第24話
「なんか、言いたいことだけ言って帰ったって感じだな」
「ほんとに」
「俺の親父は、太希、なんて名前じゃなかったよ」
「……うん」
「アンジュでもなかった」
「……うん」
梓が、鼻から大きく息を吐きながら首を振る。
「……もう、どうでもよくなってきた」
信じていた学校の裏を見、平和だと勘違いしていただけだと気づき、親だと思っていた人はそうではなく、さも当然のように、それも初対面の相手に、あなたの親はこの子だと言われる。
そして、迫られる決断。
「どこから? 俺たち、なんでこうなちゃったんだ? というか、さっきの何。あんなの、お前ら信じるのか? 何かの冗談とか、ドッキリってやつだろどうせ。そのへんにカメラとか置いてあって、神妙な顔してる俺たちを笑ってるんだろ?」
梓の頬を、涙が伝っていく。
彼は、分かっているのだ。この状況を、あまりにも正確に。真実だと思われるさっきの話を、頭ではしっかりと理解しているのだろう。一方わたしは、目の前にいる梓の涙の行方を見守ることしか出来ていなかった。
なぜだか、心は落ち着いていた。しかし、先ほどの話を受け止めている、というわけではないと思う。それほど出来た人間でないことは、自身がよく理解している。
ああ、きっとまた、深海魚以下をしているのだ。
深海魚は、すごいなぁ。海の底は、どれほどの闇で包まれているのだろう。いつ獲物が来るのか分からないなか、じっと息を潜めて獲物を待つ。その間は、何を考えて過ごしているのだろう。
先は、真っ暗だ。
知らず知らずのうちに、千秋や渡さんや銀。いや、顔も知らないたくさんの人々に、安全でお気楽に過ごせるレールへ乗せられ、導かれていた。そのレールが、ぷっつりと途絶えたのだ。自ら脱線した、と言ってもいいかもしれない。
それならここからは自己責任。間宮さんの言うように、自分で決めるべきだ。それなのにまだ、誰かが助けてくれると、心の中で思っている。早く導けと、腕を組んで次のレールを誰かが作ってくれるのを待っているのだ。
七歳のころと、何も変わっちゃいない。情けない。
変わろうか。でもどうやって。
あのときは、助けてほしければ、自分でその意思を伝えろ、と渡さんが言っていた。
今は違う。助けてほしいとか、そのようなことを言う場面ではない。考えろ。考えろ。
「俺は、決めた」
まだ涙も止まっていないくせをして、あまつさえ、震えた声で梓が言った。
「俺は、Kクラスに行く」
Kクラスへ行く、という意味は、自ら望んで兵隊になる、と言っているのと同じことだ。さっきの話を、梓は聞いていなかったのだろうか。それとも、深夜のハイなテンションだとか、ノリというもので、判断が鈍ってしまっているのではないだろうか。
だって、そうだろう。いつ死んでもおかしくない世界か、のうのうと生きれる世界を選べ、と言われているのだから。どうして好んで前者を選ぶ。
「たぶん、千秋たちがいる場所が、本当の世界ってやつなんだろう。だったら俺はもうこれ以上、嘘を信じていたくない」
どうして。体は嫌だと、そんなにも震えているではないか。嘘でも、幸せだと感じられたらそれでいいではないか。あの肉片をこれから常に見ることになるのに。
梓は机に置かれていたペンを手繰り寄せた。
「待って」
そう止めたのは、無意識だった。
だが梓は、その言葉を聞き入れることなく、ペンの先の震えを抑える前に名前を書ききった。
書き終えた梓は力が抜け、ふら、と立ち上がる。
「梓……」
「トイレ」
おぼつかない足取りと、梓が書いた名前を交互に見る。
「梓……」
どう考えても、早まっている。もっと考えてから書くべきだと、怒りさえ湧いた。
すると、目の端に、今度は棗がペンを取ったのが見えた。
「棗!」
「なに」
梓とは違い、棗はわたしの声に答え、動きを止めた。
「どこに、書くの?」
「そんなの、決まってる」
「Kクラス?」
問い詰めるようになってしまったのは、それほどわたしに余裕がなかったからだろう。棗は、わたしを落ち着かせるように、一度ペンを置いた。
