第二章『大魔王降臨』

①とてつもなく恐ろしい悪魔の気配がする……

 痴漢防止のポスターは、歳末コンサートの報せに立ち退きを喰らっていた。

「第九」の文字を冠しているのは、金管楽器を華々しく輝かせたオーケストラ。

タキシードの集団の右上では、ベートーヴェンがしかめっ面を浮かべている。どうやら集合写真を撮る日に休んでしまったらしい。


 改札口の手前にあるコンビニでは、サンタの帽子をかぶった店員がレジを打っていた。

 入口に飾られた横断幕と言い、店内を彩る赤と緑のモールと言い、本番は二週間以上先だと言うのにハッスルしすぎだ。この調子だと、当日はヒゲのフィンランド人がシフトに入るかも知れない。


 山下やました達郎たつろうの歌声ともかれこれ一七年の付き合いになる小春だが、この時期にだけはどうも馴染めない。


 ホイップクリームの甘い香りと、普段通りの醤油臭さ――。


 無意味にシャラシャラしたベルと、単調な拍子木ひょうしぎ――。


 この時期の街は、五感のどれに意識を向けても、日常と非日常がごった煮になっている。普段通りでいいのか、テンションを上げるべきなのか、小春には未だに正しい反応が判らない。

 六月を過ぎた頃から倦怠していた駅の空気も、一二月になって以来、何となく「ふわふわ」している。

 無理もない。

 こう人間の足が浮いていたら、律儀りちぎに地面を踏み締めている必要はない。この間、都心へ行くのに使った電車も、紅葉の季節より蛇行していた。


 ピピー!

 ジングルベルの伴奏に合わせて、構内に警笛が鳴り渡る。電車に押し出された空気がホームから階段、改札口へと吹き下ろし、冷え切った突風が小春の頬をはたいた。

 肌に細かい痺れが走り、手袋を着けているはずの指がかじかむ。切符売り場の人々がこぞってダウンを着込んでいるのも、納得の行く話だ。


 帰ろうよ……。

 震えの止まらない小春を見かねて、心の声が優しく囁く。同時に脳天からなんかポワポワした光の球がたち上り、頭の上にベージュっぽい謎空間を広げていった。きっと、マッチ売りの少女が出くわしたアレだ。

 ああ……、おこたに入ったおばあちゃんが手招きしている。


 駄目だ!

 断腸の一喝で誘惑をはね除け、小春は頭の中のおこたをひっくり返した。

 始めての家庭内暴力に仰天したおばあちゃんが、腰を抜かし、泡を吹く。

 少し心は痛むが、所詮は幻覚だ。

 それにここでおこたに入ったら、確実にネロ&パトラッシュ的な結末を迎える。マッチ売りはアレにたまを取られたのだ。


 ……これで我慢しろ。

 小春は自分に言い聞かせ、制服のポケットに手を突っ込む。少しでも身体を温めるために足踏みを始めると、リュックのキーホルダーが三三七拍子を奏でた。

 確かに暖房の効いた自宅は魅力的だ。

 だがここで一時の温もりに身を委ねたら、死ぬまで後悔する。昨日までと同じ波風のない日々が続くかどうかは、自分の一挙一動に懸かっているのだ。

 やり直したい――。

 佳世がボロ雑巾にされてから懇願したところで、もう遅い。年の瀬の寒さよりずっと耐えがたい痛みを、春夏秋冬味わい続ける羽目になる。


 佳世を守る決意を新たにし、小春はポケットのスマホを握り締める。

 まさか、腹をくくるのを待ってくれていたのだろうか。

 じっと監視していた男子トイレから、ついにターゲットが姿を現す。

 梅宮改だ。

 長々と小春を待たせている内に、奴は制服から私服に着替えていた。

 飴色のライダースジャケットに、ビンテージっぽいデニム。ネイティブ調のネックレスには、ターコイズと水牛の角があしらわれている。チャラ男らしくアクセサリー好きなご様子で、学校でもしているラピスラズリの数珠じゅずや、蹄鉄ていてつを模したシルバーリングも着けていた。


「ガイアが俺に囁いている」臭がしないと言えば嘘になるが、意外だったのも事実だ。

 自らの目で確かめるまで、小春は疑いもしなかった。梅宮改の私服と言ったら、マタギばりのファーやマトリックスばりのグラサンに違いない。

 だが現実には、ゴテゴテと盛られた服はおろか、柄物の一枚も身に着けていない。無地の青いシャツは、シルクのように品のいい光沢を滲ませている。ジャケットと色を合わせたブーツも、特につま先がとんがっているようなことはなかった。


 とは言え、没個性なわけでもない。

 過剰な装飾を排した服装は、筋肉質の長身を一段とシャープに見せている。

 所詮、ファッションなんて容姿に恵まれない人間の悪あがきなのかも知れない。

 その証拠に外国のモデルさんは、Tシャツにジーパンでファッション誌の表紙を完成させてしまう。同じコーデを秋葉原で見ても、スタイリスト=オカンとしか思えない。


 ……にしても、ますます怪しい。

 しなやかにつやめく革ジャケに、重厚なシルバーリング――。

 とても一万や二万で揃えられるコーディネートではない。

 一介の高校生に過ぎない奴が、どうやって先立つものを工面したのか?

 バイトに精を出した?

 家が金持ち?

 そんな噂を聞いたことは一度もない。

 これはいよいよ、「ツバメ」している可能性が高くなってきた。


 被写体に見付からないように柱の陰へ隠れ、小春はスマホを奴に向ける。

 手早くカメラを起動すると、自然と口角が吊り上がっていく。マッドサイエンティストっぽい笑みが噴きこぼれると、通り掛かりの子供が半ベソで逃げていった。


 尾行していれば、何かしら醜聞を掴めるかも――。

 その一心でストーキングしていた小春にとっては、まさに期待通りの展開だ。

 古人は言った。

 恋は盲目だ――。

 しかし、目をつぶっていられるレベルにも限度がある。

 ベッドの下からダブルピースな一冊が出て来た日には、一〇〇年の恋も冷めるだろう。


 金持ちのマダムと密会?

 あまつさえ「援助」してもらっている?

 完全にダブルピースだ。

 下品な感情に浮かれている佳世も、これはもう目を覚まさざるを得ない。いや男の不潔さを思い知って、金輪際、愛だ恋だのほざかなくなるだろう。


「……やっべえ、完全に遅刻しちゃった」

 スマホで時間を確かめた途端、梅宮改の顔は見る見る血色を失っていく。断頭台を前にしたように背筋を震わすと、奴はご自慢の長い足を大きく踏み出した。

 小春は小走りで柱の陰を渡り、駅の出口へ向かう奴を追う。


 チャーチャーチャチャチャチャチャ♪ チャーチャーチャチャチャチャチャ♪ チ

ャチャチャチャチャチャチャチャー♪


 追跡を再開した瞬間、小春の頭の中に「ビバリーヒルズコップ」のテーマ「アクセルF」が鳴り響く。小春の脳内で絶賛営業中のピカデリー小春では、銃を構えたエディ・マーフィー(吹き替え・山寺やまでら宏一こういち)がマシンガントークをかましていた。

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