第25話
「分かったわ」
梓が帰って来たのを見計らって、間宮さんが頷いた。
「渡君、契約書を」
「はい」
返事はしたものの、渡さんの一歩は、なかなか出ずにいた。
「渡君」
もう一度、間宮さんが言う。
渡さんはようやく重いその足を動かした。
「間宮さん、さっきのこと」
「ええ、分かっているわ」
躊躇している渡さんの手から無理やり契約書を奪うことはせず、間宮さんは納得するまで彼を待った。
「失礼いたしました」
三拍ほど置いて、渡さんは契約書を手渡す。小さく、お願いします、と言ったのが聞こえた。
間宮さんはその契約書にペンを足すと、立ち上がり、それを読み上げる。
「及川梓、立花棗、秋沢エリカ、以上三名の籍をKクラスへ移し、彼らのことはKクラスの担当である南春一先生に一任することを認めます」
「お預かりいたします」
南先生は、その風貌から考えられないほどうやうやしく契約書を受け取ると、サインをした。
「楓は……」
梓がつぶやく。
「ええ、そうね。そのことを説明しなければね。彼には、アンジュ学校の特別待遇生徒として、ツムギ国へ留学してもらいます」
「留学!?」
「ええ、いずれはツムギ国にある、ホノカ国の大使館に務めてもらうため。四人のうち、誰をそのような逃げ道、いえ……いえじゃないわね、逃げ道ね。逃げさせるか、考えたの。楓くんが適任、という結論になったわ。わたしの元夫、間宮博嗣がツムギ国のアンジュ教育機関に務めてるのだけれど。一人くらいなら、離婚の慰謝料未払いの代わりに受け入れを強要することも難しくないでしょう」
私情を介入させてよいものか、判断に困ったが、彼女が言うのだからそうなのだろう。
「四人のうち、誰にするかは即決だった。楓は一番コミュニケーション力に優れているし、適応能力もある。そして何より、あいつは人を見る目がそこらの大人なんかよりもはるかに優れている。その力は……」
千秋が言葉に詰まったのを見て、渡さんが交代した。
「その力が必要になるときは、絶対に来る。今の、こんな時じゃなくて」
こんな時。それは、いつ戦争がおこるかしれない今、ということだろう。
「何も包まずに言うと、楓にはそれまで生き残る力はない、と判断した。だから一旦他国に逃がす。いつか来る、平穏なときまで。逆に言うと、お前らには生き残る力がある、と判断した。まあ、どうなるかは知らないが」
一言多く、わざと付け加えて、渡さんは言った。それに苦笑しかけたときだった。
「……死ぬなよ」
ぼそっと漏れた渡さんの言葉で、現実味を帯びた波が一気に覆いかぶさってきた。
重くのしかかる、渡さんの言葉。突き放すくせに、まったくひどい人だ。
「脅しているつもりはないけれど、本部からKクラスへの召集はすでにかかっているわ。渡君や的場君、小見山くんのキャパオーバーのおかげでなんとか食い止めているけれど、今のこの状況を考えると、きっとそんな余裕なんてすぐになくなるでしょう。そうなれば、分かるわね」
「……はい」
「では話はここまでよ。Kクラス用の部屋を新しく手配するのには少し時間がかかるから、今日は客室を使って。疲れているでしょう。気が付いていた? もうとっくに朝日はのぼったの。まずはひと眠りして。それから、楓君と挨拶を」
「挨拶って、別れの?」
わたしたちは顔を見合わせる。
「そんなにすぐに?」
「ごめんなさいね。こればっかりは、本当に急ぐのよ。本部に、森に侵入した生徒は三名だと、嘘の報告をしたの。的場くんは随分渋っていたけれど、わたしが独断で三名だと報告したわ。ばれると立場が悪くなるのは、ここにいる全員なの。分かってちょうだい」
わたしたちは眠ったままの楓を見やった。
「精神的な疲労で、もうしばらくは眠ってるはずだ。だからお前らも少し休め。客室には銀が案内する」
「楓は目覚め次第、今した説明と全く同じことを伝える。約束する」
だから安心して早く安めに行け、と千秋が背中を押した。
「秋沢さん、及川君」
間宮さんの声で、わたしたちは振り返った。
「……結界破り、見事だったと。本部のものが言っていたわ」
「そう、ですか」
とてもではないが、素直に喜べなかった。あの結界が破れずにいたなら、きっと、森の中に入れなかったはずだったからだ。
複雑な思いで下を向いているわたしを、棗が横目でこちらを見たのが視界の端に入った。
「てっきり、間宮さんがあの結界の所有者だと思っていました」
棗が一気に言った。それを聞き、「どうして?」とトーンを変えないままに間宮さんが訊ねる。
「気配が同じだから」
それを聞いて、間宮さんが微笑む。
「さすが、あなた方が育てた自慢の隠し子だけのことがあるわね。感心させられるわ。悲しいほどにね。ああ、引き止めてごめんなさいね、小見山君、案内してあげて」
「……行こう」
銀は、不自然なほど明るい廊に踏み出した。
「部屋、一つしかとれなくってさ。ごめんな。広いから、いい感じに寝て」
「うん、いいよ。さんきゅ」
「じゃあ、オレは、ここで」
玄関にも入ろうとせず、部屋の前で立ち止まる。
「なあ銀」
その背中に、梓が呼びかける。
