第30話

 走り出したまではいいが、棗がどこへ向かったのか、見当はついていなかった。竜崎にも聞いてみればよかった、と少しの後悔ををしながら棗の部屋を覗いてみたが、僅かな期待も儚く散り、もぬけの殻だった。念のため、医務室にも顔を出してみたが、棗らしき影は見当たらない。あと、棗が行きそうな場所といえば……


 人のいない、静かな場所。


 そうだ、裏庭だ。

 休み時間には生徒に人気だが、授業中の今ならば、木陰で休むにはもってこいだ。たしか、少し前にそこで昼寝をしている棗を見かけたことがある。


 わたしは階段を駆けあがり、再び地上へ出た。やはりまぶしすぎる太陽に目がくらんだが、走る足を止めることはしなかった。

 裏庭は、中等部校舎の近くにある。そこまで行くのにそれほど時間はかからなかったが、息はあがった。気づかないフリをしていたが、わたし自身の疲労も随分たまっており、任務外では安静にしておかなくてはならない身だった。


 だが、今そうするわけにはいかない。


 呼吸を整えながら、裏庭へ入っていく。人気(ひとけ)のない、静かな午前に吹く風は心地よく、焦る心をなだめるように肌をかすめていった。そこでようやく、ただ息が上がっているだけでなく、自分の体が火照っていたことに気が付いた。額にうっすらと汗もかいている。

 早く棗のもとへ行きたい。会って、どういういきさつでそうなったのか、きちんと話を聞きたい。その一心で、ただ棗を探し続けた。


 探している間、わたしの中にある情報はあまりに少なかったが、さっきの会話を思い出し、できる限りの状況を読み込もうとする。


 町を火の海にした。

 母と弟を殺した。

 入学前の出来事。

 アンジュの救護班。



「あれ……」


 わたしは立ち止り、頭の中を整理した。

 わたしのなかにある記憶と、類似するものがある。


 二年半ほど前に行った、いや、行かされた、と言っても過言ではないだろう。課外実習として、フォアの火事現場へ派遣されたことを思いだす。 ちょうど、棗が入学してくる二週間ほど前のことだ。


 町中が火に包まれており、消火部隊が追いつかない、なんとかしろ、と叫びながら指示を出す人の間から担ぎ込まれてくる、火傷を負った人。煙を吸い込んで気絶してしまった人。そして何より印象的だったのが、人であることを認めたくないほどボロボロになり、それでも何かを必死に訴えようと、ただれた手でわたしの腕にすがり付いてきた人、おそらく女性。

 結局その女性が何を言っているのか、はっきりとは聞き取れないまま、わたしは、違う人の手当にまわることになった。最後の最後まで、わたしに向かってしきりに何かを謝っていたような気がする。

風の噂で聞いたのだが、その女性は亡くなったらしい。

 今のわたしなら、あの女性を助けられる。もしかしたら、あの頃のわたしでも、冷静に処置ができていれば、助けられたかもしれない。目の前に突如現れた、性別も分からないほど全身に酷いやけどを負った人間を前にして、まだ闇を知らないわたしは怖気づいてしまったのだ。


 いや、記憶を美化するのはやめよう。わたしがその女性を殺してしまったのだ。わたしが呆然としていることに気が付いた他の治療班の人が、代わって女性の手当をしたが、そのときにはすでに腕が、だらんと地面に垂れ下がっていた。

 わたしがもし、即座に処置を行えていたならば、あの人を救えたのかもしれない。


「……っ」


 爪が手のひらに食い込む。だが、まだ痛みを拒むことが出来るこの体は、無意識のうちに力をコントロールし、ほどほどの痛みに落ち着く。


 今はもう、どうにもできない過去の話。


 そう考えると、握りしめた力さえ空しくなり、緩んだ。指の間に集まっていた生暖かい空気が、じんわりと抜けていくのが分かった。

 もし、あの火事現場が、棗の起こしたと思われる事件と同じものだったら……


 背中が、ぞくりとした。ありえなくもない話だ。そう度々、町が火の海になることなどない。


 いや、今はとにかく、棗を探さなくてはならない。

 わたしは頭を振り、物理的に頭の中にこびりついている記憶を払った。足をずんずん速め、棗を探すことに集中しようとする。その割に、手入れされた花壇の花も目に入らず、さっきまで心地よかった風も、揺れる青葉の影から吹いていることが分かるくらいだ。


