第5話




「…ちょっとは惜しいことしたなーとか、思ってるだろ?」

 ニヤニヤしながら俺をつつく津田の人差し指を音を立てて払いのけながら、俺はキッパリ「ぜんぜん」と即答する。

「まったまたー。強がっちゃってっ!」

 なおもニヤニヤ人差し指を向けてくる津田その他クラスメイトを、いい加減イラッとした俺は無言のままに睨み付け、もくもくと手の中の焼きそばパンを口へ押し込むことに専念した。

 そんな土曜日の昼下がり。



 真奈がスクール水着いっちょで俺にタックルかましてきたあの日から今日まで、かれこれ三日が過ぎていた。

 あの光景を目にした野球部員から、やはり当然のように俺は“公衆の面前でカノジョとイチャイチャぶっこくイケスカナイ新入生”だと認識されてしまったようだが、その翌日から早々に“星先輩と真奈が付き合っている”ということが校内に大々的に広まっていたため。

 結果、“カノジョを星先輩に取られてしまった可哀相なフラレ男”といったカンジに、認識が上書きされてくれたらしい。

 いっとき、噂を聞きつけた部員連中が代わる代わる『相手はあの星先輩だから』『星先輩相手じゃ仕方ないさ』『どうせすぐ別れるって、気にするな』などと声をかけてきて、いちいち慰めてくれようとしているのが見える分、悪意はないと分かっていつつも本気で鬱陶しかったものだった。しかも、同学年のみならず上級生からも言われるもんだから、おいそれと鬱陶しいからやめてくれとも言えやしない。

 とはいえ、そんな当の俺がヘコんだ様子などカケラも見せず、どんな慰めの言葉をかけてもらっても表情を変えることさえなく受け流し、更には当の先輩と顔を合わせても普段どおりケロッとしているもんだから。

 そう時間を置かずして今度は、“カノジョを奪われた可哀相な男”ではなく“カノジョを奪われても当然な無神経な男”という認識に、ガラッとクラスチェンジされたらしかった。

 そうなった途端、皆の抑えに抑えていた突っつきたくて仕方ない下世話な好奇心が一気に膨れ上がったのだろう。

 かけられる言葉もあきらかに慰めとはホド遠い、どう良心的に聞いてもからかう以外の意味にしか取りようがないものへとキッパリ変わり、また俺も俺で、そういうことにはバカ正直に反応を返してしまうもんだから……、

 ま、そんなこんなで、このような現在に至っている。



「――ったく、どこをどう見たらアレが『惜しい』なんて思えるんだか、俺にはサッパリわかんねーなっ!」

 主食の焼きそばパンを食べ終えてデザートのお好み焼きパンの袋をバリッと乱暴なまでに開きながら、俺は心から呆れた視線を津田に向けた。

 だが津田はケロッと、「だって真奈ちゃん可愛いじゃん」なんてことを、さも当然のように言ってのける。――またか、そのセリフ。

 星先輩に続いて津田までも。さらにこの場にいる他の皆までもが、ウンウン首を縦に振ってはそれに同意を返してやがるし。

「あんなにまでもオマエを慕ってる見るからに純情そうな可愛いオンナノコを無下にしたばかりか、進んで星先輩の毒牙のもとに謹んで進呈しちまうなんて、どう考えても健全な高一男子のすることじゃねーだろーよ。一体オマエの精神構造どうなってんの? ってゆー話だよな」

