⑦AA

「謎は全て解けちゃったり。探偵さんには恋する依頼人がいらしたのね」

「どいつもこいつも愛だ恋だのくだらねぇ♪ アタイはもう寝るぜ♪」

 にべもなく吐き捨て、ミケランジェロさんはソファに寝転ぶ。素っ気なさが不二子ふじこ絡みと知った時の次元じげんだ。

「か、佳世は私に依頼なんかしてない……」

 小春は明言し、佳世が友達に身辺調査させるほど下品な女ではないことを伝えておく。秘密を暴露した挙げ句、根も葉もない悪評まで立てるわけにはいかない。


「となると、小春ちゃんの独断か。親友の惚れた男子がどんな野郎か探らなきゃってトコ? うるわしい友情だなあ。俺、女子の友情とあの世は存在しないって確信しちゃってたよ。バカバカ、汚れちゃった俺のバカ。東京には染まらないって、夜行列車の中で誓ったのに」

 おしぼりで目を拭いながら語ると、梅宮改は大都会に毒された頭をポカポカ叩き始めた。

「お前、どこ出身?」

荒川区あらかわく町屋まちや

 やっぱこいつは信用出来ねぇ。

 ゲンジボタルの口は水しか飲めない。梅宮改のそれはデタラメしか吐けない。二枚舌を動かせば、その場しのぎと思い付きがセッションし、相手をけむに巻く。どう考えても、付き合って幸せになる男ではない。


「……絶対諦めさせてやる。お前みたいな色ボケに佳世をもてあそばれてたまるか」

「熱いなあ。素行を探る? ううん、パパラッチして幻滅させちゃおうって顔だ」

 ソファに腰掛けながら小春の魂胆を暴くと、奴はグラスにフーフーと息を吹き掛けた。

「って言うか、何で応援してあげないの?」

 心底不思議そうに訊くと、梅宮改はミケランジェロさんのベレー帽を拝借し、聖書代わりの端末を胸に当てる。

「誰かが誰かを好きにナル! 素晴らしいじゃアリマセンカ!」

 奴の喋り方は宣教師――と言うか、「笑っていいとも! 年忘れ特大号」オープニングのタモリだった。悪ふざけとしか思えないクオリティも、ものまね歌合戦そのものだ。

「街を見てクダサイ! 愛で溢れてマス! あの女子もこの女子も幸せそうデス!」


「お前なんかに佳世を幸せに出来るはずがない……!」

 不真面目な態度と無責任な発言が、小春の胸に怒りの大火を広げていく。正論を賞賛してくれたのか、奥歯を噛み締めた矢先、顎がきしむ音にやる気のない拍手が重なった。

「一年で四〇〇人女が変わる色情狂だよ、そいつは♪」

 ポリポリ尻を掻いたミケランジェロさんは、奴からベレー帽を奪い返し、アイマスクのように顔へ乗せる。たちまちイビキの独奏会が始まり、「ワルキューレの騎行」っぽいメロディを奏で始めた。


「ヤだなあ。俺はただ負け組……ゴホン、他のかわいそうな男子より女子と仲良くしちゃってるだけだったり。これからは小春ちゃんとも仲良くしちゃいたいな」

 王子さまとしか言いようのない笑みで顔を塗り固め、梅宮改は小春に手を伸ばす。ノータイムで不夜城へのお誘いを振り払った小春は、床を踏み鳴らしながら奴に詰め寄った。

「佳世は私が守る! お前なんかに手出しはさせない!」


「君が守りたいのは、本当に佳世ちゃん?」

「他の誰だって言うの!?」

 反論すると同時に、小春の鼻息が奴の前髪を巻き上げる。

「静かにしろよ、こちとら徹マン明けなんだよ♪」

 イビキの合間に苦情を入れると、ミケランジェロさんはごそごそティッシュに手を伸ばし、丸めたそれを耳に詰めた。

「小春ちゃんが守りたいのは、小春ちゃんの世界だったりしちゃうんじゃないかなあ。ほら、佳世ちゃんが傷付けば、小春ちゃんも嫌な思いしちゃうじゃない」

 一瞬、神経に触れられたような鋭い痛みが走り、小春の胸はにわかにざわつく。


 小春が身の危険を冒してまで真実に踏み込んだのは、もう二度と立ち尽くす佳世を見たくないから。「見たくない」に焦点を合わせるなら、「小春自身が嫌な思いをしたくない」と言う指摘は正しい。

