第28話
わたしは、表情を変えないまま、教室のドアを開けた。
久々に入る教室。
まだほとんどの生徒が、わたしたちが登校してきたことに気が付いていない。朝の明るい空気の中、にこにことした表情で友達とたわいもない話で盛り上がっている生徒たち。
「でさ、藤森が俺の嫁返せよ、とか言ってんの。フィギュアが嫁なんだってさ。どうせその嫁も二か月も経てば変わってるだろうけど。あはは!」
机の上に座り、藤森を馬鹿にした橋原仁が、手を叩いて笑う。取り巻きの女の子三、四人も、仁をおだてるようにして笑う。確か、二年前には棗くん、棗くん、と気持ちの悪いくらいすり寄ってきていた女の子たちだ。せいせいするほどのぶりっ子は相変わらずだと、わたしは感心した。
「でさ、……あ」
テンポよく次の話をしようとした仁の口が止まり、露骨に嫌そうな顔をこちらに向けた。どうやらわたしたちが登校したことに気が付いたらしい。彼は、挑発するように棗を睨み付け、わざとらしく鼻で笑った。
「へぇ、何々? 今日は雨でも降るのかな。あ、槍かな」
うるせーやつ、空気だけの声がわたしの耳にかろうじて届く。
「えー? 何か言いましたぁ?」
さっきまで賑わっていたクラスのはずだが、聞こえるのは二人が登校してきたことへの疑問や、反感の声。
注がれる、痛くもなくなった冷たい視線。
棗は仁の方を向きもせず、教室の一番後ろの席に座った。わたしもそれに続く。座席は一人一机の個別型の配置のため、わたしは棗の前の席に座った。
仁としては、自分の言葉によって棗が怒り、何か問題を起こさせ、さらなる極悪人に仕立て上げる、という狙いだったのだろう。だが、相手にすらされなかったため、仁はチッと舌打ちをし、輪の中に戻っていった。
それを合図に、周りの生徒も会話の続きをし始めた。
すぐにチャイムが鳴り、生徒たちが席についていく。わたしたちを避けるようにして、廊下側に寄ったクラスを見て、さすがに居心地が悪くなった。
朝のホームルームをしに来た先生も、入って来るなり、何事か、と顔をしかめた。が、わたしたちの姿を見つけるなり、納得したように何も触れず、出席確認に入っていった。
先生はなんらかの事情を知っていたのかもしれない。だが、Kクラスという特殊なクラスと、ちょっとしたことで本部に繋がるという恐怖からか、一切の介入をしてこなかった。容易に立ち入って良い代物ではないのだ。そういえば、間宮さんが、Kクラスは独立したものだから、他の介入は認められない、と言っていたことを思いだす。
教材もなにも持たずに登校してきたわたしは、ぼうっと黒板を見つめるほかなかった。後ろの棗は、とっくに机に突っ伏して寝ている。やはり疲れが残っているのだろう。
昨日はヤヨイ国の国境近くにある、小さな研究所を襲撃する部隊に加わったのだから、疲労が今日まで持ち越してしまうのは当然だろう。わたしは突撃部隊の、緊急治療班として加わっており、棗がその突撃部隊にいたのだ。
無事に成功した、ということと、襲撃に参加して三度目、ということもあり、少しの慣れから完全に油断をしてしまった。撤退する際に残っていた敵を撒くことに失敗し、あの二人組の連中につかまった。無駄に交戦し、棗の力にまた頼ってしまった。
相手の男は、どうなったのだろう。あの業火に焼かれて。
不意に、そんなことを思う。
棗は、そうしなければこちらがやられるのだから、と割り切った様子だったし、彼の言う言葉は正しいと感じた。
だが、やはり心のどこかであるのだ。
この教室にいてても分かる。
冷たい視線と心のない言葉をどれだけ浴びせかけられようと、これほど居心地の悪い場所であっても、この場所に未練がある。
穏やかにすごす彼らを、何も知らない彼らを、羨ましくないはずがない。自ら捨てたはずの平凡な世界に、まだ戻って来れるのではないか、と期待している自分がいる。
