第3話
それは突然、まさに嵐のように俺のもとへと襲来した―――。
「――それじゃあ集合! グラウンド十周でシメるぞー!」
遠くから部長のダミ声が響いてきた途端。
グラウンドの方々から「うーす」と上がる声に紛れ、俺の隣りで
「ほら、もうちょっとじゃん。ここでぐずぐずしてたら、また怒鳴られるぞ」
隣に向かって俺はそう返しながら、球拾いの手を止めて立ち上がる。
決して悪い人ではないと思うのだが、ウチの部長は、ただでさえイカツイ強面と体格であることに加え、やたら短気で容赦なく手が早い。
野球部に本入部してからまだ日が浅いとはいえ、事あるごとに繰り出される鉄拳制裁は、既に新入部員にも周知の事実だった。
しぶしぶといった風に立ち上がった津田を待って、並んでグラウンド中央付近で立っている部長のもとへと走り出した。
お互い、集合に遅れてゲンコツを食らうハメになるのは願い下げだからな。
「やっぱ高校の練習はキッツイ」
走りながら、やっぱり津田は情けないことをボヤく。
「筋トレと走り込みと球拾いで、まさかこんなにヘバるとは。ひょっとして俺、ナマったかな」
「ついこの間まで受験生だったんだ、それもしょうがないだろ」
「そうは言っても、
「俺は、もともと体力には自信あるし。それに、受験生やってる間も、気分転換に朝晩のランニングメニューだけは毎日軽く流してたから。おかげでそこまでナマってない」
「すげえな、どれくらい走り込んでたん?」
「大したことないぞ、朝5㎞、晩5㎞、くらいで」
答えた途端、隣りから再び「うへえ」という情けない声が聞こえてきた。
ウチの高校の野球部は、決して弱くはないのだが戦績はイマイチ振るわない、という評価を一般的に受けている。
だからなのか、中学野球で活躍していた花形プレーヤーが引き抜かれてくることも滅多に無いし、一応は私立高校なのでスポーツ特待生の制度が設けられてはいるものの、野球でその待遇を受けている者など近年では皆無なのだという。
よって、現在の野球部に在籍しているのは、普通に試験を受けて入学してきた一般生徒ばかりである。
とはいえ、普通に入学するには、まがりなりにも進学校と名を馳せる我が校の学力レベルは少々高い。
ゆえに必然的に、各中学校の優等生が、でなければ真奈のようにラストスパートをかけて成績を上げた者たちが、こうして集まってくることになる。
運動部員だった者なら、どこの中学でも大抵は三年生の夏で引退になるのだろうから、それ以後わき目もふらず勉強に専念していたとしても全く不思議ではない。
津田が特別ナマケていたワケではなく、この野球部に入部してきた一年生は皆、大方そんなものだろう。
部長を先頭に隊列を組んで声高らかにグラウンドを周回する部員連中の顔を最後尾について走りながら眺めてみれば、さすがに二、三年生部員は慣れている様子だが、新入生は一様に疲労の色を覗かせている。
実際にこの野球部に入部して練習に参加するようになったからこそ解ったことだが、やはり“決して弱くはない”という評価を受けているだけのことあって、練習メニューはそこそこキツイのだ。
また、環境だけをみても、それこそ強豪校にも劣らぬ本格ぶりだ、とも思う。
顧問教諭とは別に専任の監督も置いているし、設備や道具類もかなり充実している。土地に不自由しないのは郊外の学校の強みってもので、もちろん野球部専用グラウンドもちゃんと完備されている。さらに言えば、運動部全体のためのものであって野球部専用ではないとはいえ、合宿用宿舎もガッツリ整えられていればトレーナーや栄養士だっている。
だが強豪校に比べれば、やはり圧倒的に足りていないのが練習量だった。それがイマイチ振るわない戦績の一因でもあるだろう。
そんなことは当然、監督もとうに承知の上ではあるのだろうが。やはり進学校である以上、かつ、とりたてて学校側からの期待を受けるべき部活動ではない以上、学業優先の方針には従わなくてはならないのかもしれない。
ざっと練習風景を見渡しても、部員側に“もっと練習したい”とか“もっと強くなりたい”とかいった気概も感じられないし、これはこれでバランスが取れているようでもある。
つまりあの評価は、所詮その結果でしかない、ってことだ。
――別に、それがどうだとか、特に言いたいワケじゃない。
周知の評判を知った上でこの高校に入学を決めたのは、他でもない俺自身だ。今さら何の文句があろうハズも無い。
けれど……そこに何か“飢え”にも似た物足りなさを感じるのは、一体どういうワケなんだろうか―――。
「ラスト一周ー」
先頭から響いてきた野太い声で、一斉に「ういす!」と、応える声がユニゾンで響き渡った。
これが終われば本日の練習は終了。
上級生は解散となるが、だが一年生部員には、まだ後片付けとグラウンド整備が待っている。
といっても、通常メニューだけでほぼヘバっているような未だ練習慣れしていないヤツらのこと。そんな中では、常に一人余力のある俺が率先して動き回らなければならないハメとなる。
それもいい加減うざったいなあ…と、考えて軽くタメ息を吐いた。
まさに、それと同時だった。
「―――ヒーロー、ちゃあああああああんっっっ!!!!」
ふいに甲高い真奈の声が響いた。
“何事!?”と驚いて反射的に声の聞こえてきた方向を振り向いた――途端、
「おわっ……!?」
どすっと勢いよく何かがぶつかってきて、為す術もなく俺はバランスを崩す。
空に投げ出された一瞬の間、水のにおいが鼻をかすめた。
――プールの、におい……?
