第31話
「行った?」
棗の姿が見えなくなったころ、帽子を顔にかぶったままの梓が訊いてくる。
うん、と答えると、梓がむくりと起き上がり、ふっと息を吐いてから、棗が去った方向をじっと見た。遠くを見つめるその灰色の瞳は、いつまでたっても瞬きされない。
気の利いた言葉なんて、棗は求めていなかったのかもしれない。ただ、答えが欲しかっただけなのかもしれない。
夏まで生きていいのか。
そんな悲しい質問の答えを。
棗が何を考え、どんな言葉を欲し、どのように行動するのか。それの全てを把握したいわけではないが、今は少しでも、棗の本心を見たかった。それほどに、何を言い、行動していいのか分からない。
「……どうして、さっきあんなにはっきり言えたの?」
「さっき? ああ、あれか」
梓が目線を落とす。続きを話し出すのだと待っていたが、なかなか口を開こうとしない。
愚問、だったか。わたしはそう思った。
夏まで生きるつもりかと聞かれて、ノーという人間がいるのか。たとえ生きることの出来ない運命だったとしても、そんな質問をされて否定するはずがない。
棗は、地下とは別の方向へ歩いていった。ということは、任務の内容はあのままだ。だが、梓の言葉で、少なくともさっきまでの棗とは違っているはずだ。
そう思うことにしたときだった。
「無理!」
突然、梓が大きな声を出したため、思わず梓の方を振り返った。
「俺、意味分かんねーもんっ」
駄々をこねる子供のように、梓は言い放った。そして両手を地面につけると、「あー」と不満にも似た声を出しながら、後ろに仰け反る。息が続く限り声を出し切ると、梓は息を深く吸い、また大きく息を吐く。
「……分かるけど」
今度は押し殺したように小さな声で。か、の部分の音が裏返っていた。
梓は顔をゆがめながら首を振り、続けて言う。
「分かりたくねー……」
生きること。それが苦痛でしかない日々を送るのならば、自分で命を絶つ方がいいのかもしれない。だが、それは同時に、先に待つかもしれない幸せにも会うことなく、苦しみから解放される保証もない道を選ぶ、ということだ。ただ、目の前のことから逃げ出したい。それだけで、もう二度と戻って来ることの出来ない世界に、別れを告げる。
「死にたいって、思ったことないなんて言ったら、嘘になる。……少しでも手を抜けば、考えることをやめれば、一瞬で消されるんだ。神経と身体ボロボロにしてさ。嫌になって、命を投げ出したくもなる」
そんな時は、何度だってあった。きっと、Kクラスに属すものは皆、味わったことのある気持ち。だが、今生きているということは、その気持ちにも負けず、生きることを選択したからだ。もちろん、選択しても叶わない命だってあるが、気持ちがない時点で死んでいるはず。
「でも、絶望に立たされても、目の前の敵の命を奪ってでも、怪我した仲間を見捨てて踏んづけてでも、自分が助かる道、選んできたんだろ。棗だって」
そうだ。心のどこかで、諦めきれない自分がいるからだ。
待っているかもしれない、輝かしい未来に。
棗も。
「棗も、生きてる」
わたしは、自分に言い聞かせるように言った。
「生きてる。だって」
わたしが梓の前に回り込む。
「戦ってるもの!」
梓が顔を上げ、目の前にいるわたしに目を向けた。わたしの顔を見つめ、少しづつ目が大きくなる。どこか悲しげな表情。だが、すぐにいつもの梓の顔に戻る。
「あぁ、そうだな」
一度だけ、大きく頷きかけ、彼は優しく笑う。そして、わたしの頭に手を乗せ、続けて言った。
「お前も、ちゃんと生きてるからな」
一瞬、顔が強張った。
殺人鬼、生きてる価値無し――そう呼ばれるのが当たり前になっていた。
目の縁が、鼻の奥が、痛い。
「……っ」
一つ、また一つと、前の涙を追うように、次々と溢れだしていく。
「ん」
梓が丸まって少し固くなったハンカチを差し出してくる。洗濯する際にポケットから出し忘れていました、と書いてあるかのように分かりやすいそのハンカチを見て、わたしは涙でぐちゃぐちゃな顔で笑って見せた。
「なによ、それ」
「持ってただけでもすげーよ」
「持ってたんじゃなくて、入ってただけでしょう」
「そう言うなって」
銀が抜けた穴には、梓と楓の二人が協力をして、その穴を埋めようとしてくれていた。だが、その楓がいなくなった今は、梓一人でその役目を担っている。
いつだったか、地下の会議室で、梓が千秋たちに向かって怒鳴っていたことがある。なんとなく部屋の中までは入ってはいけない気がして、わたしは壁の影に隠れていた。はっきりとは聞こえなかったが、一言だけ、わたしの心に残っている。
「俺は、千秋でも渡さんでも、銀でもない。楓でもない。精一杯なんだよ! そんな簡単に、お前らみたいになれると思うなよ!」
わたしたちの前では、意地を張って弱みなど、決して見せなかった梓の本心を聞いた気がして、白い壁に爪を立て、しばらくその場を動くことが出来なかった。
梓は、二年前の梓と似ても似つかない。嫌なことから目をそらし、逃げ惑っていたあの頃の梓の姿はどこにもない。わたしたちの慕う先輩たちのようになろうと、梓は必死だったに違いないのだ。
「梓、かっこよくなったね」
「そうならざるを得ない環境だったからな。男磨いちゃったよ」
いつもなら梓の軽口に、少しきつい口調で切り返すのだが、そのときのわたしはもう、そのような余裕はなかった。今の梓になら、相談できる。そう思った。
第六感に優れた梓は、何かを察して起き上がる。背中についた芝生のかけらがぱらぱらと剥がれていくのを眺めながら、わたしは思いを口にした。
棗の放火のこと。梓は、どう思うのか、と。
「だと思った」
額に手を押し当てて、梓は、ふうっと大きく息を吐きだした。
「エリカが何かで悩んでるとき、必ず棗が関係してるから」
「棗がね、言ってたの。放火の噂は本当だし、それに……」
身内を殺した――その言葉を口に出すことは出来なかった。棗がそのようなことをするはずがない、と信じていたからだ。わたしは首を横に振った。
「二週間分の任務……わたし、少し遅くて。棗を止めれなかった……止めなくちゃいけないのに、わたしが棗を支えないと、守らないといけないのに! 梓」
また、涙があふれてきた。睫毛をくぐり、加速しながら一直線に頬を流れていく。
それを見た梓が、そっと肩を抱き寄せた。
「わたし、できなかったんだよ……」
梓の胸に頭を押し付ける。梓の体温と、嫌いじゃない汗の臭い。かすかに甘い梓の臭いが混ざり合い、余計にわたしの涙を誘った。ずっと昔から知っている人。
千秋や渡さん、銀は滅多に会えないし、楓はもういないも同然。次々と目の前からいなくなり、ついに棗まで遠くへいってしまった心地だった。残された温もりが今、隣にいてくれていると思うだけで、涙は止まらなかった。
「棗は、ずっと苦しんでたのに。そばにいたのに、なんでわたし……」
握りしめた梓のカッターシャツが、くしゃくしゃになっていこうと、涙で濡れていこうと、わたしは構わず梓に当たり続けた。
彼がどんなことを思ってそうしてくれていたのかは分からない。が、吐きそうになるほど泣ききった頃、梓がずっとわたしを抱きしめ、背中を撫でてくれていたことに気が付いた。まるで、わたしを覆うように、包むように。一人にさせやしない、と力強く、自分の存在を伝えるかのようだった。
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