 なんだよ、この一人アウエー感。俺からしてみれば、あれを可愛いと思うなら人類総乱視なんじゃねーかと眼球の構造自体を疑いたいくらいだってーのに。

「優しさスイッチ、君のはドコにあるんだろー?」

「俺が優しくねーみたいに言うな!」

「そう言ってるんだってば」

「俺は人畜無害な人間には優しい! ものすごく優しい! いっそ引かれるくらい優しいっ!」

「本当に優しい人ってのはね小此木くん、どんな人間にも平等に優しくできるものなのだよ」

 あははそりゃ違いねー、しかも自分から言わねーし、とドッと笑いの立った輪の中で。

 俺は一人ブスッと不貞腐れてソッポを向くと、タメ息まじりにお好み焼きパンを噛みしめた。



『ヒロちゃんから伝えて。――真奈、星先輩と“お付き合い”します、って』



 言われた通り俺は、翌日、そのままを星先輩に伝えた。

 それ以来――って言ってもまだ三日しか経っちゃいないが、校内で先輩と真奈が一緒にいる姿をよく見かけるようになった。

 なのに真奈は俺に対してあくまで相変わらずで、付き合っていることについて何の文句も愚痴も言ってくることなんて全く無かった。

 噂で聞いたところによれば、先輩はちょうど前のカノジョと別れたばかりだったらしいし、何だかんだで普通のカップルとして上手いことやれてんじゃないだろうか。

 そう考えれば、皆が言うほど毒牙に放り込んだようには思えてこないし、そもそもあの二つ名まで付けられた先輩の噂からして、ひょっとしたら尾ひれハヒレの付けられた誇大広告だったんじゃないかとさえも思われてくる。

 どうせなら上手くいってくれればいいと、俺は俺なりに、十年来の幼馴染みの幸せを心から願ってはいるのだが。

「なァんで伝わってくれないかねぇ……」

 ボソッと洩れた俺の小さな呟きは、既に別の話題で盛り上がっていた場の空気の中で、誰にも聞き止められることなく、宙に融けた。

 俺が“フラレ男”として哀れまれるのはともかくとしても、よりにもよって真奈にばかり同情票が集まるのはどういうワケだ。

「ホント釈然としねーぜチクショウ」

 呟きながら、お好み焼きパン最後のひとカケラを口に放り込む。

「――あーそろそろ時間じゃねえ?」

 そんな時、津田の言葉が耳に届いた。

 つられて壁の時計を見上げながら、皆がいそいそと昼食の片付けを始める。

 土曜日の今日は、午後に授業は無いものの、野球部員には練習が待っている。

 ゆえに、津田はじめ同じクラスの部員たち数名と俺は教室で弁卓を囲んでいたワケだが、どこの部でも大抵そんなものらしく、この教室にも弁当を広げる生徒が結構な数で残っていた。