だが次の瞬間には、ずざざーっと砂利のこすれる音を立てながら俺の身体は地面の上を滑っていた。もはや鼻につくのは舞い上がる砂埃のにおいのみ。
「いっ、いてててて……!」
したたかに全身を打ち付けて呻きつつ、フと気付けば、目の前に真奈の顔。
「はあっ!!?」
驚きのあまり全身が硬直した。
だって真奈は、地面に転がった俺の上に乗っかってたんだから。
がっつり俺の首ったまにかじり付いてはぴったり身体ごと密着させて、至極満面の笑みで俺を見下ろしている。
「んなっ、なっっ……!!?」
なんでオマエがこんなとこに居るんだよ!! なんでこんなことになってんだよ!! と言いたいのに、驚きのあまり唇が半開きでわなわな震えていて、上手く言葉を喋れない。
しかも、なんか冷たいな、と思ったら、なんと真奈は、あろうことかスクール水着いっちょ、という格好だった。
濡れた水着から俺の練習着にじわじわと生ぬるい冷たさが広がってくるのがわかる。
そして塩素の所為で赤茶けているくるくるしたクセっ毛髪もまだ水に濡れたままで、俺の頬にぽつぽつと水滴を落としていた。
まさに、今しがたプールから上がったばっかりです、っていう真奈の姿。
――あっ…、ありえねえっっ……!!
「ねえねえヒロちゃん、聞いて聞いてっっ!!」
思わず頭に血を上らせて、何事か言い出した真奈を乱暴に自分の身体から引き剥がすと、その勢いで俺は身体を起き上がらせた。
「あの、なあっっ……!!」
そのまま文句を言わんとした俺を遮るように、ふいにガシッと真奈の両手が俺の両肩を掴む。
「だって、スゴ~イことが起こったの~っっ!」
らんらんと瞳を輝かせて至近距離から俺を覗きこむように見据えた、その迫力に押され、思わず俺は出しかけた言葉を飲み込んでしまった。
そして真奈は、ガシガシと掴んだ俺の肩を揺さぶりながら、はちきれんばかりに弾んだ声で、それを告げる。
「聞いてよ~! 真奈、今度の大会に出てもいいんだって~!」
「え……?」
咄嗟に言われた意味を把握しかねた。
『真奈、今度の大会に出てもいいんだって~!』
言われた言葉を何度も何度も頭の中でリフレインして、ようやっとその意味を飲み込む。
――コイツが……あの水泳部の、大会出場メンバー……?
