第18話
「何、してるの……」
「戦うしか、ねぇじゃん?」
口調はいつも通りだったが、声は震えている。
「俺はクマを。お前は女だ。絶対にそこから下がるなよ」
「それはこっちの台詞だ」
「あら、訓練生なのに偉いのね。嫌いじゃないわ」
篠が軽く手を払うと、一挙に二十センチほど伸びた爪が棗を襲った。すんでのところで棗がかわす。髪の間から、シルバーのピアスが光を反射すると、篠の顔が酷く歪んだ。
「ピアス……訓練生の分際で、ピアス? 笑わせないで」
篠の目が、カッと開いたかと思うと、勢いに任せて腕を振るった。棗はすばしこく、うまくその爪を避けている。が、篠の爪が振り下ろされるたびに、こちらとしては体が引き裂かれていく思いだ。棗は、篠の一瞬の隙をつき、眩い炎を彼女に浴びせかけると、自身との間に、炎のカーテンを引いた。
棗の攻撃は、寸前のところでかわされたようだが、左腕の手首から肘にかけて、火傷とみられる傷が見える。完全に回避することは出来なかったらしい。
篠が憎悪の表情を浮かべ、血走った目で棗を睨み付けると、今度は爪を振るうことなく、一メートル先の棗に向けた。
わたしは咄嗟に、二人の間に結界を張った。篠が口角を引き上げたとき、爪は瞬きをする間もなく伸び、棗の喉元をめがけていた。結界がなければ、爪が棗の喉を貫通していたかもしれない。
「ちっ」
結界に気が付いた篠が、こちらを見て舌打ちをした。
「エアちゃん、僕も力になる」
まだ気持ちの悪そうな楓だったが、わたしの肩のあたりに手を置いた。彼は他人の能力を高めることができるアンジュだ。わたしは頷くと、手から流れてくる力の波を、体の中で馴染ませる。
棗は炎のカーテンを引いたことで、接近戦が得意の篠を封じていた。いつまた爪が伸びてくるか分からなかったが、距離をとればどうにでも対処は可能だ。
わたしははっとして、梓の姿を探した。
クマ男が篠を助けられなかったのは、梓が念力で加勢を足止めしていたからのはずだ。棗が篠を襲っていたため余裕がなかったが、棗を諦め、篠が梓を襲ったら……その背中はがら空きで、簡単にやられてしまう。もし篠が気づけば、ひとたまりもない。
そちらにも強固な結界を張ろうとしたとき、タッチの差で篠の方が早かった。しめた、と目をぎらつかせた彼女の爪が、梓の背を貫こうとしている。結界の成形が……
「間に合わないっ」
結界を作るには、時間がかかる。いつもはほんの一、二秒だ、と気にすることもなかったが、今の場合、それではダメだ。梓が刺されてしまう。わたしは咄嗟に、梓を包むベールを強化する方に力をまわした。痛みはあっても、すぐに治せば死にはしないかもしれない。わたしは楓の力を借り、ありったけの力を梓に注いだ。
それは、スローモーションのようだった。
梓が直前で篠に気づき、振り返る。爪はもう、彼の胸を貫こうとしていた。梓は爪から逃れたいという一心で体をよじると、爪は急所ではなく、わき腹を通過していった。切り裂かれた個所から血が勢いよく飛び散る。これが、血しぶき、というものなのだろう。人間は、ありえないと考えていたことが目の前で起きたとき、妙に頭がぼうっとしてしまう。このときのわたしが、そうだったように。
耳を塞ぎたくなる梓の悲鳴で、わたしは我に返った。
「梓っ」
棗が炎を消し、腹を切られうずくまる梓と篠の間に飛び込んだ。梓を庇うように手を広げる。梓のアンジュが切れ、封じられていたクマ男の身も、自由になってしまっている。棗が、挟み撃ちにされる。助けなくては!
「よせ!」
わたしは駆け寄ろうとしたが、腕を強く引き止められる。
「離してよ楓!」
「違う……僕じゃない……」
「離してよっ! 棗が!」
わたしは無理やりその手を振りほどこうと暴れたが、かえって強引に引き戻された。楓に、こんなにも力があるとは思っていなかった。だが、背に腹は代えられない。楓を蹴り上げてでも棗のもとへ行かなくては!