 でもそれは、言葉尻を捉えただけの邪推だ。

「見たくない」のは佳世に辛い思いをさせたくないから。一生自責の念にさいなまれるのが恐ろしいわけではない。

 醒ヶ井小春は自分のことなど二の次にして、佳世の平安を願っている。我が身の安全と真実を天秤に掛け、銃声の近所を選んだのが根拠だ。


「……私は佳世を大切に思ってる。佳世は一番大切な友達だ」

 高らかに宣誓するつもりだった一言が、小春の意に反してか細く掻き消える。うつむきがちな呟きは、第三者への声明と言うよりも、むしろ自分に言い聞かせているようだった。

「じゃあなんで、俺が佳世ちゃんにベタ惚れするかもとか考えないの? 佳世ちゃん以外のメアド、全部削除しちゃうかもよ?」

「本気で言ってんの……?」

「大事なお友達、親友――改ちゃんの辞書的には、人間性に信頼を置いてるって意味だったり。なら男を見る目も信じてあげちゃえるよねえ?」

「わ、私は、私は……」

 理路整然と言い返したいのに、小春の口から出るのはぶつ切りの一人称ばかり。これではまるで、梅宮改の発言が的を射ているようではないか。


「あ、そっか。小春ちゃん、信じてないんだ、阿久津佳世を」

 異議がないのをいいことに奴は深々頷き、これ見よがしに親指を鳴らした。

 パチン! と部屋中に響くそれに合わせて、理性とか自制心とか呼ばれる何かの切れる音が小春の脳裏に木霊こだまする。束縛から解き放たれた激情が暴れだした瞬間、小春は壁に拳を、梅宮改の顔面に怒号を叩き付けた。

「オマエに何が判る!」

 天井が震えると共に蛍光灯から埃が降り、テーブルのトマトジュースに高波が走る。ドアの外にまで声が届いたのか、廊下の店員さんが足を止め、怪訝そうに室内を覗き込んだ。

「私は全部佳世のために……」

 声を肩を戦慄わななかせながら、小春は血管の浮いた両手をポケットにしまい込む。閉じ込めておかないと、奴の顔に突っ込んでしまいそうだった。


「……ために、か」

 小さく漏らした瞬間を境に、奴の顔から薄ら笑いが消えた。壁際の聴取でも見られなかった反応に困惑をいられた小春は、怒りも忘れて奴に注目する。

「小春ちゃんは守るって言葉を盾にして、佳世ちゃんを管理してるんじゃない?」

 トマトジュースを顔の前に運んだ奴は、グラス越しに左手を眺める。

 中途半端に開いたそれは、手を繋いでいる相手に突然消えられたようで、何となく哀れだ。


「小春ちゃんは偉いと思うよ。親鳥みたいにご飯運んであげて、男を好きになったって聞けば、寒空をものともせずに素行調査を実施する。けど現実問題、どんなに仲のいい友達だって、ずっと一緒にはいられない。君たちにも離れなきゃいけない時が必ず来る」

「そんなの判ってるよ!」

「じゃあ、小春ちゃんが離れたらどうなるかもご理解頂けてるよね? 頼りになる誰かの指示を待つばかりで、自分じゃ判断を下せない。守られてたせいで痛みに免疫もない。独りじゃご飯も買えない。さてさて、どーやって生きていくんでしょう、この人は」