「マジかよ……?」
呆然と呟いた俺に、やはり満面笑顔の真奈が、「マジマジ~」と、何度も首を縦に振る。
「真奈、即戦力だって褒められちゃった~♪」
「マジ、です、か……」
「まだ一年生では真奈だけなんだよ~、出てもいいなんて言われたの~」
「…………」
さきほどとは違う驚きで絶句する。
言葉も出ない――というか、出せない。
だって真奈の入部した水泳部は、俺のいる野球部なんかとは、そもそも部活動としての格が違うのだ。
県下で最も名の通った強豪であり、ゆえに学校側からの期待も特に厚い、スポーツ特待生だってゴロゴロといるであろう、そんな部であるのに―――。
そのような中にあって、過去の実績も何も無い一般入部の新入生が即大会出場枠をゲットした、てことが、どんなにスゴイことか……そんなの、水泳のことなんざ何にも知らない門外漢の俺にだって理解できることだ。
――だからこそ、言葉が出ない。何も言えない。
「真奈、頑張るね~! ちゃんと練習して、もっと良いタイム出すね~!」
そんな前向きな明るい言葉にも、俺は「ああ」と、戸惑いながら相槌を返すしか出来ない。
『お魚になりたいの~』
ふいに、かつてそう言った真奈の笑顔が、目の前のそれとダブった。
――オマエは……ちゃんと“お魚”に近付いているんだな……。
水泳でも勉強でも何でも、自分で言ったことを実現させられる強さを、こいつはちゃんと持っている。
「頑張れ、な……」
かろうじてそう応えたものの。
それを告げた自分がどんな顔をしていたのか、ちゃんと微笑みを返せていたのかさえ、俺には全く分からなかった。
「うん、頑張るよっ!」
ただただ……そう目の前で嬉しそうにガッツポーズをしてみせる真奈の姿に内心で狼狽する。
その時、突如「真奈!」と呼ぶ野笛の声が、俺の耳を貫いた。
「やっぱり居た! もう、そんな格好で何やってんのよ! ジャージくらい着ていきなさいよ、みっともない! つか、風邪ひくでしょーが幾らバカでも!」
言いながら息を弾ませて駆け寄ってきた野笛は、むきだしの素足にスニーカー、上はキッチリ首まで前を止めたジャージ、といういでたちだった。片腕にはタオルと、やはりジャージらしきものを抱えている。
パッと見、素足であることを除けば普通の体育の授業スタイル――体操着とブルマ姿の上にジャージの上を着ただけ、って風にも見えるが……コイツも今や水泳部員、こう血相変えて真奈を探して走り回っていたような様子から察するに、ヤツ同様、やっぱり中身は水着のままなんだろう。髪を見れば、やっぱり濡れたままだしな。
ひょっとしたらコイツら、練習を脱け出してきたのだろうか。
「あ、野笛ちゃ~ん!」
駆け寄ってきた勢いそのままに野笛が、おもむろにボスッと、のほほんと振り返った真奈の顔へと手にしていたタオルを押し付ける。
「まずは頭と体、ちゃんと拭く! アンタのジャージも持ってきたから、着ときなさい!」
ああもう砂まみれでー…! とブチブチぼやきながらも、世話やきオカンよろしく、すかさず俺の上から真奈を立ち上がらせると腕や太腿に付いた砂をばしばしはたいた。
「ごめんね、洋」
そして今度は、未だしゃがみ込んだままの俺を見下ろしながら片手を上げる。――真奈の仕出かしたことに対する周囲へのフォローは、常に野笛の役目だ。
「今回ばかりは、さすがに止められなかったわ。すぐに退散させるから、今日のところは許してやって」
「あ、ああ、うん、まあ、仕方ない……」
だが野笛は、俺の煮え切らない応えなど最初から聞く気もなかったようで、「ほら、行くよ!」と、間髪入れずに踵を返すと、その手でジャージを羽織った真奈の腕を引っ張った。
「まったく、勝手にいなくなんないでよね! 誰が弁解すると思ってるの!」
「あ~ん、ごめんね野笛ちゃん~!」
「アンタの『ごめん』は、いつも口先ばっかりなのよ!」
などと喧々諤々やりながらも仲良さそうに肩を並べて小走りで去っていく、そんな遠ざかる二人の背中を眺めやりながら俺は。
しばらく、その場にヘタりこんだまま、立ち上がることさえ出来ずにいた。
――なんだろう、この感じ。
苛立ちにも似た……焦燥感? いや違う、高揚感? それとも何かに絶望しているのか?
まるでワケの分からない、このとき初めて抱いた感情を、なぜか俺は持て余した。
この気持ちの置きどころが分からない。
俺は、真奈に何かを求めたいのだろうか?
それとも、自分自身に―――?
「――おい、そこの一年!」
ふいに背後から響いてきた低いダミ声に、思わずビクッと身体が震えた。
咄嗟に背筋に冷たい汗がブワッと湧く。
――そうだった……! そういや俺も、まだ部活中、だったっけ……!