手を血で真っ赤に染めても、何も思わなくなった心で。全く図々しい。そんなふうに自分で自分を笑う。
気持ち悪い。
「エリカ?」
棗だった。何か異変を察して、声をかけてきたようだ。
「あ、うん。元気」
ほんの少し振り向いて棗の顔色をうかがった。眠気からか、体調が悪いからか、はたまたわたしの返答が気に入らなかったのか、彼は険しい顔をしていた。
「そう」
一拍おいて棗が言う。そのとき、ちょうどホームルームが終わり、担任の先生が出て行った。次は移動授業のはずだ。ホームルームで出席を確認したはずなので、もうここにいる理由はない。移動授業をする、と見せかけて退散すればいいだろう。
そう思っていたときだった。
「聞いたか? あいつ町を火の海にしたんだってな!」
「なにその話?」
「先輩から聞いたんだ。今高等部はこの話で持ち切りなんだってさ。ガキのころ、しかも入学する前だって」
「うっそ、サイテー」
「しかも死んだらしいよ、何人か」
こちらに聞こえるようにわざと大きな声で言っていたが、そんなでたらめな話、相手にする必要もない。わたしは黙って教室を出ようと、席を立った。
同じようにして棗も席を立っていると思ったが、彼はそうはしていなかった。
「棗? 行こうよ」
声をかけるも、棗は動く気配がない。
「このまま学校いたらこの学校もやばいかもよ」
「だから人殺しして気を晴らしてるんだろ」
「まじかよ、あいつが死んでほしいんだけど」
「それ言えてる、死ね」
わたしはもう一度棗に呼びかけたが、棗は何かを抑えるように、肩で息をしたまま、とても立ち上がれるような状態ではなかった。まさか、この話が本当だというのか。いや、そんなこと、あるはずがない。
「棗、ほら、行こう?」
「……先、行ってて」
「え、行こうよ一緒に」
無理にでもこの場を去ろうと、棗の腕をつかんだが、足の力が抜けてしまったように、立つ気配がなかった。
「あ、やべー、移動教室じゃん忘れてた」
誰かのその一言で、教室が慌ただしくなり、生徒が次々と教室から出ていく。
「ほんとだ、あと一分もない!」
空っぽになった教室で残されたわたしは、もう一度棗を見てみた。
「どうしたの?」
椅子に座っている棗のもとにかがみ、訊いてみる。
「気にしなくていいと思うよ。ただの噂だよ。棗もいつもそう言ってるじゃない」
「……心当たりがなければ、ね」
「え?」
今の言い方だと、棗が放火したことに心当たりがある、というふうに取れてしまう。まさか、と冗談っぽく返すと、返ってきたそれは、信じられないものだった。
「え、そんな。だって棗」
「前にエリカ、俺はどこか死に場所を探してるような気がする、って言ってたね」
「それは、棗が」
「その通りだよ。俺はとっくに、未練がないんだ」
気が動転して、頭を何度も横に振った。棗が、嘘だよ、と言ってくれるのを期待して。だが、棗は悲しそうに口だけで笑った。
「黙ってて、ごめん」
「そんなの、聞きたくない。嘘だよね?」
「嘘じゃない」
「嘘!」
「嘘じゃない!」
一瞬だけ、棗と目が合った。すぐそらされたが、その目はいつか見た、強い瞳だった。少し潤いが多いだけで、他はなんら変わりない、まっすぐで、揺るがない目。
そんな彼が、学校に入学前、
「偶然、ねつ造された話だったのかもしれないし、誰かから流された話なのか分からないけど、事実だよ。隠してた、ずっと」
「棗……」
「分かった? 俺が、この世に未練がない理由」
実の母と弟を殺した。
棗の口から出たその言葉は、わたしを呆然とさせた。
「どうして……」
「黙っててごめん」
棗はそう言って、席を立った。
後ろの方で、ドアが開き、閉める音を聞くまで、わたしは硬直したままだった。
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