 皮肉っぽくのたまうと、梅宮改は一転して優しく目を細める。

「まだ守ってあげるのが、佳世ちゃんの幸せだって信じられる?」

 さとすように柔らかい口調が、逆に小春の目を血走らせていく。

 奴は自分を対等に見ていない。それどころか、完全に駄々っ子扱いしている。


「私はずっと一緒にいる! 同じ大学に行って結婚もしない!」

「あ~ら、勿体もったいない。かわいいお顔してるのに」

「私が佳世を養ってあげてもいい! お前に心配してもらう必要なんかない!」

「そっか。なら佳世ちゃんは一生安泰だね。けどさ、小春ちゃんの人生はどうなのかな?」

「私は佳世が笑ってるだけでいい! 他に幸せなんか要らない!」

「小春ちゃんはそれでご満悦かも知れない。けど佳世ちゃんは? 自分の自由を捨てて、阿久津佳世に尽くす――そんな小春ちゃんと一緒にいて、心から笑えると思う?」

「それは……」

 不覚にも口ごもり、小春は梅宮改から目を逸らす。

 言い返せなかったのは、その前に考えてしまったから。

 自分が佳世の立場だったら? と。


 佳世が家族も作らずに、汗水垂らして自分の生活費を稼ぐ?

 想像するだけで息が詰まる。

 自分を大切に思ってくれているのは嬉しいが、人生を捨てるほど尽くして欲しくはない。むしろ家族のついでにお裾分けでもしてくれたほうが、よほど屈託のない笑顔を見せられる。

 本人の幸せを忘れた献身は、優しさの皮をかぶった拷問だ。大切な人が無理しているところを、一番近くでただ眺めさせられるなんて、責め苦以外の何でもない。

 赤ちゃんや子供は、甲斐甲斐しく世話を焼いてもらわなければ生きられない。

でも小春には、佳世と遜色のない手足がある。お金を稼げるし、ご飯も作れる。

 佳世に頼り切った毎日に、負い目を感じるのは避けられない。家事に仕事に粉骨砕身する佳世の傍らで、四肢を遊ばせている歯痒はがゆさは、間断なく小春の胸を締め付けるだろう。


 負い目のある小春から、もう自然な笑みは出て来ない。せめて明るい顔でねぎらわなければと肩に力が入るあまり、佳世に見せる表情には強張こわばりが生まれる。いびつに曲線を描く唇は、言葉より雄弁に本心から笑っていないことを伝えてしまうだろう。

 献身が小春を苦しめていると知った佳世は、安らぐどころか思い悩む羽目になる。そして佳世の素振りから苦悩を悟った小春もまた、自分を責めることになる。どうしてもっと上手に笑えないんだ、と。

 佳世と歩む時間は、もう痛みしか生まない。無力な自分が大切な友達を苦しめていると悟った小春は、遠からず佳世の側を離れるだろう。


 佳世から遠ざかっていく自分を想像した小春は、固く誓う。

 その時は梅宮改に頭を下げて、佳世の中から自分の記憶を消してもらおう。

 交わした言葉も繋いだ手も、振り返れば傷付け合った日々に辿り着く。思い出す度に顔を曇らせる記憶なら、ないほうがいい。


 笑わせたいと腐心するだけ、佳世が離れていく――。

 思いも寄らなかった未来予想図が、吐息以外の発音を封じる。小春の唇が薄く開いたまま硬直すると、見る見る部屋中に沈黙が広がっていった。

 このまま世界から音が消えてしまうのではないか?

 小春が沈黙のパンデミックを杞憂きゆうした矢先、梅宮改がトマトジュースを飲み干す。ごくごくとこれ見よがしに喉が鳴り、静寂以外を禁じるような空気を追い払った。

「まあ、佳世ちゃんと親しくなって欲しくないのは判っちゃうけどね。俺と仲良くした女子って、最終的に絶対吐き捨てちゃうんだもん。『センパイには人の心がない!』とか」

 濡れた唇を拭う奴の顔には、いけ好かない薄ら笑いが戻っていた。

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