そう思い、振り向いたときだった。
「……っ」
「もう大丈夫」
懐かしい顔がそこにあった。
抱きかかえるように、体ごと引き寄せられ、その人の胸に収まった。知っている。ああ、そうだ。
「どうしてあんたたちがここにいるのよ」
篠の声で、わたしは棗の行方を追った。篠とクマ男との間に氷柱が刺さっている。棗は無事だ。
「えっと……あ、後方部隊が~、蹴散らされたみたいですね~」
「あれだけの数がいたのに!? 何をしているの? この役立たず!」
篠が怒り狂って、クマ男をなじる。
「えっと、俺に言われても~」
篠は、棗の前に立ちふさがった背の高い青年を、キッと鋭く睨んだ。
「A級になりたての戦士が、僕にかなうの?」
「……無理よ」
篠が大きくため息をついて首を横に振った。
「こいつに敵いっこないわ。帰るわよ」
篠は一度こちらを振り返ると、クマ男と共に、闇の中へと消えていった。
「こちら、千秋。Cの13地点で篠と大男を取り逃した。追って」
小さなマイクに向かって、指示を飛ばす、千秋。
千秋だ……わたしをこの学校へ連れてきた、千秋。元生徒会長だ。そして、安心させるようにわたしを抱きしめたままのこの男の人も、知っている。
「ギン兄……?」
「うん」
銀。
名前も、姿も、すっかり忘れてしまっていた、銀だった。Aという名で、わたしたちの記憶にこびりついて離れなかった彼だ。しかし、再会を喜んでいる暇はない。梓が怪我を負っているはずだ。
駆け寄ると、千秋が梓の服をめくり上げ、傷口を確認しているところだった。
「ふさがってる。出血も少ない。切られた瞬間に治したような……もしかして、エリカ?」
「治療、あってる?」
泣きたい気持ちになりながら、銀の方を向いた。銀は、わたしの頭を二度、ぽんぽん、と叩くと、梓の体を調べる。
「脈は正常。傷口も綺麗だし、呼吸も穏やかだ。きっと、痛みで気絶しただけだと思う。大丈夫。むしろ、よくここまで正確に出来たよ」
その言葉を聞くなり、わたしの足から力が抜け、すとん、と地面に座り込んだ。膝がガクガクと笑っている。
「お前らも、怪我はないか?」
三人とも、小さくうなづいた。棗は千秋のことを知らないが、楓は知っている。楓ほどの愛嬌を持つ者なら、久々に見る千秋にすり寄っていっても不思議ではなかったが、きっと、気持ちは同じなのだと思う。頷くので精一杯だ。
世界に、裏切られたように感じた。わたしたちが勝手に作り上げていた、嘘の世界。それが、もろもろと音をたてて、崩れていった。だが、音のわりに中身は空っぽで、発泡スチロールで作られたように、軽い。次に目の前に現れたのは、血で塗られた鉄の門。
「久々の再会が、こんな形で残念だ」
千秋の声は、怒っていた。低く、わたしの知る千秋ではないような声だ。
「どうして、ここへ、来た。なんのために、俺たちが」
「千秋、そんなに怒鳴らなくたって」
「お前も! 記憶まで操作して、お前に関する記憶を、全て消したんだろう!? そこまでして守りたかったんだろう!? けど、もう全部無駄だよ。本部にはきっと知られちまう。いや、こんなものを見た時点で、もう、ダメじゃん……」
千秋が、全てのやる気を失ったように、頭を抱えてその場に座り込んだ。
「おいおい、探した。って、は!? ちょ、どういうことだ?」
この声は、渡さん。きっと、細い目をもっと細めて、怪訝な顔をしているはずだ。わたしは、ゆっくりと顔を上げた。
久しぶりの再会。全員、揃った。
揃ったのに、誰一人として嬉しさなどない。銀、千秋、渡さんはおそらく、わたしたちのいるこの状態をどうしようか、と呆然としているのだろう。そしてわたしたち三人は、もう、考えることも放棄したように、ぼう、と空中を見ている。
わたしたちの知らない本当の世界。そして、先人たちが、必死に隠そうとしてきた世界。
次世代を守ろうと、隠してきた、汚い世界。
きっと、何も知らせずに、綺麗な道だけを歩ませようとしてくれていたのだろう。それが幸せなことだと、信じて疑わず。そして自分たちは、その人たちのためだ、と思い、汚い世界でも頑張って生きることが出来る。
絶妙に保っていたバランスが、今、トランプの塔ごとく、崩れていった。
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