二章

第26話

 ザァッと葉を揺らす風の音が、静寂に慣れた耳に届けられる。木々を縫う風は、大きな木の枝に身を潜めるわたしの肌を冷ましていった。

 物音を立てないように、木の葉の間からそっと辺りを覗く。


「どう?」


 棗が訊いてきた。


「ううん、だめ。まだ近くに二人いる」


 いつまでもしつこく追ってくる、敵国、ヤヨイ国の戦士たちに呆れながら、首を横に振った。

 どうする? そう言いたげな表情をした棗は、隣にいるわたしの方を振り返る。

 わたしは太い枝に座っていたが、ため息にも似た息を、大きく吐いて立ち上がった。夕方に一度、敵国のパトロール隊に出くわしたため、すでに一戦交えている。そのため傷も疲れも残ったままだった。ついてない。


「わたしが前に行く。棗は援護をお願い」

「……」


 棗は不満そうだったが、自分の腫れた左足見て小さく頷き、木に手をついて立ち上がった。

 申し分程度に差し込む月の光を頼りに、棗が着地点の辺りを確認した。障害はない。敵の気配もあの二人だけだ。

 隣で棗が木の枝から飛び降り、音を立てないように膝をうまく使って着地する。左足を庇って降りたようで、少しよろけたものの、あたりに響くことはない。

そしてわたしも棗を手本に、静かに飛び降りようと、もう一度地面の方を見た。三メートルより少し高いくらいだろうか。いや、もっとか。

 どっちろ、いつも通りに飛び降りれば何の問題もないはずだ。そう自分に言い聞かせ、慣れたようにそっと飛び降りる。一瞬耳元で風を切る音がして、たんっと、靴の音が鳴ったが、許せる範囲の着地はできた。

 が、何かがおかしい。今わたしは着地した時のまま静止しているはずだ。それにも関わらず地面に着いた右手の上がぞわぞわとし、何かが動いている気がする。わたしは恐る恐るその手を見た。

 黒い体に赤い斑点、もぞもぞと体をくねらせて動くそいつは――毛虫だった。


「うわっ!!」


 思わずわたしが声を上げる。


「そこか!」


 追手の男が、まっすぐこちらへ向かってくる。

 棗が顔をしかめてわたしを見た。わたしはごめん、と顔を棗に向けながら、まだ違和感の残る右手を払う。

 本来ならば気づかれないように待ち伏せ、不意打ちを狙いたかったがもうそれは出来ない。二人は木の陰に隠れて様子を窺った。


「どうされました?」


 連れの女もこちらへ向かってくる。どうやら二人相手に直接対決をしなければならないらしい。

 棗が顎で男を指す。わたしはうなずき、さっと木の陰から飛び出した。胸の前で人差し指と中指を立てて重ね、能力を使う態勢になる。


「はっ!」


 結界の能力を応用した技を使い、男のみぞおちへ向けて正確に直方体の結界をぶつけた。

 咄嗟の一撃をまとも食らった男は、その衝撃で後ろに二歩下がる。


「その耳元で揺れ光る赤真珠、噂によく聞くエリカ、か」


 受けたダメージに肩を上下させる男が、腹に手を当てながら言った。

 男の左手首に付けた《ヤヨイ国鳴海派》を表す銀のブレスレットが、月の光に反射している。


「大丈夫ですか?」


 女が駆け寄る。

 男はうっとおしそうに女の言葉を手で払い、エリカを見てにやりと笑った。


「まあ、興味はあったけど、ここで会うとはな。ラッキー、お前、疲れてるだろ。

さっきの研究所爆破に加担していたからか。まあいい。手加減をご所望ならひざまずくんだな」


 勝ち誇ったように男が言った。


「誰がそんなこと」

「おうおう、じゃあ、二人を相手にどう戦う? 赤真珠!」


 挑発の言葉を吐くや否や、男は目にも留まらない素早さで右手をわたしの体へ振り下ろしていた。またこいつも、爪が刃物のように鋭く伸びるアンジュ。昔出会った、夜の蝶のような女も、このアンジュだった。脳裏に焼き付いていたその記憶は瞬時に頭の中を駆け巡る。

 わたしはとっさに体を仰け反らせ、襲い来る鬼のように長い爪をかわした――かに見えた。


 痛みはなかった。

 だが、わたしの左肩から腕にかけて、長袖のカッターシャツが裂けている。じわじわとにじむ鮮血が、確かに肌を切り裂いたことを物語る。だが、痛みに慣れてしまった体には、肌とシャツがぴとりとくっつく気持ち悪さの方が勝った。


「ありゃりゃ、鮮血。動き、鈍くない?」


 男が満足げにエリカを見る。

 わたしがキッと目を吊り上がらせ、反撃の態勢に入ろうとしたとき、背中に静かな熱気が伝わった。棗の援護の合図だ。

 それに反応し、頭を抱えてしゃがみ込んだ。と同時に炎が音を立てながら頭上を勢いよく通過した。いつにも増して赤々と燃え上がる炎。恨みをぶつけるような、荒々しい、怒りを体現しているかのように思え、目を離すことが出来なかった。

男と連れの女が、熱さと苦しさで悶える声で、はっと我に返った。左肩の傷を右手で押さえながら棗の方へ駆け寄る。


「逃げるぞ」

「走れる?」


 そう言ったものの、棗の返事も待たずにわたしは棗の手を握って走り出していた。棗の負傷したままの足首も気になるが、今は敵の陣地から少しでも離れることが最優先だ。




 息も切れ、絶え絶えになってきたころ、やっとホノカ国が所有する湖が見えてきた。ゆっくりと走るペースを落としていく。


「ここなら安心だね」


 棗はわたしの言葉を無視し、一人湖のほとりまで歩いていく。


「どうしたの?」


 棗を追いかける気力はなく、肩で息をしたまま地面に座り込む。疲れ切った足を伸ばしていると、棗が手に濡れたハンカチを手に帰ってきた。


「腕」


 棗が左腕を掴む。


「え! いいよ、治したし」


 その言葉をよそに、棗は血で赤く染まったカッターシャツの裂けた部分をもう少し引き裂いた。わたしが言ったように、さっき男から受けたはずの傷はどこにもない。走っている最中、血が流れ出るのが不愉快だったため、傷口をとりあえず閉じたのだ。

