②コード・ブレイカー

「正直、巻き込みたくないんだよね。このまま帰っちゃうなら送ってくけど?」

 家に帰れ――。

 梅宮改の尻馬に乗り、理性的な心の声が小春に耳打ちする。

 確かにご忠告の通りだ。テロリストがドンパチしている理由なんて知らないほうがいい。変に秘密を聞かされた日には、賛美歌13番がリクエストされる。


 奴を追求する動機が単なる好奇心なら、二の足は踏まない。

 ドアを出て、家に帰り、ベッドに入って全部忘れる。

 だが今、小春の選択には佳世の未来が懸かっているのだ。

 この先、一生M16に怯えなくてはいけなくなっても、おいそれとこの場を離れることは出来ない。


 このまま佳世を野放しにしておけば、いつかは水牛を目撃する。ミケランジェロさんが第三者の介抱を必要とするレベルの飲酒を続けるなら、二〇〇㌫間違いない。最低限、奴等の正体と目的くらいは確かめておくべきだ。

 第一印象通りのヒーローなら、佳世が危害を受ける懸念は消える。あわよくば、どの程度近付いたら見なくていい光景を目の当たりにするかも見極めておきたい。佳世を自由にさせておく範囲を線引き出来る。


 ――所詮、他人だろう? 佳世が撃たれてもお前が死ぬわけではない。

 危険を冒してでも佳世のために行動しようとする小春に、再び心の声が囁く。

 佳世を守らないのか!

 反射的に怒鳴ると、小春はグラスに目を飛ばし、鏡像の中に潜む心の声を睨み付けた。

 逃げない、逃げるもんか……!

 自分の決意を知らしめるため、ソファの肘掛けにしがみつきながら繰り返す。テーブルもカラオケ用のテレビもドアの前に積んで、バリケードにして、醒ヶ井小春を見くびっている心の声に見せ付けてやりたい。


 勿論もちろん、心の声の指摘する通り、佳世との間に血の繋がりはない。付き合いは長いが、ただの友達だ。世間一般的なそれと比べて、劇的な出来事があったわけでもない。

 始めての友達?

 幼稚園の頃から駄菓子屋に行けば、誰かしらカン蹴りに誘ってきた。

 イジメから助けてもらった?

 教科書に落書きした山本やまもとくんに、抜けかけの乳歯がブッ飛ぶエルボーをお見舞いして以来、男子からも女子からも畏怖いふの眼差しを向けられていた。


 なぜ赤の他人のために命を危うくするのか?

 客観的に問い掛けてみると、小春自身にも答えられない。

 だが心の声が佳世を見捨てようとした途端、怒りが沸き立ったのは事実だ。誰かが小春より我が身の安全を優先させても、ここまで腹は立たない。親子でもないのだから仕方ないなと、もう少しは達観出来る。


 気になってきた小春は、佳世との日々を振り返り、憤りの秘密を探ってみる。

 醒ヶ井家から徒歩二分の空き家に「阿久津」の表札が掛かったのは、小三の二学期だった。何でも父親を事故で亡くしたのをきっかけに、親戚のいる荒川区あらかわくへ越してきたらしい。


 引っ越しの挨拶に頂いたマカロンは、一〇年近く経った今でもはっきりと舌のライブラリに残っている。思い出すだけで、パブロフの醒ヶ井小春だ。

 焼きたてのトーストを思わせるさっくりした生地に、柔らかくきめ細かなクリーム……。

 無心にぱくついても、胸焼け一つ起こらない。

 むしろ食べるだけ、甘い爽やかさが口中に広がっていく……。

 酢昆布と麩菓子ふがしを常食にしていた少女には、マサイ族が飛行機を見たような衝撃だった。

「こんな旨い菓子があったのか。死んだ爺さまにも食べさせてやりたい」と、七〇年に渡って葛飾かつしか足立あだち荒川あらかわと東京のスラムを遍歴へんれきしてきたおばあちゃんも、テンプレ的にむせび泣いていた。


 阿久津のおばさん――佳世の母親を始めて見た時、小春はその白さに驚いた。

 元々は東京のビバリーヒルズ、世田谷せたがやだか渋谷しぶやだかのお嬢様で、父親――佳世の祖父は貿易商だったらしい。大掃除中に発掘した写真には、「有閑倶楽部ゆうかんくらぶ」でしか見たことのない洋館が映っていた。

