③グレムリン
職員室に侵入して以来、そろそろ歩むばかりだった小春の足が急激に下がっていく。たちまち背中がロッカーに衝突し、その上に置かれていたバスケットからピンポン球がこぼれ落ちた。
ぽん、
ぽん、
ぽんと低くバウンドしていった放物線が、活き活きと脈打つ肉塊に近付いていく――。
やめろ! やめてくれ!
声にならない祈りを連呼し、小春はピンポン球に手を伸ばす。
なめらかな球面に指が触れ、指紋から生じた摩擦が放物線の勢いを
間断なく蠢いていたそれが、ピタリと動きを止める……。
不穏な静寂が小春を包囲し、一瞬にして背筋が手足が凍り付く。冷や汗と呼ぶには
本来なら無音に終わりを告げるのは、か細い水音だったのだろう。
だがその前に甲高い大合唱が響き、延々続いていた耳鳴りを打ち壊す。
ちぃ! ちぃ! ちぃ!
肉塊から「こけし」大の突起が起き、起き、起き上がり、先端に豆電球のような光を灯していく。
眼光だ。
プレーリードッグのように立ち上がり、真っ赤な瞳を光らせている。
墓場で梅宮を囲んでいた、あの小動物が。
視界を歪ませるほどの
判らない。判らないのだ。怪物が
もしかして、どこかの暇人が自分を
「も、もう判ったよ、ごめんなさい。ごめんなさいって」
悪趣味なドッキリを終わらせようと、小春は薄ら笑いを浮かべる。
口を開いた瞬間、体内に
目を
とてもドッキリで流せる量ではない。
では夢か?
だが背中に密着しているロッカーは、
間違いない。
目前の光景は、現実の枠内で起こっている。
熊谷先生は本当に襲われている。
そして小動物の出っ歯には、皮膚を食いちぎり、肉を裂く威力がある。
だとすれば、
だとするなら……。
小春の現在地は檻の中だ。
世界最小の猛獣が、熊谷先生の味に飽きたら?
考えたくもない可能性を頭に浮かべた途端、肉塊の隙間から覗く熊谷先生の顔が、洗面所でよくはち合わせる顔に変わった。
命の危機を悟った小春の本能は、
ダメだ! 逃げるな!
半泣きの一喝を胸に響かせ、小春は自分を制止する。後ずさろうとしていた足を無理矢理踏み締めると、嫌だ嫌だと膝が左右に振れた。
小春の手元に
肉塊の隙間から見て取れるのも、熊谷先生の顔だけ。
その下に肉が残っている保証はない。
でも校舎に残っているのは、小春と熊谷先生だけなのだ。ここで一方が背を向ければ、残る一人の明日が食い尽くされる。それだけは間違いない。
逃げてしまえ。他人が傷付いたって、お前は痛くも痒くもない――。
甘く囁く本音を絶叫で掻き消し、小春は肉塊にリュックを叩き付ける。
ネコのように空中で回転し、足から着地した小動物たちは、不意打ちを食らわせた小春を憎々しげに見上げる。
来るか!?
反撃を予期した小春は、リュックを盾のように構える。
固い唾が喉を下った矢先、サッカーのホイッスルを思わせる高音。
職員室中に響いたそれは、試合終了の合図だったのだろうか。イレブンと言うには多すぎる大群が小春の間合いから退場し、肉塊へ戻っていく。
どういうことだ?
小春は唇を震わせるのも忘れ、目を白黒させるしかなかった。
女性ホルモンが初期不良の誰かより、メタボな熊谷先生のほうが食いでがあるのは確かだ。だがホイッスルが鳴る直前まで、奴等の目は鎌首を
何にしろ、反撃を受けないのは好都合だ。
大きく頷き、気合を入れ直した小春は、肉塊をリュックで薙ぎ、上履きで叩き、また薙ぐ。
追い払っても追い払っても追い払えない。
吹っ飛ばした側から、机を床をカーテンレールを伝って肉塊へ戻って来る。
全力疾走した後のように息を荒げても、汗がブラウスをべとつかせていくばかり。これなら、麦畑からイナゴの大群を追い出すほうが簡単かも知れない。
「いい加減、どっか行けぇ!」
あまりの不毛さにやけっぱちになった小春は、頭の後ろからリュックを振り下ろす。鈍器として使っている内にファスナーが緩んだのか、大量の小動物に交じってリュックの中身が宙を舞った。
何か効果的な武器はないか!?
現状を打開する
真っ先に目に入ったのは、夏から放り込みっぱなしの
これと熊谷先生の机にあるライターを使えば、即席の火炎放射器を作れる。執拗に戻って来る小動物たちも、
ただ火葬は無理だとしても、「広範囲に散布する」と言う特性は魅力的だ。
使い方次第では、大群を一網打尽に出来るかも知れない。
何か、何かうまい道はないか!?
一度見付けた希望に見切りを付けられない小春は、缶を転がしながら思案してみる。注意書きを読んでみたり、底を覗いたりと右往左往していた視線を呼び止めたのは、表面に記された売り文句だった。
メントール入りでサッパリ!
太字のゴシック体を黙読した瞬間、小春の頭の中に佳世から聞いたトリビアが鳴り渡る。
害虫とかネズミは、メントールが苦手なんだよ――。
ちぃ!? ちぃ!?
汗ごと夏を吹っ飛ばすような一撃を浴びた小動物たちは、
離れていく。
世界一粘着質だった小動物たちが、我先に熊谷先生から離れていく。
ようやく確認出来た手足にはちゃんと肉が残っていたが、よかったとは言えない。何度となく出っ歯を突き立てられた肌は、まるで傷跡の
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