 長い付き合いもあって、わたしの能力が高いことは十分に把握しているはずの棗だが、濡らしたハンカチを、傷があったであろう場所にあてがうことをやめようとしない。


「……ありがとう」

「悪い」


 棗は手を止めて下を向く。


「また怪我させた」


 わたしはじっと棗を見た。

長い睫毛を伏せ、視線をそらして申し訳なさそうにする棗。わたしと同じように返り血を浴び、砂埃等でカッターシャツが汚れ、酷い格好だ。自分のことに一生懸命にならなくては生きていけない世界で、棗はいつもそう。


「足の捻挫、完治してないくせに」

「今関係ないだろ」


 むっとした表情で棗が言い返す。


「あるよ」


 棗の足元へ周り、ズボンの裾をめくった。

 追手の気配で、治療を途中で中断されてしまっていた左足。彼らから逃げきるために全力で走ったせいで、治療前よりも酷く腫れてしまっていた。

 わたしはその足首に手をかざす。薄いピンクのベールで包まれると、わずかに光を放ち始めた。


「体力使うんだろ、それ」

「これくらいヘーキヘーキ」


 明るい口調で言いながら、白い顔をしていただろうわたしは治療を続ける。


 嘘つき――傷を治すということは、体の中の細胞を蘇らせるということ。壊すことは比較的簡単だが、治すことは難しい。どんな傷であろうとそれなりに体力がいる。それを棗も知っているが、一度何かを言おうとしてから口を噤んだきり、何も言おうとはしなかった。

 足首を覆っていたピンクのベールを、かざしていた手ですくい上げるようにして消す。足首を曲げたり伸ばしたりして、異常がないか確認し、よし、と頷いた。治療は終了だ。


「うーん」


 わたしは無事治療を終えたことにほっとし、大きく背伸びをした。そしてその両手を地面につき、体をそらして、空を見上げる。

 星で飾られた空は語ることもなく、ただ静かに二人を見守っている。


「もう、二年だね」

「ああ、そうだな」

「早いね」


 楓、元気かな。ひとり言のように、言ってみる。


「元気じゃないと、困る」


 あの頃より、少し成長したわたしたち。

 あの頃より悪化した、国家間。おかげでヤヨイ国は一年も前に正式に宣戦布告をし、本格的に戦争が始まってしまった。Kクラスへの召集は思ったよりも早く、任務の量が大幅に増えた。

 Kクラスへ流れてくる任務は、主に国境のパトロールだ。この任務に関してはヤヨイ国とのパトロール隊と出くわしてしまったり、待ち伏せされていた場合のみ、交戦することになる。その他には、今日のように襲撃に加わることがある。


「覚えてる? 初めて自分たちで境弥の森に入って、切り刻まれた遺体を見たこと。楓なんて吐いちゃってたね。わたしも吐きそうだった。でも今は……」


 命を守るためなら、目の前の人間を殺すことだってできる。少しでも躊躇えば、こちらが殺される。


「あれから二年。死体を見ても、動じなくなったよ。これって、成長かな」

「そうだな」


 違うよ。そんな返事を求めていたのかもしれない。棗の返事で、非人間的になってしまったことを受け止めざるを得なくなった気がして、心が締め付けられる心地がする。


「成長だよ。それがなかったら、とっくに死んでる」


 棗が、静かに言った。


「今こうして生きてるのは、その成長のおかげだ。それじゃ、だめなのか?」


 そうだ。生きるためには、そうしなければならない。躊躇して殺された味方の戦士を何人か見てきた。

 目の前で殺される様子を、見てきた。

 時には刃物で、時には油まみれにされたうえで焼き殺されて。

 随分前に聞いたように、遺体を回収するなんて、無理な話だ。足を失ったものにも、這って帰ってこい、と言うほど、自分一人の命を守ることすら危うい。

 成長しなければ、とっくに死んでいた。棗の言うことは、最もだと思う。それでも、人を傷つけることに、ためらいがなくなりつつある自分が、怖くなる。


「いいな、エリカのアンジュ」


 ふっと、棗が呟いた。


「俺は、傷つけることでしか守れない」


 炎のアンジュを持つ棗は、篠たちを焼き尽くしたように、多少の手加減をしたとしても、その業火をぶつけることになる。そうすることでしか味方と自分を守れない。

 しかしわたしは違う。

 結界のアンジュで相手を攻撃することも、味方を結界で囲み守ることもできる。そしてもう一つのアンジュ、癒しのアンジュで傷ついた仲間を癒すことができる。


「あ……」


 わたしより、棗の方が、よっぽど傷ついているはずだ。

 わたしは何も言うことが出来なくなった。


「別に、慣れてるからいいよ」


 考えを読んだように棗が言う。


「でも」

「いいんだ」


 強引に話を終わらせた棗は、このまま少し休もう、と言ってこちらに背を向けて横になる。


「そうだね」


 そう向けられた背中に返事をして、わたしも地面に寝転がった。


「いつまで、続くのかな。こんな生活」


 一言だけ発した、空に消え入りそうな声は、らしくない、弱いものだった。


 もう二年が経とうとしていた。この国の、裏側を知って――




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