第九章『深まる闇』

①アルマゲドン

 放課後、職員室に来い――。

 小春が熊谷先生とのアフターを思い出したのは、夕食を食べた後のことだった。

 なぜもっと早く思い出さなかった!

 罵倒しながら記憶をさかのぼり、湯船でくつろぐ過去の自分に渾身のドラゴンスクリューを叩き込む。ぎゅるるる! と浴室中に足のねじれる音が響き、ご陽気な「マッチョ・ドラゴン」が絶叫に変わった。


 学校へ急ぎながら確かめてみると、腕時計の短針は一〇時を回ろうとしていた。

 熱心な運動部も、ナイター照明が落ちる八時には練習を切り上げる。果たして熊谷先生は律儀に待っているだろうか? 広義には「放課後」だが、最後の授業からは七時間近く経っている。

 よしんば職員室にいたとしても、「俺はお前を信じていたぞ!」などと山下やました真司しんじ的なハグで出迎えてはくれないだろう。って言うか、佐々木ささき小次郎こじろう的に募り募らせたいきどおりに促され、武蔵むさしの頭に灰皿をトライする。

 かと言って、小春の人間性に見切りを付け、帰ってしまっていても、今日の平穏が貸与たいよされるだけだ。明日にはとげぬき地蔵もを上げる、説教のワンマンショーが待ち構えている。


 最近、小春はツイてない。

 この間も出先のスーパーで、制服にアイスを付けられた。

 何より梅宮とじゃれている場面を佳世に見られるなんて、「アルマゲドン」級の大災難だ。今にも泣き出しそうな佳世を突き付けられた時は、ジョン・マクレーンになった気分だった。


 それにしても、梅宮の行動は小春にとって意外だった。

 ピンチに陥った小春のために、奴自身が恥をかくような嘘をつく?

 おかげで的外れな誤解を抱かれずに済んだのは事実だが、咄嗟とっさに思い浮かべたのとは真逆の行動だ。予想では「小春ちゃんと付き合ってる」などと、佳世に即絶交されるホラを吹くはずだった。

 夜の墓場で小春が凍えていれば、奴自身が震えるのもいとわずに上着を貸してくれる。カラオケから出た後は、送り狼とうそぶきながら暗い帰り道を一緒に歩いてくれた。

 表面上は二枚舌の種馬でも、実際は並の男以上に気を配ってくれている――。

 この何日かで、ごきぶりホイホイのように女を集める理由が少し判った気がする。


 二度と佳世に近付くな!

 中庭で梅宮を見付けた時に叩き付けてやると息巻いた一言も、結局、演技の範囲内でしか口を突破させられなかった。ひょっとして、恩に仇で報いるような気になってしまったのだろうか。

 いや、小春は佳世から梅宮を奪うことに気が引けてしまったのかも知れない。

 君に興味がある――。

 憧れの人に告げられた佳世は、シャンデリアのように瞳を輝かせた。

 あれは、舞踏会に行けると知ったシンデレラの目だ。

 梅宮が何気なく唱えた呪文が、来週には他の六日に埋没まいぼつしていたはずの二四時間を、今年一年で最も忘れられない記念日に変えてしまった。


 あの後、佳世はご所望のパンに一口も手を付けずに、ぼ~っと雲を見送っていた。小春が声を掛けても、口にするのは生返事ばかり。心が肉体の在処ありかにないのは明らかだった。きっと今も、夕御飯の代わりに昼時のやり取りを反芻はんすうしていることだろう。

 子供会のキャンプで――そう、監獄に等しい生けすで魚を授かった時も、今日ほど瞳は輝かなかった。佳世は普通に話して、忘れずに焼き魚を頬張って、ぺたんこの胃に燃料を補充した。


 ガラスの靴のお姫さまは、小春が想定していた以上に王子さまを慕っている。

 一時いっときの気の迷いと決め付け、強引に引き離す?

 先週の自分を客観的に眺めてみると、言いなりの召使いを失いたくない継母ままははが、カボチャの馬車を打ち壊しているように見えてくる。


 佳世の気持ちの強さを、梅宮の本当の姿を考えるなら、奴に大切な友達を託してみてもいいかも知れない。

 理由はどうあれ、命懸けで悪党と戦っている男だ。腕っ節も満点。奴なら東京が炎に包まれても、佳世を守り抜いてくれる。

 お嬢さまの佳世は何をするのにも受け身で、自分の意思をはっきりと口にすることも出来ない。

 好意的な言い方をすれば、押せ押せのギャルにはない柔らかさがある。三月一四日には三倍返しだの、メールは一分以内に返せだのと、現代的恋愛作法をき、彼氏に窮屈な思いをさせることもない。が強い今時のJKに見飽きた梅宮を、他の女に見向きさせなくする力は充分ある。

 ガラスの靴を履いた後に不幸な別れが待っているとしても、登校と帰宅のルーチンワークを強要し続けるよりは良心的だ。負った瞬間には苦痛にしか思えなかった傷も、長い目で見れば佳世が強くなっていくための助けになる。


 何も特別な儀式は必要ない。

 ポケットのスマホを出し、梅宮に電話を掛け、言葉を並べればいい。

 佳世をお願い、と。

 たったそれだけで、佳世に最高輝度さいこうきどの笑みをお取り寄せしてあげられる。

 そう、小春は理解している。


 なのに、スマホに向かわせた手は、ポケットの入口で足踏みするばかり。


 しっかりしろ!

 そうやって自分を追い立てるほど、脳裏に母親が消えた後の自宅が広がっていく。左隣が空っぽになった寝室が鮮明に見えると、胸の真ん中に穴が空いたような寒気が、ただでさえかじかんでいた身体を震わせた。


 電話を掛ければ、また決定的な体温を失うぞ――。

 頭を揺らすほど物々しく乱れた心音が、頭痛と共に警告する。瞬間、階段を踏み外したように肩が上下し、ポケットの中の手が慌てて外に飛び出した。緊急地震速報のような大音量を聞いて、避難しなければと思ったのかも知れない。


 何で、何で出来ないんだ……!?

 業を煮やした小春は理想的な未来を想像し、思い通りに動かない身体を説得してみる。

 佳世と梅宮が固く手を繋ぎ、幸せそうに笑みを浮かべている――。

 言葉が映像に変わるに従って沸き上がってきたのは、どこかどす黒い感じのする悔しさ。

 佳世の楽しげな声を思い浮かべるほど、なぜかいぶされているようなイライラが強まっていく。ポケットに向かう予定だった手が頭に近付き、滅茶苦茶に髪を掻きむしろうとする。


 この気持ちは何だ?

 梅宮をやっかんでいる?

 自分が一〇年近くついやしても浮かべさせられなかった笑みを、奴は一ヶ月も掛からずに引き出してしまったから?

 だが佳世の隣に並ぶ梅宮を克明に思い浮かべてみても、歯軋はぎしりが起こる気配はない。むしろ半身浴を思わせる淡い安らぎが、憎々しげにシワを浮かせていた眉間を解きほぐしていく。

 もう小春には自分が判らない。内もものほくろに始まって、控え目なスリーサイズまで熟知しているはずの醒ヶ井小春が、コミュニケーション不能の宇宙人になってしまった。少し自制心を緩めただけで、混乱と苛立ちのあまり雄叫おたけびを上げてしまいそうになる。

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