第19話
あれから、梓の傷は、安静にする必要がないほど、渡さんと銀が手早く治療してくれた。ときどき、「そうじゃないって前も言っただろ」と渡さんが銀をたしなめているのも聞こえてきていた。
おかげで、梓はすぐに目を覚ました。切り裂かれた服や飛び散った血を見て卒倒しそうになっていたが、懐かしい三人の姿を見るなり、それどころではなくなっていた。
歩いても痛みもないらしく、梓はいつも通りに歩くことが出来た。そのために治療したのだから当然だ、と渡さんは言っていたが、千秋はずっと黙ったまま、眉間にしわを寄せたままだった。
ただ、一刻も早くこの森から出るように、と促され、森の中を歩き進めた。
道中、これからのことや、さっき目の前で起きていたこと、久々に会った三人のことが、頭の中をぐるぐると回っていた。回るだけで、何か考える、というところまでは行きつかない。三人といればもう安全だと言うのに、心臓がドクドクと動いているのが分かるほど、激しい動悸がする。
苦労してこじ開けた結界は、そのときだけ解かれていたのか、部分的に解いてもらったのか、先頭を歩く千秋がなんなく柵を開いた。
「学校だ……」
安心した、というよりは、なんだろう。物凄い違和感と共に、建物だけが立派なそれに、どこか怒りが湧いてきた。
一行は、初等部のそでにあった、学校が楽園だと勘違いしていたころには見向きもしてこなかった倉庫に入り、階段を下りていく。すると、地下通路のようなところに出た。当然、このようなところがあると知らなかった。
千秋は全て同じように見える道を迷うことなく、何度か角を曲がり、ひとつの部屋の前で立ち止まった。
「ここで待っていて。今後のことを話し合う。こうなったら、僕たちの手には負えない……もう一人か二人、立場の偉い人、連れてくるから。疲れてるだろうけど、ごめん」
「千秋」
「銀、さっきはごめん。ちょっと、気が動転していてね。気にしないで」
千秋は、渡さんに目配せをすると、来た道を戻って行った。
「とりあえず、入るぞ」
渡さんに促されるように入った部屋は、ごく普通の会議室だった。地下のため窓はないはずだが、地下感を消すためか、部屋にカーテンが引かれている。
とりあえず座ればいいのか。
何となく許可がいるような気がして、遠い記憶の二人を見た。暗いところでは分からなかったが、渡さんも銀も、同じような服装をしている。アンジュ学校の制服とは違うが、ホノカの国旗が入っているため、どこかの組織に属していることが分かる服装だ。そして、二人とも、ところどころに血が飛んでいる。自分の血、というよりは、他人の血を浴びたような感じだ。渡さんに至っては、袖口にべったりと、固まった黒っぽい血が付いている。
それを見ていると、渡さんと目が合った。なんとなく気まずく感じ、わたしは、目をそらして手近にあった椅子に座る。
「汚ねぇなあ。ちょっと着替えるわ」
渡さんが袖口を見て、そう言った。
「え、着替えあるんすか」
「俺のだけな」
えー、と銀の不満そうな声が、随分遠くにあるように聞こえる。おかしいな。すぐそばでしている会話なのに。わたしは何も置かれてないテーブルを、ただ見ていた。
銀もこちらに来て、手ごろな席に座った。銀は着替えが必要なほど汚れておらず、凝視しなければ気にならないほどだ。
「渡さんは、重傷者の手当を主にやってるからさ。血、付いちゃうんだよな、どうしても」
渡さんに付いた血が渡さんのものではないと説明するためか、はたまた渡さんがあの蝶のような女と同じことをしたのではないと、と安心させるためか、銀は言った。
「お前ら、大丈夫か?」
大丈夫、の意味をどの意味で捉えたらいいものか、あまり動かない頭で考えているうちに、銀が続けた。
「千秋も千秋だ。もしかしたら、俺たちだけで隠し通せたかもしれないのに」
「そういう問題じゃない」
軽口を叩いた銀をたしなめるように、渡さんが言った。さっぱりとした白シャツに着替えを済ませ、席につく。
「言いたいことが分からんではないがな。それが的場千秋って男だ。それが長所であり、短所でもある」
まだ何か言いたそうな銀だったが、小さく口を尖らせたまま、言葉は発さない。それを見た渡さんは、ガキかよ、と、ため息をつくと、言葉を続けた。
「だからお前も、千秋を信用して止まないんだろうが」
その言葉に、銀は一瞬むっとしたが、やがて小さくうなずいた。図星を言い当てられ認めたくなかったが、納得するものだったようだ。
「さあ、どうするか」
渡さんは椅子の上でそっくり返った。あー、と無意味に言葉を発す。不満とため息が混ざった声だ。
「……あれが、嘘だと思うか?」
しん、と静まり返ったなか、渡さんは、こちらに話をふってきた。
「まあ、そんなわけないんだけど」
嘘なら良かった。嘘であって欲しい。そう願っても無駄だと、わたしたちもとっくに気が付いていた。わたしたちの知っていた世界は、誰かによって作られた、美化された世界。その裏で何が起こってるかなど、何も感じさせない。今考えると、おかしな世界。
「話すんですか」
低い声で、銀が言った。
数時間前まで、銀の存在さえ、忘れていた。忘れさせられていた、と言ってもいいかもしれない。その彼が今、当たり前のように目の前にいることが、やっと不思議に思えた。
現実を、頭がようやく理解しようとし始めたらしい。
「まあ、そうだな。どこまで察しがつく? 梓?」
皆が黙り込んでしまっているので、渡さんは名指しした。
「……俺たちは、ずっと、守られていた。分からないように。記憶まで消してくる奴もいたし。ホノカは今、ヤヨイと戦争か何かをしていて、それと戦ってるのが、銀や渡さんたちだ」