振り返るまでも無く声の主は分かっているが、おそるおそる、俺は背後を振り返る。
案の定、そこに仁王立ちして俺を見下ろしていたのは、我が野球部の鬼部長サマ、で―――。
「誰がランニング中に休憩していいといった?」
その言葉で自分が座りこんでいることに気付き、ハッと我に返った勢いで立ち上がる。
「しかも、あの女子と、まあ、ずいぶんと仲が良さそうだったじゃないか」
「す、すいませんでしたっっ!!」
帽子を取って頭を下げた瞬間、その頭の向こう側から、スウと大きく息を吸い込む音が聞こえた。
――ああ、〈嵐の前の静けさ〉って、こういうことを云うんだな……。
そんな的外れなことを考えながら、次にくるだろう“嵐”を確信し、全身にギュッと力を込めるやスパイクで力いっぱい地を踏んばる。
と同時に振り下ろされる大音声。
「たるんどるっっ!!」
ごいん! ――と鈍い音がした途端、過言でなく目から火花が躍り出た。
これまで部長の鉄拳は何度となく目の当たりにしてきたが、まさかこれほどまでに強烈だったとは……! 自分が食らうハメになったことも含め、完全に想定外だ。
思わず殴られた後ろ頭を抱えて蹲りかけた俺に、間髪入れずに更なる怒声が降ってくる。
「練習中に余所事を考えるとは、貴様の根性が足りん証拠だ!! 気合いを入れろ、気合いを!!」
「はいっ!! すみませんでしたっっ!!」
よろけながらも気合いで再び姿勢を正し、すかさず一礼。
そうしてから顔を上げると、やはり鬼の形相で仁王立ちしている部長の向こう側、既に解散となっていたのだろう、三々五々部室へと向かっていく部員の姿が目に映った。
だが、いつもなら片付けのためその場に残ってるはずの一年生部員までもが部室に帰っていくのは何故だろう―――。
その疑問に答えるかのように、「貴様にはペナルティを受けてもらう」という部長の言葉が、すべてを語る。
「今日の片付けは、全部おまえ一人でやれ! 誰かに手伝ってもらったらグラウンド十周を付けるぞ! いいな!」
――この状態で、間違っても『イヤだ』と言えるハズもない。
「はいっっ!! ありがとうございましたっっ!!」
再び脱帽して一礼した俺の姿に満足したのか、部長はフンと軽く鼻を鳴らすと、「じゃあ、しっかりな」とヒトコト言い置いて、その場を去った。
去ってゆく足音が聞こえなくなるまで頭を下げ続け、顔をあげて部長の背中が既に手の届かないところにあるのを確認してから、ようやく俺はクッタリと全身の力をぬくや膝を付く。
「サイっ、アク……!」
ガックリと手まで付いたら、自然と深いタメ息までもが洩れてきた。
――確かに…確かにさっ! 片付けも整備も、毎日自分一人でやっていたに等しいようなものだけれども!
それでも他に人が居るのと居ないのとでは、作業効率も悪いし、なにより疲労度も上がるではないか。
「くっそ、あの疫病神がっ……!」
こんなことになった元凶ともいえる、既にこの場に居ない真奈の姿を思い出しては毒づき、俺は再び深々とタメ息を吐く。
そうしながらも何とか気持ちを立て直し、作業に向かうべく立ち上がろうとした。
その時だった。
「入部早々、ついてねーなオマエ」
振り返ると、そこには一人の男子生徒が立っていた。
まだ俺と同じ練習着に身を包んでいる野球部員であるその人のことは、当然ながら俺も見知ってはいた。
――いや、この人を知らないヤツなど、この野球部にいるはずがないだろう。
考えることもなく、俺の口は過たずその人の名前を呼び掛ける。
「
レギュラーメンバーの一人、正ピッチャーである二年生の星先輩は、俗に云う“エースで四番”、名前に違わず“我が野球部期待の星”、っていう人である。一部では“我が校の星飛雄馬”なんていう異名でも呼ばれているらしい。
平均的な凡プレイヤーばかりが集まったこの野球部の中で、唯一抜きん出たスタープレイヤー。ほとんどを三年生が占める我が野球部のレギュラーメンバーの座を一年生時から不動のものとしている実力者であることは、我が校の誰もが知っている周知の事実だ。
その実力ゆえか、はたまた女子が好きそうな何たら王子なみのイケメンであることも手伝っているものか、そうでなければ異様にマスコミ受けのいい愛想と外面のせいなのか、ともあれチームとしての戦績は鳴かず飛ばずでも星先輩だけは様々な形で取り上げられることが多く、学外のあらゆる方面へ知れ渡るに至り、よって新入生の中には『星先輩に憧れてこの学校に来た』というヤツも、男女問わず決して少なくはない。この俺にしたって、腐っても野球少年のハシクレ、憧れ云々は全く無いが、その名前だけなら高校入学前から聞き知ってはいた。