 でも、今あらためて見回せば、いつの間にやら人影はまばらだ。

「ちょっとノンビリしすぎたか」などと俺も応えながら、手早く目の前のゴミを引っ掴み、傍らのゴミ箱に放り投げる。

 そうして立ち上がり、自分の机の脇から学生鞄とスポーツバッグを同時に抱え上げた。

 まさに、それと同時だった。



「――ヒロちゃんっっっ!!!!!」



 ガラッとけたたましく教室の引き戸が開けられた――と思ったら、同時に大音量で響き渡った真奈の声。

 ただならぬ声の剣幕に、俺だけでなく、その場にいた皆が一斉に真奈に注目し、しばし教室内はシンと静まり返った。

 そんな中をものともせずに、当の真奈は、のしのし足音も荒く俺のもとへと歩み寄ってくる。

「な、なんだよ真奈? どうした、そんなに血相変えて……」

 言いかけた俺の襟首を、目の前に立った真奈が、無言でグイッと引き寄せた。



 ――それは、まさに一瞬の出来事だった。



 何をするんだと抗う間もなく、俺の顔は“これでもか!”って距離まで真奈の顔に近付いて。

 あまりにも近付きすぎたせいか真奈の肌の色しか見えなくなった、と同時に、やわらかさとぬくもりがもたらされる。



 俺の、唇の上、に―――。



 それこそ、え? なんて一文字さえ思う間もない一瞬だった。

 気が付けば真奈の顔は、それを顔と識別できる距離にまで離れていて、そのでっかい瞳で睨み付けるように俺を見上げていた。

 そして言う。

「――消毒っ!」

「は……?」

 やっとのことで口まで出てきてくれた一文字だったが、相も変わらず呆然としてるだけの俺に、真奈は何のリアクションも返してくれず。

 やおらパッと掴んでいた俺の襟元を放すや、そのまま踵を返して教室から走り去った。

 その場に残された俺は、しばし呆然とし続けたまま、今しがた自分に起こった出来事をどうにかして頭の中で整理しようとする。

 考えて、考えて……どう筋道立てて情報の整理整頓をしてみても、俺が真奈にされたことは、たった一つの言葉に置き換えられてしまう。



 ――それすなわち、“キス”。



「野ぉ笛ぇえええええええーーーーーっっ!!!!!」

 気付いた途端、頭にカーッと血が上り、思わずその場で叫んでいた。

「…はいはい、もーウルサイなー」

 そうウンザリした様子を隠そうともせずタメ息まじりに真奈の去った戸口から姿を見せた野笛に、すかさず俺は食ってかかる。

「何なんだよ、あれは!! 説明しやがれ!!」

 真奈の不可解な行動は、本人に理由を聞いても要領を得ないし理解するのも無理。そういう場合は本人よりも野笛に聞くべし。――それが、俺らの間の不文律。

「なんでアイツ、俺にいきなり、あんな、キ、キキキキっっ……!!」

「あー見たわよー見た見た、まんまとキスされちゃってたねーアンタ」

「ペロっと言うな、そんなことっっ!!」

 しかも、ワケ知り顔でぽんぽん肩まで叩いてくれやがるその態度が、まったくもって腹立たしい。

「いいから話せよ、そのワケをっっ!!」

「はいはい、ちゃんとバッチリ目撃してましたよー私は」

「目撃……?」

「うん、真奈と星先輩のキスシーン」

「いっ……!?」

 耳慣れない言葉に俺が怯んだと同時、周囲の空気がどよどよっとザワめいた。

 そういえば、ここは放課後の教室であり、まばらとはいえまだ何人もの生徒が残っている、ということを、ようやく俺も思い出す。

「うっわー付き合って三日目でもうキスとは……」

「さすが星先輩、手ェはえー……」

 ――しかも、こんなにも手の届く距離に野球部員という身内までもが、いやがったんだったよな……。

 ああまた厄介な…と、ずーんと落ち込む俺の様子に、気付いてる上でか本当に気付いてないんだかは知らないが全く頓着してくれる気配すら無い野笛は、同じ調子で言葉を続ける。

「でも見たとこ、あきらかにあれは不意打ちだったからねー。それで真奈もカチンときちゃったんでしょうね」

「『カチンと』って、マサカ……」

「キスされたと同時に、ビンタ炸裂」

「…………」

 途端、「すげえ真奈ちゃん!」「先輩に負けてねえっ!」などと再び背後で上がったどよめきを聞きながら、俺の脳裏に過るのは、さっきの真奈の睨み付けるような眼差しだった。

『――消毒っ!』

 あのとき発された言葉は、――ようするに、自分の意に染まぬキスをされたから、とりあえず俺で口直し、って……そういう意味、だった、ワケ、か……?

 思い当たった途端、俺はガックリと床に膝を付いていた。

 泣くに泣けねーじゃねーか。そんな勝手な理由で男の純情を蹴散らしやがって。しかも公衆の面前であんな風に。

 だって、あれは俺の……ああ俺の…俺のっっ……、



「――俺のファーストキッス、返せぇええええええっっ!」



 そう呻いて涙ながらに拳でがしがし床を叩いた俺に、ふいに野笛が「え? そうなの?」という、わざとらしいまでに驚いたような声を上げる。

「ウソでしょう? 私てっきり、それはとっくに真奈と済ませてるもんだと思ってたけど?」

「…寝言は寝て言え、このド阿呆!」

 今の“これでもか!”ってくらい傷心ダメージを受けてヒットポイントほぼゼロという深手の俺には、言っていいことと悪いことがある。

 ――少しは気ィ遣ってモノ言いやがれよコノヤロウ……!!