梓が静かに言った。
「だいたいは合ってる。まあ、まだ戦争じゃないけど」
「あれで戦争じゃないのか……ですか?」
「あれは単なる威嚇だ。宣戦布告はされてない」
何度でもリフレインする、篠が遊びつくした残骸。威嚇であんなにも非情なことができるのか。
「お前らが会った、篠っていう女は、組織の中でも狂ったやつだから」
皆の気持ちを察した銀が、説明してくれる。
「千秋くらいのレベルにまでなると、雑魚に見えるのかもしれねぇけど」
銀の記憶がなくなったのは、おそらく、秋頃だろう。銀は突然、姿を消した。だが、森で銀の顔を見たとき、ぽっかり空いた記憶の穴に、すっと記憶が戻ってきていた。
トランプ大会の夜。
「守るから」
そう言って、姿を消していった銀。きっと彼は、何かを知っていた。馬鹿なことが好きなわたしたちと接していた時間。少なくともトランプ大会のときには、あの醜い世界(げんじつ)を、知っていたはずだ。
何からどう咎めていけばいいのか、分からない。咎めていいのかも、分からなくなってくる。
今の銀の話も入って来ず、ゆっくりと状況を飲み込めてきた頭が自分勝手に動き出す。
知らない方が良かった現実? 知らずにのうのうと生きるべきだったのか? 幼い頃から面倒を見てもらっている彼らが、どうなっているか分からないままに? 記憶を操作されてまでして、手に入れなければならなかった嘘の幸せなど……
綺麗ごとを並べるとしたら、そうなるのだろう。だが、急に失った平凡な暮らしを、綺麗ごとだけで、はい、どうぞ、と差し出せるほど、わたしの心は良く出来ていない。
嘘の幸せでも、嘘だと知らずに手に入れておきたかった。そして、千秋や渡さん、銀とそのような世界で楽しく生きていたかった。
だが残酷なことに、幸せは、誰かのうえに成り立っているのだ。
犠牲を最小限にとどめることで、大多数が幸せになる。だから大多数しか見えていなかった、わたしたちのような人間は、全員が幸せだ、と勘違いするのだ。
「もう、どうにかなっちゃいそう……」
考えることすら、もうしたくない。
「……答えれる範囲なら、全部答える。何か、ないか?」
むしろ説明してくれるべきではないのか? わたしは下を向いたまま、むっと顔をひそめた。
「エリカ、顔に出てる」
渡さんが、ぷっと吹きだすようにして笑った。十分に笑いきると、表情を一変させ、座っているキャスター付きの事務椅子の上で姿勢を正して言った。
「まだ深海魚以下やってるわけ?」
その声は、以前言われたときよりもずっと心に響いた。重く。
渡さんの言う深海魚以下は、滅多にくるチャンスさえつかめずに、誰かに頼ってばかりの人間のことだ。以前言われたのは、七歳の時。あのときと今に共通する点は、頼るしか方法がない、ということだ。
「だって、普通は質問じゃなくて、そっちが全部説明してくれるものじゃないの?」
「普通って?」
間髪入れずに渡さんは切り替えしてきた。
「普通って言うのは……」
「こんな汚ねぇ現実見せられて可哀想なあたし。そっちが勝手に現実隠してきたんだから、さっさと誰か助けろよ、とかなんとか言いたそうな顔しやがって」
姿勢を崩し、背を曲げて机に頬杖をつくと、わざとと思えるほど大きくため息をつく。
「全っ然成長してねぇのな」
その言葉は、渡さんとの間に、線を引かれた証拠だった。
「ちょ、渡さん。エリカたちはまだ」
「まだ中学生だから大目に見ろ。なんて、言わないだろうな?」
「それは……」
銀が口ごもったのを見て、渡さんは左手で自分の頭をわしゃわしゃとかきまわした。
「あーもう、分かった。けど、俺はエリカを甘やかす気はないから」
「なんでエリカにこだわるんだよ……」
ぼそっと言った梓の言葉を、渡さんは聞き逃さなかった。
「あ? 俺の弟子の出来が悪いと俺のせいになる。その弟子の弟子の出来が悪くても、俺の名に傷がつく」
すべては自分に繋がる、という持論を掲げる渡さんは、他人にも自分にも厳しい。
「エリカ」
渡さんは少しだけ口調を穏やかに、言葉を続けた。
「分からないこと、助けてほしいことがあるなら、自分から聞け。分かるまで聞け。相手がウザったそうな顔をしたら俺に言え。いいな」
あ……
固まっていた血液が、流れていく。その流れに便乗した涙が、一つ、また一つ、と頬を伝った。
誰も助けてくれない、信頼していたはずの人に線を引かれた、そんな受け身で被害妄想、自分勝手な考え方。
わたしは、自分のことしか考えていないのだ。余裕があるときには他人に気をまわしているだけに過ぎない。
窮地に立たされたとき、本心が見える、と聞いたことがある。自分のことばかりだ。この部屋にきてから、わたしはどんなことを考えた? 仲間の姿を、心を、見ただろうか。そちらを見ることもせずに、人の感情を勝手に想像して、きっとみんなわたしと同じだと、そのように考えていたのではないだろうか。
わたしは少しだけ、顔を上げた。
わたしはこのとき、初めて気が付いた。隣にいる楓は、わたしと同じようにずっと下を向いたままだったが、梓と棗は、顔を上げている。相変わらず棗は無表情だったが、梓は不安な顔をしたままでも、今にも泣きそうな顔をしながらも顔を上げている。
わたしは汚れた袖口で涙を拭うと、斜めに座っている銀を見て言った。
「教えて。何が、起こってるのか。わたしたちは、どうなるのか」
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