 どこにいるのだろう。


 一体、どこにいるの。


 棗を探し出し、わたしが支えるつもりでいたにも関わらず、今にも泣きそうだった。どうすればいいのか、分からない。数少ない大事なものの一つが奪われるかもしれない、という不安と、どうして無茶をして生きようとしないのか、という怒りが同時に湧き出す。泣きたい気分にもなってきた。


 勢いで部屋を出てきてしまったが、今から戻って竜崎に棗の任務を少し負担してもらえるように頼みに行った方がいいかもしれない。本人はきっと、勝手なことをするな、と酷く怒るだろうが、それで棗の体への負担が少なくなるのならばそうするべきだ。

 わたしは足の向きを変え、もと来た道を二歩ほど戻ったが、またつま先をこちらへ向けた。一刻も早く棗と話もしたい。そんな感情が強く、わたしのなかを駆け巡ったからだ。たとえ勝手にわたしが裏から手をまわし、棗のハード過ぎる任務を防いだとしても、本人の意思がすでにこの世にないのならば、きっとどんな任務をしても死ぬことができる。


 あとのことはもう、どうにだってしてやる。だから、今は。


 そう、覚悟を決めたときだった。


「そんな怖い顔して。この世の終わりじゃあるまいし」


 わたしははっとして、声がした方に目を向けた。


「よっ」


 柔らかく笑いかける青年。大きな木陰の下で、胡坐をかいている。


 ああ、梓だ。


 彼の顔を見た途端、緊張の糸が解けていくのが分かった。何が起こっているのかきっと理解していない梓は、「ん?」ともう一度微笑みかけてくる。なかなか動こうとしないわたしにじれったくなたのか、梓は自分の隣の芝をトントン、と叩いた。座れよ、という合図らしい。


「でも、わたし……」


 棗を探しているのだ、と言おうとして、その言葉を飲み込んだ。梓と少し距離を置いて静かに座っている棗がいることに気が付いたのだ。


「棗……」

「あー、さっきスルーしようとしやがったから、まあせっかくだし、引き止めてみた」


 梓らしい適当な理由を述べると、うーん、と背伸びをし、そのまま寝転がった。何か話をする気配はなく、ただのんびりとしたいだけのようだ。それもそうだ、予定では彼も今朝まで任務で、今からの時間がやっと唯一落ち着ける時間のはずだ。ゆっくりしたいだろう。

 わたしも木陰に入り、梓の隣で三角に座った。梓も加わったことにより、安心感が生まれた空間で、棗の様子を窺おうと思ったのだ。


 棗もわたしが来たことに気が付いているはずだが、目線を下に向けたまま動かなかった。こちらを見ようともしない。


「まあ、何か分かんねーけど、いつもとちょっと違うってのは、俺だって分かる」


 先ほどから棗とわたしを交互に見ていた梓が、落ち着いた声で言った。細かい原因は分からないにしろ、二人の空気で気が付いたのだろう。


「エリカ、とりあえずちゃんと息、吸ってみ? ここは汗かくほど暑くない」


 梓は、任務をするようになってからずいぶんと大人びた。楓という大親友をなくしたことが、梓にとって大きかったのかもしれない。楓との連絡は一切絶たれているものの、病気や怪我をした、という連絡はないため、きっと元気にやっているはずだ。

 わたしは梓の言う通り、深く空気を吸った。土の香りと、芝生の青い匂いを首より少し下の位置で感じた。確かに、汗をかくには難しい気温だ。 わたしの焦っていた心をあざ笑うかのように、風が肌を撫でてくれる。そのおかげで、体の火照りはまもなく冷めていった。