 ジトッと座り込んだまま上目づかいで野笛を睨み付けた俺だったが、立った位置から平然とコチラを見下ろしたヤツは、なおも飄々と、かつ多分にわざとらしく、「おかしいなあ…」なんて首を傾げてみせた。

「だって、真奈が言ってたのに」

「…なんだって?」

「さすがに星先輩も、ひっぱたかれるのは想定外だったみたいでねー。ビンタが真奈なりの照れ隠しだと解釈したらしくて、『ムキになっちゃって可愛いね、ひょっとして初めてだった?』なーんて訊いちゃったりしたもんだから、余計にあのコの怒りを煽っちゃってー」

 俺の問いには答えず、いきなり“その後”を話し始めた野笛のよどみない言葉を聞いているうちに……なぜかそこはかとなく背筋がウスラ寒くなってきた。

 ――なんか嫌ぁ~な予感がするぞ。このうえもなく嫌ぁ~な予感が。

「すかさず『馬鹿にしないで!』って、もっかいバチン!」

 またしても「すげえ真奈ちゃん!」「勇者だ!」「いや英雄だ!」などとどよめきを上げる周囲ほど、俺の気持ちは盛り上がらない。むしろ盛り下がる一方だ。

 ――だめだ……どうしてもこの先は聞いてはいけないような気がしてならない。

 小さくわななく唇を何とか動かして野笛を止めようとするが、やっぱりコイツは気付いてくれようともしない。それどころか、すっげえ楽しそうな表情である。――それこそ不吉だったら、このうえもないではないか。

「もー、えっらい剣幕でタンカ切ったんだからー」

 そして、えっらい嬉々として続けてくれやがったのだった。

 その大いなる誤解を招く爆弾セリフを。



「こう思いっきり“あっかんべー”して、『残念でしたー、真奈の“初めて”はヒロちゃんのものなんでーすっ!』って」



 ――あっ……ありえねえっっ……!!!!



 一瞬にして思考がショートし真っ白に燃え尽きた俺とは対照的に、周囲はまたしてもどよめきで盛り上がる。

 そんな中、自分の近くだけやけに静かだな、と思って振り向けば、津田たち野球部の面々が固まっては「ねえ聞きました奥さん、フケツですわね」「ええしっかりと聞きましたわ、フケツですわね」「もうとっくに大人の階段のぼりきっちゃってたなんて」「やめましょう、もう小此木は私たちの手の届かない遠いトコロへ行ってしまったのよ」なんて、主婦の井戸端会議風にヒソヒソやりながら遠巻きに俺を眺めている。――ぶっちゃけ、キモイ。

「いや、あの、それは、その……大きな誤解デスカラ……」

 恐る恐る弁解してみれば、すかさず「いーんだ皆まで言うな!」と遮られた。

「所詮、平気で路チューできちゃうような公然ワイセツ男になんて、分かってもらう方が無理なんだよな……」

「いや路チューて、ここ教室……つか、それ以前に、あれはあくまで事故……」

「うるさいやいっ! どうせ、とっくに童貞捨て去ったオマエになんか分かるハズがないんだよ、俺たちチェリーボーイのピュアーな気持ちなんてさっっ!」

 この、うらぎりものおおおおおっっ! ――という複数の声をドップラー効果で残しつつドタドタと駆け去って行った連中の背中に一人ポツンと置き去りにされた俺は。

 とか何とか言いながらもアイツら絶対、言いふらす新鮮なネタを仕入れたと喜んでいるに違いない、という確固たる確信をもって、ああまた謂れない誤解による厄介が…と、再びその場でガックリと床に手を付いた。

 ――俺だって……! 俺こそ、まだチェリーなのにっっ……!

 あんまりにしては、あんまりな仕打ちじゃないか。

 しかも、諸悪の根源は真奈にしても、それに根を張らせ葉を茂らせて必要以上に大きく育ててくれやがった野笛は、といえば、

「じゃ、これからイロイロ頑張ってねーチェリーくん」

 そのヒトコトを残して、ああ楽しかったーと、足取りも軽く教室を出て行った。

 ――てことは、間違いなく計画的な犯行じゃねえかコノヤロウ!!

 つか、俺なんかを陥れてそんなに楽しいか? ――って、楽しいんだろうなアイツなら……!!

「どいつもこいつも寄ってタカって……一体、俺が何をしたチクショウっっ……!!」

 フと気付いてみば、さっきまでまばらに人影のあった教室には、今や俺以外、誰一人の姿すらも無く。

 ゆえに遠慮なく、腹の底から俺は叫んだ。



「俺の平穏な日常を返しやがれぇええええええええっっっ!!!!!」






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