「エリカは、いつも自分で決めないから」
そう言って、ペンと紙をエリカの方に差し出した。
「え?」
「エリカから書いて」
「そんな、だってわたしはまだ……」
「それなら、決まるまで待つから」
棗は、いたって落ち着いた様子だった。泣きながらサインをした梓とは違い、もうとっくに腹を決めているようだ。
「ケチ!」
わたしは叫んでいた。
「なにが」
「だって、わたしそんなの考えられないもん!」
「え?」
棗が、呆れたようにポカンと口を開ける。考えることに疲れてしまったわたしの頭は、棗にあたっていた。
「千秋と渡さん、ギン兄の記憶がなくなるのはやだ。監禁で誰にも会えなくなって、残りの学校生活を罰付きで過ごすのもやだ。Kクラスなんて怖いからやだ! さっきのがこれからずっと続くなんて、耐えられない!」
わたしは言いたいだけ言ってから、息を整えるために一度口を閉じた。棗の顔を見るわけにもいかず、視線を落とすこともしたくなく、机の上を見つめる。
目の前に置かれた梓の名前入りの紙。Kクラスの欄に、はみ出さんばかりに書かれる、梓の名前。他の誰もこの欄に書くな、というようだ。
一人で、Kクラスへ行く気なのか。銀がしたように、わたしたちは安全な道を行けと、そう言うために。あれほど怖がってたくせに、強がっちゃって。
膝の上で丸めていた手の甲に、何かが当たった。
「なんで……」
涙だった。睫毛のすき間から、次々と通過してくる。
「みんな、馬鹿だな」
わたしは、ペンを握った。
「三つの選択肢、全部やだ。でも、これ以上誰かに代わりをさせるのは、もっとやだ」
梓の名字、及川の川のすき間に、自分の名字を書き込んでいく。梓の名字が複雑な漢字じゃなくてよかった。
秋沢、まで書き終えたとき、わたしは涙を払って棗を見た。
「棗は?」
「うん、K」
「なんで?」
棗は、一瞬ためらいがちに口をつむった。
「理由は、別に……」
あの棗が、理由もなくそんな大事な決断をするはずがない。千秋や渡さんとの接触すらなかった棗だ。記憶だけ消される道が、もっとも、唯一良い道であるはずだ。
「……俺は、もうとっくに未練なんてないから」
「未練?」
聞き返したが、棗はそれ以上、話さなかった。
「それよりエリカ、Kクラスでいいのか?」
「うん。わたしはみんなといたい。みんなと一緒じゃないと、わたしは何も出来ない。それに、みんなが怪我したとき、助けたい。あんな肉の塊なんかにさせない」
「甘くないよ」
「うん、分かってる」
「きっとあいつらは、Kクラス以外の選択を望んでる」
「ざまーみろ」
「俺も……」
「え?」
「いや、何も」
珍しくはっきりしない棗に、首をかしげる。
「ねぇ」
「何もないって」
「まだ何も言ってないのに」
わたしはくすっとして、秋沢の下にエリカ、としっかりとした字で書いた。それを棗に返す。棗も、余白のない欄のどこに書こうか、迷っていたがわたしの隣、及川の川、左側の払いと真ん中の止めの間に、自分の名前を書いた。
「……書いちゃったね」
「覚悟、したんじゃないの?」
「したよ。すっきりした。でも、これからは道がない、て考えると、怖い」
千秋たちが引いたレール。きっと、千秋たちも誰かに導かれてきて、その誰かも、その誰かを守りたい、と考える誰かによって作られたレールをたどってきた。そしていつか、自分の足で道を決めることができるようになったとき、違う誰かのためにレールを引きたくなる。
「今度は俺が、導く助けをするから」
「先に行くってこと?」
「俺のアンジュは炎だから」
そこで棗は言葉を切った。
本当に、これで良かったのだろうか。わたしは自分で、死にに行く道を選んだのではないだろうか。事実、志穂ちゃん、と呼ばれていた母は既に他界している。間宮さんは任務のせいとは言わなかったが、そう思わざるをえない。
だが、棗に言ったことも、嘘ではなかった。
生きてる、ではなく、生かされている生活など、まっぴらだ。誰かの上に成り立つ生など。
「楓は、どうするのかな」
ソファで寝かされている楓は、渡さんがアンジュをかけてから、目を覚ますことなく眠っている。