だが、入部して以来、同じ場所で練習はしていても、俺と先輩との間に接点なんて一切なかった。
まずは身体づくりに重きを置かれる入部したてホヤホヤな一年生部員の練習は、どうしたって先輩たちとは別メニューになるし、レギュラーである星先輩は、それゆえの個別メニューに取り組んでいる。
それに先輩は、見るからに後輩から憧れをもって慕われるタイプではあるが、それだけチヤホヤ持ち上げられることに慣れ切っている分、あきらかに後輩の面倒見がいいタイプじゃない。
ゆえに、先輩が今こうして居残りの俺に、しかも『ついてねーな』などと気遣いまがいの声をかけてくれた理由が、全くもって分からない。
「おっ、俺のこと知っててくれてんだ嬉しいなー」
戸惑いを浮かべながら「お疲れッス」と頭を下げた俺とは対照的に、ごく普段どおりのにこやかな笑顔で先輩が近寄ってくる。
「えーと、お前は? ――何て読むんだ、それ?」
そのまま目の前まで来てから立ち止まると、俺の胸元を指さした。
そこに書かれているのは俺のフルネーム――『小此木 洋』。
野球部の練習着の左胸には、各々がっつりフルネームが書かれた名札が縫い付けられてあるのだ。何もフルネームまで書かずとも姓だけで充分ではないかとも思うが、そうするのがこの部の決まりであるらしいから仕方ない。
どんな場面でも自分の名前を初見でスンナリ読んでもらえないのは毎度のことなので、今や別段どうってこっちゃもない。たまに訂正するのが面倒だなあと思うことはあるけれど。
とりあえず練習着にくらいはフリガナ振っておこうかな…などとボンヤリ頭のはじっこで考えながら、「『オコノギ』です」と、何気なく俺も返した。
「へえ、『オコノギ』って読むんだ、それ。――小此木……名前は『ヒロシ』、か?」
「『ヨウ』です。――
訂正して自分のフルネームを繰り返すと、そこで先輩が「あれ?」と意外そうな声を上げた。
「てっきりオマエは、『ヒロ』が入った名字か名前してるんだとばかり、思ってたけど」
「え……?」
「だって、さっきオマエ、確か『ヒロちゃん』とか呼ばれてなかったっけ?」
「ああ、あれは……」
間違いなく、さきほどの真奈のことだろう。
そりゃ、そうだ……あんなデッカイ声で叫んで飛び付いてきたんだ、先輩のみならず、これはもう部員全員に気付かれてないほうがおかしい、ってもん。
また厄介なことになったなーと、半分ウンザリ思いつつ、返すべき言葉を口に乗せる。
「あいつだけですよ、俺を『ヒロ』って呼ぶのは。他はみんな名字で呼ぶか、じゃなかったら『ヨウ』って呼びますから」
「へえ、そうなんだ?」
――そう、真奈だけだ。
気付いた時は既に、アイツだけが俺のことを『ヒロちゃん』と、そう呼ぶようになっていた。
気付いた時は既に、俺も『ヒロちゃん』と呼ばれることに、違和感なんて感じてなかった。
たぶん、そうなったキッカケすら思い出せないほど、遠い幼い昔のこと―――。
「…でも、なんでまた?」
納得した素振りを見せながらも更にツッコんできた星先輩の言葉に、なぜそこまで言わなきゃならないのかと少なからずイラッとして、咄嗟に俺の口は「知りませんよ」と、つっけんどんな返答を放り投げてしまう。
「大方、人の名前を正しく覚える気が無い、ってだけでしょう。バカだから」
「おいおい、容赦ねーな。――つか、ホントにそんな理由?」
「そんな理由しか思い当たるフシがありません」
「ふうん……」
妙に腑に落ちなさそうなカオをしてはいたが、それでもようやく先輩も納得してくれたようだった。
これ以上アイツの話題に触れられるのはカンベンだ、とばかりに会話の途切れた隙をついて俺は、「じゃあ片付けがありますから」と、そのまま踵を返す。
「待てよ」
だが、そのヒトコトで引き留められた。――運動部において、先輩の言うことは絶対だ。
ここで俺も腹をくくった。
どういうワケかは知らないが、俺をスンナリ行かせてくれたのならそれでよし、そうでないのなら……あとに待つのは“お約束”ってーものだろう?
別に構わない。
真奈のことにしろ、そうでないにしろ、こちとら上級生から絡まれるのは中学で経験済みだ。
「…まだ何か?」
足を止めて振り返るのを待たず、ふいに肩へと腕が回される。
良く言えば親しげな友人同士のように、悪く言えば馴れ馴れしく、そんな仕草で俺の背後を取ったのは、案の定、星先輩であり。
そのまま俺を自分の方へと引き寄せ、逃がさないとばかりにガッチリとホールドしてから、「なあ、小此木?」と、肩越しの至近距離からこちらを覗き込んでくる。
そして言った。
「――あのコ、オマエの何なワケ?」
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