第20話

「ヤヨイは今、国がボロボロなんだ。食糧難らしい」

「ウィート・トラップだ」


 梓がつぶやくのを見て、渡さんが「おいおい」と椅子から身を乗り出した。


「そんな言葉、どうして知ってるんだ? 教科書にも書いてないだろう」

「図書館で、調べて……」

「なんで」

「えっと……」


 梓が困ったように顔をしかめて銀の方を見た。


「いやいやいや、オレは言ってねぇよ」


 銀は、梓ではなく、渡さんの方を向いて手をぶんぶんと振った。


「少数派と多数派、強いのはどっちだ。どっちに属しているか。そこから考えろ」


 図書館で調べる。そこに至ったAの言葉を、読むようにして梓が言った。きっと、何度も頭の中で復唱していたのだろう。


「それ、オレ……」

「そう言ってたから。それだけが、ずっと、こびりついたみたいに頭から離れなかった」


 幼児部の頃から、好きでした。そんな告白をするくらい、梓は真剣な面持ちで銀を見つめた。一方銀は、突然のことであたふたとしている、鈍感な幼馴染み役をしているようだ。「あ、え、あ、え」と、目を泳がせ、首を三度、四度と傾ける。


「覚えがない、とか言わせねぇぞ」


 なかなか意味のある言葉を発さない銀に、梓が痺れを切らしたように言った。


「なに。さっさと言えよ」


 渡さんも、机を軽く叩き、次の言葉を促す。


「えっと、その……」


 銀は様子を窺いながら、少し溜をつくってから続けた。


「言ったのは言ったような気がするけど、それ、梓に向けて言った言葉じゃねぇよ?」


 キョトン、としたわたしの向かいで、梓が目を二度ぱちぱちとさせる。


「うぇ?」

「うぇってなんだ、うぇって。どういうことだ銀」

「オレの他に、記憶を消去するアンジュのさ、あだ名しか知らないけどジェニファーさんって人と、睡眠を促すアンジュの国木田がいたんスよ。国木田が、オレの記憶を全部消すなんて従わなくていいじゃないか、とかなんとか、上の決定に文句を言うものだから」


 つまり、あの言葉は梓でなく、国木田、という人への言葉だ。少数派、多数派、とは、上の命令に逆らうという意味の少数派、命令に従う、という多数派のことを言っているのだと推測する。


「じゃ、じゃあ……え?」


 梓が口元に少しばかりの笑みを浮かべてこちらを見てきた。笑って誤魔化そうとしているのか、状況が分からずに愛想笑いをしているのか。おそらく前者だろう。

 だが、ただの勘違いであったとしても、責める気になど、さらさらならなかった。きっと、得たものが大きかったからだろう。もちろん、後々失うものの方が多かったのだが、当時のわたしはそう思っていた。


「だが、だ。その勘違いでそこまでたどり着くものか?」

「それは棗が」


 渡さんに訊ねられ、梓が顎でくいっと棗を指した。


「棗? ああ、初めまして」

「え、あ、そうか。って、今さらかよ」


 銀が思わずツッコミを入れる。棗が入学したときには、渡さんは既に卒業していたため、今が初めての対面だった。おそらく、互いにずっと気づいていただろうが、ここでようやく渡さんが軽く挨拶をする。棗の方も、頷く程度に頭を下げた。


「噂はかねがね。それで? どうしたんだ?」


 棗は眉をぴくりと動かしたが、すぐに元のポーカーフェイスに戻った。


「そういう自分のポジションを知るには、周りとの距離から見るといいと考えた。だから、他の国に目を向けてみた。調べる時間は数時間しかなかったから、一番国同士の本音が見えそうな戦争を調べよう、てなっただけだ」


 棗が説明し終えると、渡さんは珍しく「ふーん」と唸ると、頷いてから二度ほど手を叩いた。初対面の相手に気を使うようなタイプの人ではない。お見事、と渡さんなりに褒めている様子だ。


「まあ、その通り、ウィート・トラップに引っかかったヤヨイは食糧難。調べたなら知ってるだろうけど、それから戦争が起こって、ヤヨイは一時期、ホノカの植民地になった」

「一時期だけ?」

「ああ。撤退してしばらくたった今、またヤヨイがちょこちょこホノカの土地を狙ってきてるみたいだ。偵察という名のちょっとした小競り合いをしてるところだ」


 小競り合い、と慣れたように言う銀。何度だって浮かんでくるあの光景を、今度は浮かぶ前に頭を振って追い出した。


「まあ、昔からずっとヴァンシッタート主義だって言われてるらしいし」

「ヴァン……え?」

「ヴァンシッタート主義。簡単にいうと、戦争が好きっていう考え方だ」


 そのような主義があってたまるか。そう言いたくなる気持ちをぐっと押さえていると、梓が遠慮気味に話を割った。


「ところで渡さんも銀も、今、どこで何をしてるんだ? ……ですか?」


 銀だけでなく、渡さんもいる、ということで、梓は敬語を無理やり付け足した。

 銀は渡さんに目配せをしようとしたが、渡さんは目を合わせることもなく、手をヒラヒラと振った。ここまで来たら勝手にどうぞ、というサインらしい。それを確認してから、銀はこちらに向き直った。


「オレたちは今、アンジュ本部にいる。アンジュ本部っていうのは、アンジュに関する全てのことを管轄する機関のことだ。もちろん学校のことも。色んなことをするところだと思ってもらっていい。今はさっきみたいなそういう……外交が主になってるけど」


 あの交戦を、銀はオブラートに包もうと外交、と言葉を変える。梓もきっと気になっただろうが、構わず質問を続けた。


「それが、境弥の森にあるのか? あの、銀が見たって言ってた館がそれか?」

「ああ。普段は結界で覆い隠されてる館がそうだ」


 銀がまだ同じ寮に住んでいた頃、出来心から、境弥の森に入ったことがあった。そのときに発見できなかったのは、きっと結界を張られていたからだ。きっと、柵のところで穴をあけることしかできなかったあの結界と同じものだろう。そのときには確か、楓は寮長から呼び出され、来ることができなかった。


 そうだ、楓。

 わたしは思い出したように、隣に座る楓を見た。彼は依然、ぐったりとしたままだ。トレードマークのきゅるんとした目は虚ろで、開いたまま瞬きをするのを忘れている。


「楓?」


 わたしは、楓の肩を揺らしてみた。が、セミの抜け殻のように軽くなった楓は、揺らされるがままだ。まだ、ショックが取れないらしい。


「うん……大丈夫。ちょっと、気分が悪いだけ、だから。気にしないで」


 いつものはきはきとした楓と、あまりの違いに、気にせずにはいられなかった。


「でも」

「楓、どう気持ち悪い?」


 渡さんが椅子から立ち上がり、楓のもとへ寄るなり、額に手を当てた。


「熱もある。お前、血とかかなり苦手だったもんな。ここまでよく耐えた。ちょっと休め」


 返事をする前に、楓はピンク色の柔らかな光に包まれた。渡さんの、治癒のアンジュだ。楓は力が抜けたように、椅子から崩れていくのを渡さんが受け止め、角にあった長ソファに寝かせた。


「大丈夫そうですか?」

「体はな」


 渡さんの返しに、銀の表情が固まった。そのときだった。

 ドアが開く音がした。ゆっくりとした足取りで、見知らぬ男性が入ってくる。そしてその後ろから、千秋にエスコートされながら入ってきたのは、これまた見たことのない女性だった。薄緑色のエンパイアドレスを身にまとい、上品なたたずまいだ。


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