 お召しものは基本的に、カイコの糸やカシミール地方のヤギさん。小春が熱弁するまで、石油から繊維が出来るのを都市伝説だと思っていた。

 身体はあまり強くない。色白なのも外に出ないためで、買い物も最大限通販で済ませている。旦那さんを亡くした後は、それまで以上に体調を崩しやすくなったそうだ。今も三ヶ月に一回は検査入院し、佳世が醒ヶ井家にお泊まりする。

 佳世の口から、父親の話はほとんど出ない。

 とは言っても避けているわけではなく、単によく憶えていないそうだ。大企業の渉外部しょうがいぶに勤めていて、週に一回帰って来ればいいほうだったと言う。


 阿久津家の事情を知った小春のおばあちゃんは、その日からお節介を焼き始めた。ありがた迷惑ではと心配する小春を余所よそに、阿久津のおばさんは浅漬あさづけやカボチャの煮物を歓待かんたいした。

 個々の屋敷が塀を張り巡らせ、セコムしている土地から来た阿久津家には、各世帯の間に薄壁一枚しかないスラム街の人情が物珍しかったのだろう。四年生になる頃には、おばあちゃんの十八番、キンメダイの煮付けが佳世の好物になっていた。


 阿久津家との交流が活発になる内に、自然と小春と佳世の距離も縮まっていく。

 始まりはおばあちゃんの上官命令だった。「仲良くしないと晩飯抜きだよ」と兵糧ひょうろう攻めを仕掛けられては、無条件降伏するしかない。

 正直、出会って間もない頃は佳世が苦手だった。

 何しろお裾分けを届けても、ずっと母親の後ろに隠れている。強い口調で促されても、ありがとう一つ言わない。始めて部屋に行った時は、ぎゅっと唇を結び、機械的にババを避けていた。


 かと言って、独りが好きなわけでもない。

 沈黙に耐えかねた小春が近所の子供とカン蹴りを始めれば、とろとろと後を付いて来る。挙げ句、小春がポコペンしようと走りだした途端、行かないでとばかりに背中を引っ張る始末。何度、後頭部とアスファルトの接触事故を引き起こされたか、判ったものではない。今思えば、佳世と遊ぶようになってから、通信簿がかんばしくなくなったような気がする。


 根暗で、鈍臭く、はっきりしない――。

 独りで逆上がりでもしていたほうが、ずっと笑顔になれる――。

 それでも、上官命令は絶対だ。

 逆らえばお小遣いの減俸げんぽうと言う銃殺刑に処される。


 それに、メリットもあった。

 三時のティータイムに阿久津家へ行けば、お取り寄せした銘菓、果物にありつける。阿久津のおばさんはしっかりした人で、佳世が醒ヶ井家を訪れる時も必ずおみやげを持たせた。あの頃は佳世を「歩く物産展」と思っていた気がする。

 抹茶ロールのかぐわしさが、マスクメロンの瑞々しさが、沈黙の重圧を中和していく――。

 年が明ける頃にはまんまと餌付えづけされ、放課後は佳世と過ごすのが小春の日常になっていた。

 何だかんだ言って、醒ヶ井小春にもスラム特有のお節介さが遺伝していたのだと思う。確かに、佳世がノロノロしているとイライラした。でも同時に、何とかしてあげなきゃと思った。


 それ以上に共通する境遇が、佳世を放って置かせなかったのかも知れない。

 佳世が父親を失っていたように、小春にも母親がいない。

 小二の夏、父親と別れて出て行った。

 今の時代にしては珍しく、クラスにも町内の手下にも、他に片親の子供はいなかった。

 体裁よく言えば、佳世に近付いたのは親近感を抱いたから。

 本音は期待だ。

 この子にしか気持ちを判ってもらえないと、他によりどころのない二人がなし崩し的にもたれ合った。


 小春は阿久津のおばさんに母親を見ていたのかも知れない。

 実際、一時期は父親と再婚すればいいと本気で考えていた。

 佳世は佳世で団欒だんらんを知らない。

 父親は家庭より仕事に時間をいた人で、祖父母は既に亡くなっていた。

 自分と佳世は知らない温もりを求める内、副産物的に接近したのではないか?

 邪推すると、記憶の中の二つの笑顔が、半ベソにかぶせた仮面に見えて来る。痛々しくて直視出来ない。

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