「楓は、血とかだめだけど、アンジュはすごいよ」
「うん、知ってる。でも、血が駄目なのは致命的だと思う」
「……まだ、Kクラスへ行ったからって、必ずしもそんな生活が待ってるとは、限らないよ」
「だと、いいな」
梓はまだ、帰って来ない。トイレは部屋の真ん前にあったはずだ。トイレの中で眠ってるのか。いや、眠れるはずがない。むしろ冴えてきたくらいだ。
そのとき、ドアがゆっくりと開いた。
「よ」
お盆の上に、湯気の立つマグカップを三つ置いて入って来たのは、銀だった。
そろそろと、慎重に机の上にお盆を着地させる。
「決まった、みたい、だな」
机上の紙を悲しげに見て、銀が言う。
「梓は?」
「便所」
「そっか。飲まず食わずだったろ。ん、これ」
特に喉も乾いていなかったが、ほんのりと甘い匂いにつられて手が伸びた。
チョコレートを塊ごと豪快に入れるため、チョコア、と呼んでいた銀の作るココア。懐かしい。本人は隠し味と称すが、ちっとも隠れていないシナモンの風味が、またたまらない。とろりとする口どけに、飲み込んだ後まで舌に残る濃いチョコア。
「んま」
銀が、おそらく梓用に持ってきたのだと思われるマグカップに、口をつけている。シリアスな状況でも、こうした銀らしい振る舞いが心を和ませる。
紙を手に取り、じっと三人の名前を見る。
「梓、馬鹿丸出しじゃん」
そうは言っても、やはりどこか嬉しそうな顔をする銀。だが、眉は相変わらず下がっていて、仕方ないなぁ、とぼやいている。
「予想通りだけど、やっぱりオレは、オレたちとは違う道をたどって欲しいって思う。お前たちをこんなふうにしてしまったのは、オレたちのせいだ」
「こんなふうにって?」
「いろいろあるけど、やっぱり一番は、アンジュがつえーってことだ。チビのときからアンジュが遊びだったし、何かやらかしてもすぐに渡さんが治してくれるから、好き勝手やったりしたろ。他のフロアでは、あんまり考えられないことだ」
知らず知らずに身についてしまった強さが、今回に繋がった、と銀は言いたいらしい。
「お前らが平凡な能力者だったら、Kクラスへの選択肢なんか出てきやしなかった」
「そんなこと言ったってもう」
「あーそうだ、んなこと分ぁってる。けど、言わなきゃやってらんねーよ」
銀が、煽るようにチョコアを飲み干した。
「本当に、いいんだな。Kクラス」
「うん」
「可愛くねぇな、マジで。ピアス、あんまり意味なかったかもな」
予想はしていたが、この見覚えのないピアスホールを作ったのも、銀だったようだ。もう隠すことはないから、とそのまま続ける。
「それは、本来持つ能力を六割に抑える効果を持つピアスだ」
「え?」
「優秀な奴がいるってばれないように、オレがつけた。もっとも、それの本来の装着目的は、任務中、過度なアンジュ放出によって自爆しないようにするためのものだ。アンジュ本部にいるやつで、主にエリートって呼ばれる奴らはみんなつけてる。最悪瀕死で命をつなげるように」
無意識に手がピアスに触れた。
「ピアスは家畜のものっていう考えは、そこから派生した意味らしい。アンジュ本部のエリートは、よほどのことがない限り、もう一生アンジュ本部にいなきゃいけない。逃げられないっていう意味で、誰かが家畜に例えたんだろう」
「そういえば、銀、わたしに強くなるなって言ってた……」
「ああ。いつかアンジュ本部に所属することは分かってたから。それまでに変な目を付けられないようにしたくてな」
まあ、それも無駄になっちゃったけど。銀が諦めたように、はは、と笑う。
「楓はどうするの?」
「お前らがKならKにするって言いそうだけど……」
「けど?」
「うん、まあ、それはオレからは話せない」
そう言って銀は、顎で扉の方を指した。
「終わったみたいね」
いつの間に扉を開けたのだろう。渡さんに手を引かれた間宮さんが、口角を上げた表情を崩さないまま、この出来事に終止符を打ちに来た。
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