第八章『死外』

条件その① 人殺し

 中庭からあおぐ太陽は、学食で見た時よりも傾いていた。

 マンションと工事現場の隙間から、玲瓏れいろうとした薄日が差し込んでいる。

 屋上から吹き下ろす寒風は、自然と顎を襟に沈み込ませていく。

 でも、世間の目よりは温かい。

「ちったぁ自重じちょうしちゃえだあ? 大人ってイヤ、何も判ってくれない、だからキラい。改ちゃんが誘ってんじゃないの。女子のほうが近寄って来ちゃうの」

 ピーコ寄りの甲高い声で毒突くと、改は腹いせに足下の空き缶を蹴り上げた。見事ゴミ箱にナイスシュートが炸裂し、体育館に繋がる通路から黄色い声が上がる。


「たっちゃんセンパーイ!」

 大きく手を振っていたのは、三人組の少女だった。

 短いブレザーに白いワンピース――中等部の制服だ。

 あちらにはまだ、根も葉もない噂が届いていないのだろう。

「は~い、改ちゃんどぅぇ~す♪」

 声援に応えて手を振り返すと、たちまち鼓膜に優しくない悲鳴が上がる。無邪気なJCたちが抱き合いながら跳ね回ると、胸部の果実が甘酸っぱく上下した。

 第二次性徴の完成形を迎えつつあるJKに比べて、発展途上な感は否めない。とは言え、ショートカットの少女のそれはなかなかのデカ盛りだ。「海抜ゼロ㍍地帯」なハイネと向き合っていたせいで、砂場のお山をチョモランマと誤認しているだけかも知れないが。


「まだまだアドレス帳には空きがあるし」

 新たな獲物に狙いを定めた改は、下半身に引っ張られるまま足を踏み出す。

「中等部の子にも手ぇ出してんのか、お前は」

 自販機のかげから聞こえてきたのは、呆れと諦めの同居した声だった。

「そのキュートな声はあ、小雪ちゃんだあ」

「……私はいつから江口えぐち洋介ようすけの妹になったんだ」

「ジョークだよ、小粋なジョーク。小春ちゃん、醒ヶ井小春ちゃんでしょ?」

 福山ふくやまっぽい口調で訂正した改は、みーつけた! と自販機のかげを覗き込む。

「きゅ、急に見るなあ!」

 小春は慌ただしくけ反り、げていたビニール袋を背中に隠す。一人分にしては嵩張かさばっているところを見ると、また教室で待つ「ヒナ」にご飯を届けてあげようとしているのだろう。


 わたわた隠した以上、「管理」と言う指摘を気にしているのは間違いない。

 少し意地悪しすぎた?

 いや、ロクに喋ったこともない小娘に、色魔しきまだのスケコマシだのと罵られたのだ。本心のまま小春を亀甲きっこう縛りの刑に処したとしても、世間は改を非難しない。


 それに小春が口走った、「佳世の『ため』」と言う一言――。


 誰かがあの言葉を使うと、駄目だ。

 改は冷静でいられなくなる。

 彼や彼女の尻馬に乗って、人でなしの自分自身が甘く囁きかけてくるから。


 お前はチンピラにボコられる度、腹を立てるどころか、反撃一つ出来ない自分を嗤っていた。

 お前は聞く側から語られる立場になった今でも、怪談に絶叫している。

 世界の誰より自分が嫌いで、銀玉鉄砲一つまともに撃てない臆病者――。

 そんな男が自分自身の怒りや憎しみだけで、引き金を引けたはずがない。

 木から飛び降りるのにも二の足を踏む意気地なしに、容易たやすく引き返せない一歩を踏ませるのは、常に彼女の泣き顔だった。

 お前は彼女のために殺したんだ――。


 外野には筋の通った理屈に聞こえるかも知れない。

 だが改に言わせれば、自他の叱責から逃れるための自己弁護でしかない。

 万が一、自分のためだけに凶行を重ねたわけではないとしても、安い美談でじょう状酌量じょうしゃくりょうされるほど人の命は軽くない。ましてや提言を受け入れた時、自分の胸が軽くなる代わりに彼女がどうなるか、梅宮改は痛いほど理解しているはずだ。

 正論ぶった演説を聞く度、自分自身の浅はかさが浅ましさが憎悪の炎を沸き立たせる。目の前が真っ赤に染まって、普段でも――そう、視界が透明な時でも存在感の薄い理性が、すっかり見えなくなってしまう。


