⑤恋のから騒ぎ

「つーか、あいつ、ミケランジェロさんと付き合ってるんでしょ?」

 何気ない切り出し方はまさに世間話で、それがどれほど残酷な発言なのか理解していないようだった。小狡こずるい誰かさんは、親友に処刑宣告する人間だと思われたくなかったのだろう。

 額には汗一滴流れていないし、まばたきの頻度も普段通り。学芸会ではお目に掛かれなかった名演に、我ながら薄ら寒さがこみ上げてくる。


「……え?」と抑揚のない声を落とし、佳世は表情を凍り付かせる。

「三組の小池こいけさんが、二人でモルグ通り歩いてるとこ見たんだって」

 モルグ通りと言う名を聞いた佳世は、愕然とするあまりまばたきを繰り返す。

 保健体育の知識が乏しい佳世でも、流石さすがに知っているようだ。

 そこがご休憩とご宿泊の料金表を、桃色のネオンが照らす地帯だと。


「ぐ、偶然通り掛かっただけかも!」

 意外と往生際の悪い佳世は、珍しく強い口調で訴え掛ける。

「それだけじゃないよ。二組の土井どいさんが、視聴覚室で抱き合ってるの見たって」

「抱き合ってた……」

 何とか絞り出したのを最後に、佳世は床と見つめ合う。くすんだ木目を映す瞳はうつろで、佳世の心がここにないことを如実に物語っている。


 どうやら介錯かいしゃくが済んだようだ。


 恋に毒されたからと言って、略奪愛に走る佳世ではない。

 ましてや、相手はあのミケランジェロさんだ。

 佳世が握手会するレベルの美少女だったとしても、勝ち目はない。


「あやしーと思ってたんだよね、割と一緒にいること多いし。あのミケランジェロさんと熱愛中なら、他の女なんか遊びでしかないんじゃない?」

「……付き合ってるの、かな」

 臆病な自分を鼓舞するように拳を握り、佳世はゆっくりと顔を上げていく。

 どうやら小春は、恋する乙女のしぶとさを軽んじていたらしい。


「確かにあの二人、一緒にいること多いよ。けど付き合ってるって感じじゃない」

「『付き合ってる感じ』って、付き合ったことのない佳世にどうして判るの」

 根拠のない反論に、小春は苦笑を漏らす。

「それは……春ちゃんの言う通りだけど」

 一度小さく頷き、佳世は辿々しく続ける。

「一緒にいたくないのに、一緒にいるしかない……みたいな気がする」

「一緒にいたくないのに、一緒にいるしかない?」

 アクセントの狂ったオウム返しと共に、小春の首は大きく傾く。

 全く意味が判らない。つるむのが嫌になったら、別れればいい話だ。


「勘ぐりすぎ。佳世はそう思いたいの。梅宮のこと、好きだから。いい? 相手はあのミケランジェロさんだよ? 勝てると思う? 次元の違いが判らないほど、目が悪い?」

 小春はきつめの口調で畳み掛け、手鏡を佳世に向ける。その瞬間、佳世はまんまと押し黙り、鏡から目をそむけた。小春の思惑通り、脳裏のミケランジェロさんと鏡像の差を思い知ったらしい。


「アイツは本気にならないの、私たちなんかには。告白なんかしたって、テキトーに遊ばれて、ヤな思いするだけ。それともすることだけされて捨てられたいの? 欲求不満なの?」

 いやらしく笑い、小春は佳世の胸を軽く撫で上げる。

 顔を歪め、嫌悪感をあらわにした佳世は、再び下を向き、セクハラを受けたばかりの胸を覆い隠した。悔しさからか切なさからか、胸元を握り締めるその手を起点に、泣き顔のようなシワが広がっていく。


「……判ってるよ、私とミケランジェロさんじゃ勝負にならないってことくらい」

 発言の内容だけ見れば、佳世は自分に言い聞かせ、未練を断ち切っているように思える。

 だがその実、隙あらば小春の目を盗み、ちらちらと梅宮改の背中を追っている。


 孤児院に預けられた幼子おさなごが、母親を見送るようなあの目――。


 佳世は間違いなく期待している。

 現実になる可能性は限りなく低いが、絶対にないとは言えないお迎えに。


 そうか、そんなに私と過ごす時間が面白くないか……!


 聞き分けのない佳世を眺めれば眺めるだけ、小春の鼻の穴は膨れ上がっていく。昼下がりの薄日を浴びているだけのはらわたは、今や煮立った鍋のような音を吐き散らしていた。


 佳世が痩せた吐息を吐けば、食堂までひとっ走りしてご所望のパンを買って来てやった。空っぽのお腹にぐ~っと悲鳴を上げさせたことは、一度もない。体育の授業中は目一杯腕を広げて、ボールの砲火から守ってやった。

 負の感情を水源にする涙は、もう何年も流していないはずだ。

 なぜ梅宮改から醒ヶ井小春に帰って来た視線を、息苦しそうに床へ向けるのか。それは自分と過ごす時間が、窮屈で退屈な監獄だった場合の位置だ。


 佳世の瞳は一七年過ごして来た安全地帯の外に、夢と希望に溢れたお花畑を思い描いている。

 カン違いもはなはだしい。

 一歩でも醒ヶ井小春と言う防壁の外に出たなら、そこは苦痛だらけの荒野だ。

吹き荒れるのは基本的に向かい風で、何か行動する度に、四方八方から心ない言葉が降り注ぐ。パン一つ買って来られないご令嬢に渡って行ける場所ではない。


 どうすれば佳世に現実を思い知らせてやれるか?

 簡単だ。

 雑草一本分の希望もない荒れ地を、実際に見せ付けてやればいい。


 結論を出した小春は、空になったあんぱんの袋に思い切り息を注ぎ込んだ。

 監獄扱いされた腹いせに、目一杯膨らんだそれを叩き潰す。

 パンッ! と鋭い音色におどかされた佳世は、大きく肩を震わせ、耳元で風船が破裂したように身体を縮めた。

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