「ん? どした」
「……」
銀がゆっくりと振り向いた。
「マジで馬鹿だなって、思う。あんな世界見せられて、よく受け止められるよな。金魚の糞みたいに、どこまでもついてきてさ、全く。愛くるしいな」
「怒ってる?」
「当たり前だ。煮えたぎって、もう何もねぇよ」
頭を無造作に掻く。
「いいから、さっさと入れ。どうせ寝ないことくらい……寝れねぇことくらい分かってるけど。それでも寝ろ。これから不安な日がいくらでも続くんだから。オレたちが安全だって言ってるときくらいちゃんと寝ろ」
詰め込むようにして部屋に入れられると「じゃ、おやすみ」と強引に扉を閉められた。
「銀だな」
呟くように、梓が言った。
部屋は、まるでどこかの皇室のような部屋だった。大きなシャンデリアは、控えめに明かりをともしていて、足で踏むだけで分かるほど、上質なカーペット。ベッドは奥に二つあり、その近くのソファも、二人ほど眠るようにセッティングしてくれてある。
誰からともなく、バラバラの寝床に足を進めると、倒れむようにして布団の中に沈んでいった。
頭の中の容量は、とっくに超えている。
たった一晩で、変わってしまった。
もう、戻れない。わたしも、銀が言った通り、馬鹿だと思った。
早く眠りにつきたいのに、目だけは冴えている。頭はとっくに眠っているのに。
規則正しい呼吸が、近くから聞こえてきた。梓だ。
「みんなの守りたい気持ちがつくった世界が、地上のアンジュ学校だったのかな」
ちっぽけだ。
わたしは、寝返りをうった。
「それでも救われたんじゃないの? エリカは」
「棗……まだ起きてたの」
「まあね」
「うん、救われた……温かかった。すごく。わたしね、ここに入学する前、義両親のもとで過ごしてたの。病院を経営していてね、わたしが癒しのアンジュを持ってるって知って、すごく喜んでた。儲けになるから」
「ひどいね」
「こんなこと、今話すのは、おかしいよね」
そうは言ったが、止まらなくなってしまった。過去に戻れるのは、もうこの時しかない、と思ったからかもしれない。
「それから二年くらいたったころ、千秋と渡さんがね、迎えにきてくれたの。千秋、わたしを見てなんて言ったと思う? 睫毛があるって言ったんだよ。そう言って泣くんだよ。引いちゃうよね。でもね、今日やっと分かったの。千秋が泣いた理由」
やっと見つけた。ああ、睫毛、あるんだね。
そう言って、あまり食事を与えられておらず、痩せたわたしを優しく抱きよせたことを、今でも覚えている。
実の母である志穂の写真は、千秋の部屋で見せてもらったことがあるため、彼女に睫毛がほとんど生えておらず、それをネタにしていた、という話を聞いたことがあった。だが、それが直接千秋が泣いた理由にするにはどこか不自然だった。
だが、ようやく理解した。
「千秋はわたしのお母さん、志穂さんに守られて、たぶん、ずっと追いかけていたんだと思う。今のわたしたちみたいに。その人が残した子どもをやっと見つけて、なのに、不幸せそうにしてるんだもの。守りたくなるよね」
棗が寝ているベッドの方へ、体を向けた。
「きっとね、アンジュのせいでいじめられていたり、アンジュのせいで大好きな両親から無理やり引きはがされる子がいると思う。そんな子たちを温かく迎える場所が必要なんだよ。それが、アンジュ学校。みんなの守りたいが作った、安全で、綺麗な場所。わたしは、みんなに十分な愛情をもらって、すごく幸せだった。偽りの世界だって、それでも必要なんだよ。だから、今度はわたしが、守る番」
目頭に溜まった涙が、ほろほろと鼻筋を渡って、反対側に落ちていく。ダムの淵を乗り越えて、留めなく流れていく。
いつの間にか、棗がベッドから起き上がり、そっとわたしの手首をつかんでいた。
「俺も、手伝うから。だから、安心して」
「棗……」
わたしたち三人はその日から、Kクラスの一員となった。
別れのとき、全てを知った楓は、穏やかだった。目を腫らしていること以外は、いつもより、少し静かな楓、という印象だ。
「ワタるんから、聞いた。全部。これが最後かもって。ワタるん、ちゃんと言ってくれた」
「何が起こるか、分からない」
「うん、そうだよね。ねえ、梓」
あっくん、とは言わず、楓は梓の名前を呼んだ。
「僕のどこが、梓より劣っているのか分からないって言ったけど、嘘だよ。こんなこと言ったら、圧に弱い梓は、またしょいこんじゃうかな。でも、もう。今しかもう、ないかもしれないから」
楓は、精一杯の笑顔を向けた。
「もう、行かなくちゃ。棗、エアちゃん、あっくん。元気で」
「楓も……」
そう言うのが、わたしにとっての精一杯だった。
笑顔で見送るなんてことは、出来っ子なかった。
間宮さんの使いで来た、という人に付き添われ、楓は、学校を去って行った。
「これが最後になんて、させねぇよ」
梓が隣で、今にも嗚咽を漏らしそうな声で言ったのが、耳に残っている。
「行こう。俺たちは、俺たちが選んだ道に」
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