 だからと言って一〇歳近く年下の女の子に当たってしまうとは、我ながら呆れ果ててしまう。梅宮改と言う男はどこまで子供っぽく、器が小さいのだろう。

 他人がどんなにご立派なポリシーを持っていようと、小春が「ため」を口にしてはいけない理由にはならない。誓いや決意で縛っていいのは自分だけ。誰かを束縛した時点で、世界中が涙するご高説もただのワガママになる。


「改ちゃんに逢いに来てくれたの~?」

 大袈裟なラブコールで自分への失望を紛らわせながら、改は小春に駆け寄る。

「ジュース買いに来ただけ!」

 小春はがさつに足を振り、さかりの付いたオス犬を追い払うと、ポケットから二つ折りの財布を出した。

 ピンクのエナメルに小振りなリボンと、高校生にしては幼いデザインだが、オ・ト・メとしては及第点だ。少なくとも、がま口inヘビの抜け殻を愛用しているハイネに比べれば、二〇〇倍は女子力が高い。

 ハイネに負けず劣らず小柄な彼女は、最上段のボタンを押すだけでつま先立ちになり、目一杯腕を伸ばしている。一八二㌢の改には生涯取ることのない体勢だ。


「ねぇ、ミケランジェロさんって二重人格なの?」

 取り出し口へ缶が落ちる音に、小春の質問が重なる。

 彼女がダニエル・キイス的な設定を疑うのも無理はない。

 学校では保健室LOVEラブ――。

 ガード下では流血戦の申し子――。

 武藤むとう→ムタばりの劇変ぶりは、「気分屋」や「ぶりっ子」で片付けられるレベルではない。


「いんや、学校にいる時も競艇場きょうていじょうにいる時も、人格は暗黒大魔王。F乳えふちちをチラ見してくる男子には、パイプ椅子の一発もお見舞いしたいと思ってるよ」

「じゃあ何で、学校に鑑識が入ったことないの? って言うか、吠えたこともないよね?」

「小春ちゃん、偉いなあ」

 ほっこりした気分に目を細めると、改は小春の頭を優しく撫でた。

「ひゃぁ!」と奇声を発した小春は、顔を真っ赤にし、買ったばかりのオレンジジュースを振り回す。

「お酒呑んだことないでしょ? 二日酔いってパねぇんだよ。ロード・ウォリアーズみたいな声なんか出したら、スープレックスばりの鈍痛が後頭部を襲っちゃうんだ」

 確かに一睡もせずに晩酌ばんしゃくしていれば、ベッドが恋しくもなるだろう。だからと言って、保健室に日参するミケランジェロさんを、仮病と疑うのは見当外れだ。彼女は本当に具合がよくない。主に脳の。


「ミケランジェロさんのバイオリズムって、太陽の高さに反比例して上向くの。朝は死人、昼間は粗大ゴミ、夕方からラリアットにキレが戻って、夜の一杯で栓抜きの扱いが神になるの」

 余談だが、「朝は寝床でガーガーガー♪ 夜は墓場でデスマッチ♪」と言った性質から、改の同僚の間では「ミケランジェロさん吸血鬼説」が唱えられている。日常的に虐待……ゴホン、熱血指導を受ける少女は、杭を握り締めながら彼女の寝室の前を徘徊する姿を度々目撃されている。


「もう一つ、質問いい?」

 問い掛けながらつま先を伸ばし、小春はまた自販機の最上段に手を伸ばしていく。

 ふらつく姿を見かねた改は、彼女の横に立ち、代わりに紅茶のボタンを押してやる。取り出し口から缶を拾い上げ、戸惑い気味の小春に差し出すと、彼女は不本意そうに下を向き、「……ありがと」と呟いた。

「お前は何で正義の味方なんかやってんの?」

「せーぎのみかた、ねえ」

 変身して怪人と戦う場面だけを見れば、なるほど、正義の味方に思えなくもない。現実にはただ、化け物が考え方の違う相手を虐殺しているだけなのだが。


「不自然?」

「ちょお不自然。梅宮改って言ったら、不誠実一〇〇㌫搾りだもん」

 にべもなく言い切った小春は、オレンジジュースの缶を突き出し、果汁表記を見せ付ける。

「まあドイヒー。こんな良識と善意の塊を捕まえて」

 嘘泣きしながら、改は手で顔を覆う。

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