 焦っている理由を、梓が何か聞いてくるのかと思い、答えを考えていたが、その必要はどうやらないらしい。彼はただ、葉の間から差し込む太陽の光を眩しそうに見上げていた。光合成でも行っているのか、と思うほど気持ちよさそうに微睡(まどろ)む。


「ここさー」


 その梓がふと言った。


「夏になったら、木陰でも暑くていられないんだわ。どっかいい場所探さないと」


 その言葉を聞き、どこかで安心を覚えた。風のさざ鳴く声に、耳を傾ける余裕さ出てくる。その時は、梓のマイペースさに助けられたのだと、そう思っていた。

 ふうっと息を吐くと、不意に昨日の任務のことが頭に浮かび、右手をそっと左腕にあてた。傷は残っていないのに、なぜかズキズキと疼く感じがする。この傷を見て棗は、また怪我をさせたと、言っていた。

 いつも前線に突っ込んでいくのは棗の役目で、わたしは棗を結界でフォローをする。それが二人の戦い方だ。たまに流れ弾が飛んでくることがあっても、わたしが血を流すことはそう多くなく、昨日は久々に、カッターシャツが染まるほど、赤い血を流した。

 いつしか棗に守られている。自分の命すら危ういこの環境で、それでも棗は守ろうとしてくれる。


 きっと自分の命と引き換えにしても。


 自分の命など、とうの昔に捨てた。そう言わんばかりに。


「夏になったらって……」


 ずっと下を向いたまま黙りこくっていた棗が、口を開く。

 また、風の音が聞こえなくなる。


 ああ、そうだ。


 わたしは、はっとした。

 さっき、心が落ち着いたのは、梓のマイペースさに和んだのではない。そう、確信する。


 少し先に訪れるはずの夏。その夏を見据えて、梓は違う昼寝場所を探さなくては、と言った。


 夏がある。


 それをさも当然のように考える梓に、わたしは安心したのだ。


 棗は、やっぱり……

 わたしは、棗がその言葉の先を言わないように祈る。


「夏になったらって」


 棗が再び続ける。


「夏まで生きるつもりか?」


 あ……


 喉元に空気の塊がつまり、呼吸を止めた。耳の中に心臓があるかのように、鼓動がよく聞こえる。梓も同じなのだろうか。顔色を見る勇気はなかったが、この重い沈黙がそうであると教えてくれる。

 棗が考えていることは、おおよそ検討はついていた。だが、それをはっきり本人の口から聞くと、わずかに残る、そうではない、という希望を完全に打ち砕かれる。


 時が、止まる。いや、重い空気があたりを包んだが、それでもゆっくりと、時間は流れ続けている。止まったのは、呼吸の方だったのかもしれない。


 何か言った方が……言わなくちゃ。


 焦る心で必死に頭の中で言葉を探す。今、もし間違った言葉を棗に言ったり、ぶつけたりすれば、棗の糸をぷつん、と切ってしまうだろうのではないか。伝えたいことを、言うだけではだめだ。それならどうすれば。


 考えを巡らせているうちに、棗がよろよろと立ち上がった。

 行ってしまう。悪いことに、焦りですっかり頭が動かなくなっている。何か、棗を止める一言を……


「ああ」


 隣にいた梓がいつの間にか起き上がり、静かに言った。棗の足が一瞬止まる。


「当然」


 続けたその言葉は、さっきよりも力がこもっているように感じた。


 梓はちらりと棗の方を見たが、もう話すことはない、というように、かぶっていたつばが丸く短い帽子を顔にのせ、再び寝ころぶ。

 棗は顔のない梓を横目で見やると、一呼吸つく。やがて、「そうか」と言いながら歩き出した。わたしに何も言わず、目も合わせず、背を向けたまま。そして、地下への階段とは別の道へと向かって、歩いて行った。




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