のプリントを忘れた程度なら迷わず拒まれるが、今日はそうも言ってられない。
踊り場、
廊下、
下駄箱の陰――。
曇りの日でも光が差していた場所に、獰猛そうな闇が潜んでいる。校庭に立つ創立者の銅像は、深い影を使って
朝練の掛け声、つま先と床を
耳を澄ましても、お馴染みのBGMは聞こえてこない。
打ちっ放しのコンクリが漂わせる冷気は、北風を浴びせ掛け、体温を吹き飛ばす野外とは違う。足の裏にへばり付かれ、体温を吸い取られていく感覚は、乾いた手で氷に触れた時に近い。
息を吐く度に白い煙が広がり、黒一色だった視界をモノクロに塗り替える。ハイソックスと膝の境目から震えが這い上がると、太ももを鳥肌が埋め尽くした。
間抜けに垂れてきた鼻水を
毎朝の通過儀礼通り右からローファーを脱ぎ、左から上履きを履くと、小春は一階の奥にある職員室目指して駆け出した。少しでも真っ暗闇に囲まれている時間を減らしたい一心で、目の前を掻き分けるように大きく腕を振る。三〇分前に食べたみそ汁が胃壁に打ち付けると、たぷたぷと締まりのない水音が鳴った。
職員用のトイレに差し掛かると、職員室の戸がか細い灯りを漏らしているのが目に入る。
蛍光灯にしては明らかに暗い。
部屋の照明を消し、テレビだけを
やはり、熊谷先生はもう帰ってしまったのだろうか?
だが電気が
いてほしいが帰っていてくれ――。
相反する祈りを捧げながら引いてみると、滑りの悪い戸がカタカタと開いていく。最後に帰宅する教師が鍵を掛けていく決まりだから、まだ誰か残っているらしい。
限界を超えた怒りのせいで冷たく笑う熊谷先生が、落第生の写真をハサミで切り刻んでいる――。
そんな胆をフリーズドライする光景が、この先で実演されているかも知れない……。
ちょっとしたサイコホラーが頭を過ぎった途端、小春の足は背後を踏み、戸と距離を取る。かと言ってこのまま下駄箱に亡命しても、明日開催されるホラーの冠詞が「スプラッタ」になるだけだ。憤怒の咆哮と共に
「し、失礼しま~す」
小春はひとまず半分戸を開け、そろ~っと職員室を覗き込んでみる。
煙のように
戸から漏れ出ていた光の正体は、机上のパソコン。アクリル製のネームプレートに映った光が、波紋のように青白く揺らめいている。
「失礼しまぁす。熊谷先生、いますかぁ。いなければ、そのまま退職してくださぁい……」
とりあえず三角定規が飛んで来ないことを確認し、小春は職員室へ入る。限界まで平身低頭した姿は、我ながら原人まで先祖返りしたかのようだ。
とと……。
微細に鼓膜を揺すったのは、小さく足踏みするような音。
弱い横揺れが窓枠を震わせ、微風がスカートの裾をさする。
ついに獲物を目前にした熊谷先生が、武者震いでも始めたのだろうか。
いよいよ生爪の一枚でも剥がれるか!?
芳香剤?
生徒から没収した化粧品?
いや、真夏のボットン便所に似た臭い。
強烈なアンモニア臭だ。
排水口でも壊れて、下水から悪臭が逆流しているのだろうか?
一歩……、
二歩……、
三歩目。
予期せぬ段差につま先が引っ掛かり、小春の身体を傾かせた。
熊谷先生への感情とは無関係に頭が上下し、胴体が前後に振れる。腕を乱回転させ、何とかバランスを取ると、小春は
一体、何に
小春は息を整えながら考えてみるが、見当も付かない。
職員室の間取りを思い返してみても、ロッカーや段ボールが置かれているわけでもない。引き出しでも出ていたのだろうか? いや、つま先にぶつかったそれはもっと柔らかかった。
疑問に終止符を打つべく、小春はスマホのライトを
円状の光が暴き立てたのは、ベンチ大の肉塊。
無数に群れ集った何かが、ぞわぞわと蠢いている。
サーモンピンクの体表は、体毛のないネコ「スフィンクス」に瓜二つだ。
急に照らされたことに反応したのか、セーターの編み目を広げるように肉塊の一部が開く。
隙間から現れたのは人間、それも土日以外必ず見掛ける顔だった。
「熊谷せん……」
悲鳴を発しそうになった小春は、慌てて口を塞ぎ、声を喉に押し返す。
無根拠な信仰を、他人は
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